きせきのようにはれやかなそらに
1
「好きなんだ」
こちらをまっすぐに見つめるターコイズブルーは、コートの上で相対した時の獰猛さしか知らない人からしたら全く想像もつかないだろう真摯で穏やかな、――けれどこれまで見たことがないくらいに緊張した色を湛えていた。自他共に認める最高のライバルであると同時に、数少ない大切な親友だと思っていた男の突然の言葉にダンデは何も答えられず、ぽかんとして目を瞬かせる。その動きさえも見逃さないとでも言うくらいに、キバナの目はダンデの一挙手一投足を見つめ続けていた。ダンデが動く度に、キバナの瞳がほんの僅かに揺れる。
真剣で、優しく、しかし彼らしくない緊張の色も隠しきれてはいない声色に、その「好き」に込められた意味を改めて本人に問うまでもなかった。名前の分からない熱が、ダンデの内側からじわりと滲んでくる。
ダンデは同世代の人たちと比べたら圧倒的にそういったことには疎いのは間違いない。けれど、何も知らないわけでもない。自分だって成人を過ぎたし、職場であるバトルタワーやリーグ委員会の職員たちは年上の方が多い。職場で、近しい交友関係で、恋愛や結婚の話題を聞くことも年々増えてきていた。恋の話をする彼ら彼女らはとても幸せそうで、こちらも嬉しい気持ちになった。好きな人に好かれて、思いを通わせるのはきっと他の何にも代えがたいくらいに幸せなことなんだろう。それが実感としてわからないことに寂しさが全く無いわけではなかったが、それ以上にポケモンバトルをすることや、自分の夢を追いかけることが楽しくて仕方が無かった。自分にはまだまだ縁の無い話だと思ってばかりいた。
思っていたのに。
(――そう、だったのか)
ダンデは心の中でそう呟いて、キバナを見つめる。
ブラックナイト、ローズさんの自首、チャンピオンの交代、バトルタワーのオーナー就任。あの怒濤の日々から早数ヶ月が経つ。慣れないリーグ委員長兼バトルタワーオーナー業。これまでガラル社会においてあまりに大きな存在だったローズさんという柱を失い、しかもガラルの象徴的存在として十年君臨したチャンピオンも交代したとなれば、いい反応も悪い反応も全部含めてガラルは大きく揺れた。変化に動揺や混乱はつきものだ。だからこそ、どうにか愛するガラルを元気にしたい、もっともっと美しく楽しく素晴らしい地になれるはずだと、がむしゃらに走り続けた日々だった。幸いにしてダンデは目標に向かって夢中で走ることは楽しくて仕方が無かったし、新チャンピオンのユウリもジムリーダーたちもホップもソニアも、そしてガラルの人々もそれぞれに力強くまた走り始めた。あの大きな事件がほんの数ヶ月前にあったとは思えないほど、今ガラルの街も人々も元気で幸せそうだ。
そうして諸々の処理も片付きダンデの新しい仕事も軌道に乗り、新しい日々にだいぶ慣れてきたタイミングでキバナから「今度お互いの休みが被ったら久しぶりに遊びに行こう」とメッセージが届いた。ダンデは嬉しくて二つ返事で了承をした。キバナと遊びに行くなんて久しぶりだ。完全にプライベートで一日遊ぶなんて、もしかしたらもう何年もしていなかったかもしれない。想像するだけでダンデの気持ちは浮き足立った。
約束の日は昼前にシュートシティで待ち合わせて、キバナおすすめだというカフェでランチ。チャンピオン時代の癖で飲むようにサンドイッチを食べようとして、キバナに苦笑しながらたしなめられてハッとする。今はチャンピオンとして日々分刻みのスケジュールに追われているわけではなく、キバナとの完全プライベートだ。急いで食事をして次の予定に駆け出して行く必要はない。一口ずつ味わって、「美味しいな!」と笑えば、キバナは「そっか」と言ってダンデが不思議に思うほど嬉しそうに笑っていた。
その後はやっぱりポケモンの話になって、うっかりシュートシティの公園にある小さなコートでバトルをしたくなってしまったが、こんなところで元チャンピオンとトップジムリーダーがバトルなんてしようものなら目立って仕方が無いから「次の機会にちゃんとした場所で」ということで渋々諦めた。そのカフェが入っているビルはショッピングモールになっていたので、腹ごなしの散歩がてら少し見て回る。キバナは服を、ダンデはキャップを、そしてそれぞれ自分のポケモンたちが好きな味のポケフードを買う。思っていたよりもかさばってしまった荷物を持ちながら途中でスーパーにも立ち寄った後、シュートシティの中でも高級で閑静な住宅街、厳重なオートロックに守られたダンデのマンションに二人で帰宅した。夕飯はどこかのレストランにでもしようか、という話に一瞬はなったが、キバナが「久しぶりだし、ダンデとゆっくり話せるところの方がいいかな」と言ったので夕飯の場所はダンデの自宅になったのだった。
家に着くとまずは二人のポケモンたちをボールから出して、リビングでのんびり遊ばせてやる。二人とも手持ちには大型のポケモンも多いが、皆を放してもなお余裕のある広さだ。チャンピオンになったばかりの頃、実家であるハロンタウンからシュートシティへ住まいを移すことになった。その際にダンデが出した家探しの唯一の条件は「ポケモンたちと過ごせる家」。そこからローズさんがすぐに見つけてくれたのがこの家だった。
ダンデはチャンピオンになった十歳の時から、ずっとこの家に住んでいる。最近こそお互いに忙しくてそんな機会もなかなか無かったが、お互いに幼いころから最近に至るまでキバナも何度かこの家に訪れたことはある。だからキバナもある程度慣れた様子で、先程スーパーで買った食材をキッチンに並べていく。ダンデはあまり使っていないが故に綺麗なキッチン用品を棚から取り出す。ダンデは自炊が全くできないわけではないが、自炊に費やす時間はそもそも仕事が忙しいから物理的にあまりなかったし、あったとしてその時間を使ってポケモンバトルのことを考えたいという質だった。対してキバナはたしなむ程度の趣味として料理ができる男で、ダンデはSNSには疎いから投稿そのものはほとんど見たことがなかったが、彼のSNSにもたまに自炊写真が上がっているという。だから今日のキッチンはキバナに主導権を任せて、ダンデは補佐に回ることにした。料理はガラル市民大好き料理のカレー。カレーくらいはダンデでも作れるが、一緒にキャンプをした時などに食べたキバナの味付けのカレーはダンデが作るよりも少しぴりっと辛くて、それがとても好きだった。
手際の良いキバナのおかげもあってスムーズにカレーは完成し、お互いのポケモンたちの分を皿によそった後、自分たちの分をよそう。できたてのカレーは本当に美味しい。記憶の中にあるキバナのカレーよりももっと奥深く、少し渋みもあるピリ辛のカレーは昼間の反省もあって流石に飲みはしなかったがあっという間に完食した。二人のポケモンたちも皆美味しそうにカレーを食べていて、それをキバナと一緒に微笑ましく眺めていた。
洗い物をしながらまたポケモンの話をして、一息ついて、一人で座るには広すぎる革張りのソファに二人で座って、冷蔵庫で冷やしておいたお酒も軽く嗜んで。今日は本当に楽しかったなと余韻に浸る。ポケモンたちはもう眠そうだったので一足早くボールの中で休ませることにした。食事の時は賑やかだった部屋の中が、穏やかな静寂に包まれている。
チャンピオン・ダンデでも、バトルタワーオーナーやリーグ委員長のダンデでもなく、一人のダンデという人間として久しぶりにこんなに充実した時間を過ごせたのは、思っていた以上に嬉しく楽しかった。周囲の人間からも、職場の人々からも「たまには休め」とせっつかれていたことを思い出す。それに「ありがとう! でも大丈夫だぜ!」と言って撥ねのけて走り続けたことに後悔はないしこれからもそうしてしまうだろうが、でもこういう時間を過ごせるならたまには思い切って休むのもいいなと思う。
何より、これは相手がキバナだったからだと思う。キバナと出会ったのはお互いトレーナーとしてだったが、いつしか友人としても意気投合し、こうして楽しい時間を過ごせる相手になったというのはダンデにとってとても嬉しいことだった。
時刻は午後十時に近くなっていた。そろそろキバナは帰る時間だろうか。時計を見て名残惜しく思っていたところに、「ダンデ」とキバナの真剣な声が名前を呼んだ。
先程までの気安い口調とは変わって堅さを含んだその声色に、どうかしたのか、と聞こうとキバナの顔を見上げて、言葉が喉元で止まる。キバナの表情は、ダンデが決して短くない付き合いの中でこれまでに見たどの表情とも違っていたから。
「ダンデ、ちょっと聞いて欲しいんだけど。……オレは、ダンデのことが――」
そうして話は冒頭の言葉に繋がる。
キバナは確かにダンデの顔を見て、ダンデの名前を呼んで、その言葉を口にした。この空間にはオレたち二人しかいない。相手なんて間違えようがない。確かにアルコールは入っているが、度数の弱い缶を二本程度だ。酒に強いキバナがこのくらいで判断力を鈍らせるわけもなかった。
なによりキバナの声色から、表情から、その思いの真剣さが滲み出していて、ダンデの心の中に不思議なほど素直にキバナの言葉がまっすぐ落ちてきた。
――そうだったのか。キミはそういう風に、思ってくれていたのか。
同世代の人々が恋を楽しむ年頃になっても、ダンデはそれには目もくれなかった。それよりもバトルをすることがずっと楽しくて仕方がなかった。いつだってダンデが何よりも夢中になり続けたポケモンバトル。そのステージで誰よりも食らいついてきてくれた、きっと一番ダンデと近い気持ちで走り続けてきてくれた、ダンデが一等愛するポケモンバトルに対する熱を分かち合える相手であるキバナが。オレをそういう目で、見てくれていた。こんな風に真剣に、しかし間違えようのない優しさと愛情のこもった眼差しをもって。先程までは気の置けない友人としての顔ばかりを完璧に見せてきたというのに。いつからそう思ってくれていたのかは分からないが、よく今日の今まで隠し通したものだとダンデは器用で優しいこの男に感嘆するほどだった。
今まで「他人事」だった恋愛が、急に自分の目の前に現れる。他でもないキバナによって。
嫌悪感などひとかけらもなかった。その代わり嬉しさと少しの動揺と気恥ずかしさと、さまざまな感情が渦を巻く。
「突然言われても困るよな、ごめん、でも伝えておきたかった」
キバナは形の良い眉を少しだけ下げて、でも目はまっすぐにダンデを見たままで。ぽつり、「もう後悔はしたくないんだ」と、ダンデの家の空調の音にさえ遮られてしまいそうなほど小さな声でキバナが零した、気がした。ダンデがその意味を聞き返すよりも前に、キバナの手がそっとダンデの手の上に重ねられる。これまでの試合の後に握手をしたり迷子になりかけたダンデの手を引いてくれたりなどその手に触れたことは何度かあったけれど、そのどれとも違う。甘やかで、そして壊れ物を扱うかのような優しさが触れた手の感触から、温度から伝わってくる。キバナの手はあたたかく、ダンデの手よりも少し大きい。バトルの時には吠えるような仕草をするその手が今はあまりにも優しかった。
「……嫌だったら振り払ってくれていい。そうしたらオレは、今後二度とこの話はしないから」
手が触れて気が付いた。キバナの手は、ほんの僅かに震えていた。
ダンデははっとして、キバナの褐色の手を見た後、キバナの顔を見上げる。目が合う。キバナが再び口を開く。
「――オレにダンデの一番近くにいる権利をくれ」
声は震えていなかった。その目は真正面からダンデを見つめる。しかし手だけは、ほんの少し、隠しきれていなかった。
「チャンピオン・ダンデでも、バトルタワーオーナー兼リーグ委員長・ダンデでもなく、ダンデの隣にいたいんだ」
こんなことを。他でもないキバナに、言われてしまったら、もう。
ダンデはキバナが触れている方の手を僅かに動かす。その仕草だけで、キバナの肩がピクリと揺れた。キバナが変な勘違いをしないうちに、手早く手を広げてキバナの微かに震える手に正面から絡ませる。きゅ、と握ると、キバナが目を見開いた。
この衝動につける名前は何が適切なのか、今のダンデにはまだ判断がつかない。だけど。
ぶわりと沸き上がる衝動と、熱と、たまらない嬉しさと、気恥ずかしさと、優越感と、幸福と、何もかもを全部ひっくるめて。
「オレは」
ダンデが口を開くと、キバナはじっとダンデの言葉を待つ。ダンデはすう、と大きく息を吸って、呼吸を整えてから続きを口にする。
「……オレは狡いのかもしれないな。これが恋なのか、まだわからない。だけどオレはこの手を離したくないと思ってしまう」
キバナが、目を瞬かせる。その仕草がスローモーションにさえ見えた。ダンデよりも短い、けれど黒くて美しい睫毛が縁取る色の美しさにこんな至近距離で見て改めて一瞬見惚れた。そしてその瞳にいっぱいに映っているのが自分であるということが、この男が自分の一番近くにいたいと言ってくれるのが、どうにも嬉しいと思ってしまった。
これは恋なのか。それともただの友愛や親愛を勘違いしそうになっているのか。分からない。けれどこれは確実に、初めての衝動だ。そっと伸ばされたこの優しい男の手を離したくない。胸中に渦巻くどの感情よりも確かな衝動がダンデが今出せる答えだった。
「……オレはキバナの思いには応えられるかわからないが、それでもいいなら、」
「いいよ」
ダンデの言葉の途中で、これまでダンデの言葉をじっと待ってくれていたキバナが言う。
「応える、とか、考えなくていい」
ダンデが繋いだ手を、キバナが握り返す。力強くも優しいその手は、もう震えてはいなかった。キバナはほっとしたような表情をして、目を細めて、嬉しそうに、やわらかく笑う。
「じゅーぶん」
そう言ってこの上なく愛しいものを見るような目でこちらを見るキバナは、ダンデが今までに見たことのない表情をしていた。そわそわと落ち着かないような、けれど嬉しい気持ちになる。今日は今までに知らなかったキバナを沢山知った。それもまたダンデにとって嬉しいことだった。
二人の関係に新しい名前がついて、初めて出会う感情に戸惑って。落ち着いてきたと思った日々がまた一気に新しく塗り替えられた夜。他の誰にも知られず密やかに、二人の間の色んなものが変わった、そんなひとつの夜。
ダンデはまだ自分の気持ちは分からないことだらけだったけれど――この気高く強く美しい男が、オレを好いて、唯一の場所に置いてくれようとする。
それがダンデにとってこのうえなく嬉しいことは確かだった。
◇
遠くからでもよく目立つ長身と彼のトレードマークとなっているオレンジのヘアバンドを廊下の少し先の方に見つけて、ダンデは無意識に顔を綻ばせた。駆け寄って、「おはよう、キバナ!」と声をかけると、キバナは振り返ってダンデに笑いかける。
「おはよ」
今日は数ヶ月後に控える来期のジムチャレンジ及びその後に控えるトーナメントについて、リーグ委員会とジムリーダー、そして新チャンピオンも交えての初めての打ち合わせが行われる。場所はここ、ローズタワー改めバトルタワー。前回のジムチャレンジからもうすぐ一年が経とうとしているということに驚かされる。月日の流れは本当にあっという間だ。目的地は同じだから歩調を合わせて一緒に会議室に向かいながら話をする。
「ついにリーグ委員長としての本格始動だな」
「ああ。……この立場としてジムチャレンジやトーナメントに参加するのは初めてだから少し変な感じだぜ」
言いながら、ダンデは自分の服をちらりと見る。自分が身に纏っているのがチャンピオンのマントではなくバトルタワー用のユニフォームでもあるクラシックな燕尾服であることも、自分がプレイヤーとしての立場でないことも、何だか変な感じだった。
リーグ委員会の仕事はジムチャレンジのオフシーズンにも細々とした下準備や調整などはあるが、やはり本格始動と言えるのはこうしてジムチャレンジの準備が本格的に始まる頃からだ。これまでジムチャレンジャーとして、そしてチャンピオンとして参加はしてきたものの、リーグ委員長としての肩書きをもって参加するのは初めてのことだ。これまで自分が見てきたローズさんの背中を思い出しながら、そして優秀なスタッフたちに支えられながらしっかりと準備を進めているつもりだが、やっぱり多少の緊張やそわそわと落ち着かないような気持ちは拭えない。
「でも、今年はどんなチャレンジャーが来てくれるのか、チャンピオンのユウリやキバナたちジムリーダーがどんな戦いをしてくれるのか、本当に楽しみだぜ!」
だけど、それ以上に楽しみでもあるのだ。本心からの言葉を口にして笑うと、キバナもふっと楽しげに笑った。
「ダンデらしいな」
キバナとダンデの横を、何人ものリーグスタッフが忙しなさそうに通り過ぎていく。そして人が行き交うのがふと途切れたタイミングで、キバナは少しダンデの耳に口を近づけて、小声で「この後のご予定は?」と聞く。ライバルであり友人であるキバナ、から、それ以上の関係へと密やかにスイッチ。内緒話が聞き取れるように、しかしもし人に見られたとしてもギリギリ友人として言い訳できる程度の距離を保って投げられたキバナからの問いに、ダンデは表情を変えずに小さな声で返す。
「今日はこの後、夕方からタワーの方の会議があって……少し遅くなるかもしれないが、それでもいいなら」
「おっけ。オレさまもちょっと仕事たまってるから、片付けたら家行くわ」
「オレがまだ帰ってなかったら合鍵使って入ってくれ」
「ん」
二人にしか聞こえない会話が途切れて、キバナが自然な仕草で先程詰めた距離を元に戻す。そのタイミングで廊下の角から現れたリーグスタッフがダンデの姿に気が付いて声をかけてきた。
「あ、委員長! すみません、今よろしいですか」
その声が耳に届いた瞬間、キバナは何事も無かったかのようにするりとダンデの隣から離れる。
「じゃあまた後で」
「ああ」
キバナがそう言って上げた右手に、ダンデも軽く右手を挙げて応える。キバナは長い足で再び廊下を会議室の方向に向かって歩き始める。先程までの秘め事のような空気はキバナのからっとした声色ですっかり霧散していた。
「大丈夫だぜ。どうかしたか?」
キバナが立ち去ってダンデがリーグスタッフの方へ向き直ると、リーグスタッフは少しぼうっとした様子でこちらを見つめている。不思議に思ってダンデが顔を覗き込むと、はっと我に返ったようだった。慌てふためいた様子で「あっ……、すみません!」と謝ってくる。
「ぼーっとしてしまい申し訳ありません。実は私、昔からダンデさんとキバナさんのバトルをテレビで見……拝見していて、憧れていたもので……。ちょっとお二人のツーショットを見てあの頃の気持ちに戻ってしまいました。失礼しました」
恥ずかしそうに頭を掻くリーグスタッフの姿を見て、ダンデは微笑ましい気持ちになって顔を綻ばせる。
「そうだったのか! 嬉しいぜ、ありがとう」
目の前にいるリーグスタッフの彼はまだこの仕事に就いて間もない。ダンデがリーグ委員長に就任した後からここで働き始めたはずだ。見たところダンデやキバナとそう年の頃も変わらない、若い青年である。人々から憧れの目線を向けられることや、昔から見ていましたと言って貰えることはありがたいことに沢山あったが、そのひとつひとつをダンデは新鮮に嬉しく思う。
「インタビューではよくお互いのお話をされているのを拝見していましたが……本当に仲がよろしいんですね」
彼は手に持っていた分厚い資料をぱらぱらと捲りながら何気ない様子で口にする。――『仲がよろしいんですね』という言葉を反芻する。勿論そこに他意はないだろうことは彼の表情を見れば分かるし、単純に、良い友人として、彼の目にそう映っているのならば嬉しい。
ダンデはひとつ瞬きをしてからにっと笑う。
「ああ、仲はいいぜ!」
会議が思っていた以上に長引いてしまった。定時もすっかり過ぎて、挑戦者の受付をとうに終えたバトルタワーの受付は最低限の照明だけが点けられていてしんと静かだ。自動ドアを出ると、外には美しい満月とシュートシティの夜景が輝いていた。今から帰る、とキバナにメッセージを送ると、返信は驚くほどすぐに来た。お疲れ、先にダンデの家にお邪魔してるぜ、とのこと。キバナの方が先に仕事を終えたらしい。
ダンデはモンスターボールから愛する相棒であるリザードンを出し、背に跨がる。ダンデが何も言わなくてもリザードンはもう分かってくれていて、その雄々しい羽根を広げシュートシティの夜空を飛んでいく。行き先はこのオフィス街を抜けた向こうの住宅街にある、ダンデの自宅だ。方向音痴の自分とは違って、この頼もしい相棒は一度通った場所はしっかりと覚えてくれる。今日もこの夜の暗い空の中でも自宅まで最短距離だ。夜の涼しい風を肌に受けながら、優秀な相棒の頭を撫でてやるとリザードンは嬉しそうにぱぎゅあと鳴いた。
あっという間に到着した自宅マンション。リザードンをボールに戻してエレベーターを上がる。最上階で降りて重厚な玄関ドアの鍵を開けると、いつもは真っ暗な玄関には家主の帰りを待っていたかのようにあたたかな淡いオレンジの照明がささやかに灯されていた。別に家の中が暗くても普段は全く何も思わないというのに、「おかえり」と言われているような気がして、そしてそんな経験はキバナがこうして頻繁に家に来るようになるまでは遠く子どもの頃の記憶まで遡らなければならないことで――。この灯りを見るだけで、心がじんわりと温かくなる。
玄関が開く音を聞きつけてか、リビングの方から物音がする。すぐにリビングのドアが開いて、普段のあの鮮やかなオレンジのヘアバンドも無ければ髪も下ろしてリラックスした格好のキバナの姿が現れる。キバナはダンデの姿を認めると、垂れ目を細めて穏やかに笑う。
「おかえり」
「……ただいまだぜ!」
キバナがこんな風に家で待っていてくれるのが今もまだ不思議な感じで、でも素直に嬉しいと思った。
二人の関係に新しい名前が増えてから、早いもので数ヶ月が経っていた。
キバナが作ってくれていた夕飯のシチューをポケモンたちと一緒に頂き、シャワーを浴びて、部屋着に着替えてリビングに戻る。ダンデのタオルで適当に拭ったままの生乾きの髪に、ソファでテレビを見ながら寛いでいたキバナが目ざとく気付いて「オマエなー、髪ちゃんと乾かせって言ったろ」と眉根を寄せる。近くでのんびりと休んでいたリザードンも同意するように「ぱぎゅあ」と鳴いたものだから、キバナも味方を得たといったように「ほら、リザードンも言ってるだろ」と言うからダンデはぐうの音も出ない。
「放っておけば乾くし、面倒だぜ……」
「風邪引く! そして髪も傷む! 折角綺麗な髪してんのに」
文句を言ってキバナはソファから立ち上がる。
「あーもー、オレが乾かすから」
口調は仕方なさそうだというのに、キバナはどこか楽しそうだ。つられてダンデも笑うと、キバナが不思議そうな顔をする。
「なんか楽しそうだな」
「キバナが楽しそうな顔をしてるから、つられたぜ」
ダンデがそう言うと、キバナはぱちくりと目を瞬かせて「え、オレさまそんな顔してた?」と言う。どうやら無自覚だったらしい。
「してたぜ」
「うわ、まじかぁ……」
そう言うキバナの耳がじわりと赤く染まって、ダンデは頬がにやついてしまう。バトルは言うまでもなく強く、その他のことだって何でもそつなくこなす彼がこんな風にペースを乱されている姿はなんだか可愛らしく思えて、楽しい。それが他でもない自分のせいでこうなっているのだと思うと尚更だ。
ダンデは洗面所に戻って引き出しからドライヤーを取り出し、リビングに戻る。テレビを消してダンデを待っていたキバナが「ありがと」と言って受け取る。
耳の良いポケモンたちはドライヤーの音があまり得意ではない。ドライヤーをつける前にポケモンたちはみんなボールに戻って休んでもらうことにした。ボールを定位置にしている棚の上に大切に置いてから、キバナがドライヤーをコンセントに挿している間にダンデはソファに凭れて腰を下ろす。
「じゃあ、頼んだぜ」
「おう」
ダンデの体を後ろから跨ぐようにしてキバナがソファに座り、ドライヤーのスイッチを入れる。ぶおお、という轟音と熱風。ダンデの髪に優しく触れるキバナの骨張った指先の感触が心地よい。その指先に、ダンデは素直に身を任せる。
「そういえばキバナの髪はいつもちゃんとしてるな。あんなに砂嵐や雨を浴びてるのに」
ドライヤーの音にかき消されないように少しだけ大きな声で言う。キバナは普段は髪を上の方で何束かに纏めたヘアスタイルをしているが、今みたいに下ろしているとさらさらとした髪質がよく分かる。
「そりゃちゃんとケアしてるからなー。放っておいたらすぐ痛むから。ルリナからおすすめのシャンプー教えて貰ってそれ使ってる」
「そうなのか。ルリナも愛用となると間違いないんだろうな」
バウタウンのジムリーダーであると同時にモデル業も見事にこなす彼女はいつでも張りのある美しい髪を靡かせている。そんなところで情報共有がされていたなんて。これまでチャンピオンの冠に恥じない身だしなみをということはオリーヴさんにも口酸っぱく言われてきたしそれは心がけてきたが、それ以外の意味で容姿に気を遣うということは全く考えてこなかったので、そういった交流は全然知らなかった。
「ああ。ダンデも使ってみるか? 今度持ってくるぜ」
「うーん、でもオレが使っても宝の持ち腐れになる気がするぜ……」
「いやー、この綺麗な紫の髪が泣くぜ。オレが持ち腐れにならない使い方教えてやるから」
言いながら、キバナの指がさらりとダンデの髪を扱く。その指先はどこまでも優しい。キバナの指がダンデの髪に触れて、満遍なく熱風が行き渡るように柔く掻き混ぜながら乾かしていく。普段自分で渋々乾かす時とは全く違う丁寧さで、キバナは本当に器用だなと感心する。
そういえば、キバナはよくこの髪を褒めてくれる。確かに紫の髪はこの地では珍しいし、その上長い髪は特徴的だと言われチャンピオン・ダンデのアイコンのひとつのようになっていた。二十数年の人生、毎日この髪を見続けている自分自身ではこの髪にもう特に何の感慨も無いが、キバナがこの髪を好いてくれているのならばそれは単純に嬉しかったし、もう少しくらいは丁重に扱ってもいいかもしれない――なんて気持ちが芽生える。
「そうだ、ルリナと言えばこの間エキシビジョンで当たったんだけどまた新しい戦術考えてきててさ」
キバナの言葉に、ダンデはぱっと目を輝かせる。
「ああ、見てたぜ! 面白かったよな。まさかあのタイミングでカジリガメを引っ込めるなんて……そこからの手持ち同士の連携も上手くて、どうなるか最後まで本当に目が離せなかったぜ」
先日行われた新チャンピオン主催のエキシビジョンマッチでは、一回戦のカードがキバナ対ルリナだった。序盤から一気にルリナのペースに持って行かれ、次々にキバナの手持ちポケモンを倒していく。ルリナ優勢のままキバナの手持ちが残り二匹となったところで、ヌメルゴンが耐え形勢は逆転、お互い一歩も引かない戦いを繰り広げた後、キバナの辛勝と相成った。ダンデも仕事でリアルタイムで視聴することは叶わなかったが、試合中継の録画でしっかりとチェック済みだ。
「しかしキバナのあのフライゴンへの指示はちょっと悪手だったんじゃないか? オレだったら――」
「う、それはオレも試合の後反省した。ちょっと焦りすぎたな」
あの時のあの技はどうだった、この道具を持たせた効果は、と一度ポケモンバトルの話になってしまえばキバナとダンデは試合分析で一気に盛り上がる。夢中になって話しながらも、器用なものでキバナはその間も丁寧にダンデの髪を乾かしていく。
「ホント、ちょっとでも気を抜いたらヤバかった。完全にこっちの動きも研究されててさぁ、次に当たる時までにまたオレたちも鍛えとかねーと」
「ルリナも本当に負けず嫌いだからな、また徹底的に対策してくると思うぜ」
「だなー。……よっし、髪乾かし終わった。こんなんでどうだ?」
「ありがとう。……うわ、自分の髪じゃないみたいだぜ」
ダンデは自分の髪に触れてみる。キバナが乾かしてくれた髪は柔らかくて指通りが驚くほど良くて、こんなにもさらさらとした状態の自分の髪は初めてだ。なんだか面白くて何度も指で扱いてみると、キバナが得意げに笑う。
「お褒めの言葉、どーも」
「キバナはすごいな」
「だろぉー?」
キバナは得意気に言って、ドライヤーを折りたたんでコンセントから抜く。
「これ、どこに仕舞えばいいんだ?」
「あぁ、オレが仕舞っておくぜ」
「ありがと」
キバナからドライヤーを受け取って、ダンデはまた洗面所に向かう。引き出しにドライヤーを仕舞ってリビングに戻って、ソファのキバナの隣、一人分空いたスペースに腰を下ろした。ポケモンたちもボールの中、テレビも消した室内はすっかり静かだ。ソファの背もたれに体を預けると、キバナに乾かしてもらった髪がさらりと揺れる。
「バトルの話をしていたらバトルがしたくなってきたぜ……」
先程のバトル談義によって高まった熱が冷めやらない。ああ、頭の中には試してみたい戦術や育成が沢山だ。どんどん沸いてきて、早く試したくてたまらない。ポケモントレーナーになって何年経っても、何百回バトルをしても、全くこの気持ちは尽きることがない。
「はは、この時間は無理だな。オレさまだってしたいけど……それにオマエと戦うならちゃんと調整もしたいからな」
頬に手をついてこちらを見るキバナの表情は穏やかなままだけれど、目の奥がぎらりと輝いたのをダンデは見逃さない。先程までのただただ柔らかい表情とは違う、ライバルとしての、どこまでも貪欲な飽くなき挑戦者としての目。キバナのこの目がダンデは好きでたまらない。
「それは勿論だ。全力のキミを全力のオレで迎え撃つ。そして勝つぜ」
「こっちの台詞だ。前回と同じオレさまと思うなよ」
「分かっている、キミがこれまでと同じだったことなんて一度も無いからな。だからこそ楽しみなんだ! いい加減バトルタワーに来てくれ、エキシビジョンで当たらなくともあそこならバトルをする為の設備がいつでも整っている」
仕事で来ることは何度もあっても、キバナはまだバトルタワーに挑戦者として来たことはない。あの美しい景色と手前味噌ながらとても整った環境の中でキミと戦いたいのだとつい息巻いてしまうダンデに、キバナは肩をすくめる。
「行きたいのはやまやまなんだけど、なかなかこっちも日々やること多くてなぁ」
「……まぁ、ナックルジムリーダー業務に宝物庫の管理にワイルドエリアの調査に、ナックルジムは特にやること多いからな」
キバナの返事に、ダンデは言葉の勢いを落とす。日々やることが多い――とキバナは軽い口調で言うが、それは確かにそうなのだ。ダンデはリーグ委員長になってそのことを改めて知った。
ポケモンジムの管理もリーグ委員会の管轄だ。とはいえもうそれぞれのジムでしっかりと日々の業務はやってくれているのでリーグ委員会が改めて口を出すこともほとんどないのだが、一応はそれぞれのジムの仕事内容や管轄範囲、日々の業務報告などには一通り目を通している。その中でもガラルトップジムであるナックルジムは、街がワイルドエリアに隣接している上にガラルの歴史研究において重要な役割を担う宝物庫もある。さらにローズさんが秘密裏に計画を進めていた地下プラントも抱えていたときた。今は地下プラントの後処理と管理も含め、それら全てナックルジムの管轄範囲だ。各ジムの業務内容はチャンピオン時代から何となくは知ってはいたが、改めてこうしてリスト化されるとナックルジムのその業務量に驚かされた。その場所の最高責任者であるキバナは、日々これだけの業務を抱えながら飄々と、しかし見事なまでにひとつひとつの仕事をきっちりとこなしてきたのかと。
当のキバナは、ダンデの言葉を「まぁなー、それなりにな」なんて何でもないかのようにさらりと流す。
「バトルタワーオーナー兼リーグ委員長サマには負けるけどな」
「いや、オレは大丈――」
言いかけたダンデの瞬きの間に、距離を詰められる。キバナの端正な顔が目の前にあって、驚いて一瞬身動きが取れなくなる。その隙をつくようにして、キバナとの距離がゼロになった。唇を啄まれるように触れられて、離れて、また触れる。
空気が一瞬にして、変わる。染まっていく。ライバル兼友人から恋人に。キスは今夜が初めてというわけではない。ダンデは目を閉じる。ようやく少しずつ慣れてきたけれど、やっぱりまだどこか不思議な感じもあって、なんだか変に落ち着かない気持ちもある。だけどこういう風にキバナと触れ合う度、嬉しくてあたたかい気持ちがどんどん大きくなっているのも確かだった。
キバナの手がダンデの頬に添えられる。その手のひらは薄く汗を掻いていた。緊張、しているのだろうか。その手は、あの日のように震えてはいないけれど。
唇からあたたかな温度が離れて、ダンデはゆっくりと目を開ける。至近距離でキバナの美しいターコイズブルーと目が合う。
「オマエの、自分に対する『大丈夫』の尺度は信用できん」
「……ひどい言いぐさだな」
キバナの言い方は優しいが、信用できないと言われるのはあまり嬉しいものではない。ダンデが唇を尖らせると、キバナは「だってそうだろ」と言う。……確かに周囲の人間、例えばなんだかんだ言いながらも世話焼きで兄貴気質なネズとかにも言われたことがある。一人で頑張りすぎだ、もっと休みを取れと。自分では、そんなつもりは全くないのだけれど。
頬に添えられていた手がダンデの髪を梳くように触れる。キバナが乾かした髪の毛が、キバナの褐色の指先に絡んではさらりと解けていく。
「無理はするなよ」
「……努力、は、する」
指摘を頭の中に留めてはいても、自分の性格上断言はできない。そう思って今自分ができる精一杯の返答をしたが何だか片言のようになってしまった。目を逸らして言うダンデの様子にキバナは小さく吹き出して、苦笑しながら口を開く。
「信用できねえなー」
ホント、ちゃんと休めよ。そう言うキバナの指先が髪の毛を離れる。そしてダンデの頭の上の方にキバナの大きな手のひらが触れて、くしゃりと撫でられた。大きくて優しくてあたたかい手のひらの感触。人に頭を撫でられるなんて大人になってから……いや子どもの頃でも、チャンピオンになって実家を離れてからとんとなかった。なんだか恥ずかしいような、むずむずと落ち着かないような――それは決して嫌なものではないが――気持ちになる。
キバナの手がぽん、ともう一度頭を撫でて、手のひらが離れていく。キバナの温度が離れていくのが、ほんの少しだけ名残惜しいような気持ちになって、そんな自分に内心わずかに動揺する。
「もう遅いからそろそろ寝ようぜ」
ちらりと時計を見ると、もうすぐ日付が変わりそうだった。お互い明日も朝から仕事がある。キバナの言葉にそれもそうだなと「ああ」と返事をして、リビングの電気を消して連れだって寝室へ向かう。友人としてキバナが訪れた時はキバナはソファで眠っていたのだが、こういう関係になってからは自然と二人で同じベッドで眠るようになった。ダンデの家のベッドはキングサイズだ。ポケモンたちとも一緒に眠れるようにと大きなサイズのものを買っていたのだが、それがこんな風に役に立つなんて思ってもみなかった。大の男二人で眠っても余裕がある。
二人で広いベッドに寝転がって、「ダンデんちのベッドはホントふかふかだよなー」とキバナが笑う。キバナのさらさらの黒髪が白い枕の上に広がって綺麗だなと思った。
「電気消すぜ」
「おう」
キバナの返事を聞いてから、ダンデはリモコンで寝室の電気を消す。部屋の中がぱっと暗くなって、隣にいるキバナの姿もよく見えない。ダンデも掛け布団をかけてベッドに潜り込む。
「おやすみ」
「おやすみ」
暗くて静かな部屋の中、目を閉じてしばらく。眠気は確かにあるのだけれど、今日はなんだかうまく眠りにまでは入れない。目を閉じて眠くなるのを待つのに飽きてきてしまって、目を開けてみる。暗がりに慣れてきた目は、うすぼんやりと部屋の中を認識してくれる。カーテンの隙間から零れる月明かり、本がぎっちりと詰まった本棚、豪奢で重厚な部屋の扉、そして――隣で目を瞑っているキバナの横顔。
こうしてじっくりと、こんなに近くでキバナの顔を見る機会というのは、長い付き合いでもこういう関係になるまで案外多くないものだった。試合の度に真正面から相対していたし、雑誌でも物理的距離の近い撮影は比較的多い方だったが、こんなにも綺麗な顔だったかとこうしてまじまじと見て改めて驚かされた。……今更気が付いたのかと、世のキバナのファンからは怒られてしまいそうだが。しかし一度気が付いてしまえば、全く無頓着でいられたこれまでの自分も不思議に感じてしまうものだから現金なものだ。
すやすやと規則的な呼吸の音が微かに聞こえる。すっと通った鼻筋は高く、普段はヘアバンドに隠れている眉毛は太くて男っぽい。睫毛もダンデほどではないがこうして近くから見てみるとそれなりに長いように見える。この男がオレを、好き、なのか。そう思うと嬉しくて、胸がざわざわと音を立てるようだった。
――その美しくて無防備な横顔になんだか、なんとも言いがたい感情がダンデの中に渦巻いた。この感情の正体は、なんだ。
(キバナは、もう、眠っているだろうか)
気付かないでくれ。いや、でも気付いても欲しい、のかもしれない。自分でもよくわからない。
先程触れた、ダンデよりも少し大きな手のひらのあたたかさが心地よかったことを思い出す。思い出したら、つい手が動いてしまっていた。キバナはきっともう眠っているだろう、というダンデが都合良く立てた仮定も行動が少し大胆になることを助けた。
寝転がるキバナの身体の横に投げ出された手。ダンデよりも色の濃いその手の甲に、遠慮がちにつんと触れる。本当にわずか、指先が触れるか触れないか、というくらいだった。
しかしその瞬間キバナの手が動いた。驚いて反射的に逃げようとしてしまったダンデの太くてがっしりとした指を、キバナの細くて骨張った指が捉えて逃がさないかのように絡めて握り返される。
「!」
「なに?」
キバナはいつの間にか目を開けてダンデの方を見つめていた。その表情は穏やかで、ただダンデの返答を優しくじっと待っている。キバナの目線の柔らかさに、突然手を繋がれたことへの動揺は少しずつ凪いでいくのがわかる。しかし繋がれた手から伝わるキバナの体温が妙に熱く感じて、その温度が直接自分の中に流れてくるかのようで、心臓の鼓動は普段よりも早いままだ。自分のことなのに、自分ではコントロールできない感情に戸惑う。この鼓動の音がキバナに伝わっていないことをダンデは願った。
「……なん、でもない、ぜ」
絞り出した声は、自分のものではないかのように小さくて頼りない。……キバナを起こしてしまっただろうか。それなら悪いことをした、と少し後悔もしたけれど、キバナはダンデの返答を聞いてなぜか嬉しそうに笑う。
「そっか」
キバナは目を細めてダンデを見る。垂れ目が零れそうだ、なんてことを思った。その表情に、以前キバナに見せて貰った生まれたばかりのヌメラを思い出したりした。なんだか似ている。そう言ったらキバナはまた楽しそうに笑ってくれるだろうか。しかし今は、なんだか他の言葉を言うつもりにはなれなかった。
キバナは少しの間ダンデを見つめた後、また目を閉じて眠りにつこうとする。――しかし、決して強い力ではないけれど、キバナは繋いだ手を離さない。お互いの手のひらの間に汗が滲んでもそのまま、手のひらでお互いの温度を交換しているようだった。少しかさついてあたたかいキバナの手はとても心地が良い。キバナの手がかさつきがちなのは自身の天候を操る、特に砂嵐を得意とするバトルスタイルに加え、彼の専門タイプであるドラゴンタイプは育成や世話が他のタイプの比ではないくらいに繊細だからだ。例えば彼のパートナーであるジュラルドンは水に弱くすぐ錆びてしまうため、丁寧に身体を拭いてやるのが日課なのだという。放っておくとすぐ手荒れちゃうんだよな、と以前笑いながらハンドクリームを塗っていたことを思い出す。
彼が愛するポケモンたちに優しく触れるその手が、今柔らかくダンデの手を握る。
どうして離さないのか、眠る時に邪魔じゃないんだろうか。そう問いたい気持ちもあったけれど、しかしなかなかどうして、ダンデもこの手を離すつもりにはなれなかった。ダンデも何も言わずに、再び目を閉じる。
――「付き合う」と言っても実際のあれからの日々は友人の延長線上のようなものだ。ただ、休日に一緒に過ごしたりお互いの家に泊まったり、連絡を取ったりする頻度は格段に増えた。お互いの家に行った時に片方はソファという形ではなく二人とも同じベッドで寝るようになった。そして、たまに戯れのようなキスはする。それだけ。それ以上はまだしないまま、数ヶ月が経った。
キバナはともかく、ダンデは恋愛感情が最初から伴って始まった関係じゃない。キバナが自分を好きだと言ってくれた、一番近くに居たいと言ってくれたことが心から嬉しかった。自分もキバナの一番近くに居たいと思った。だから、手を取った。一緒に過ごすのは楽しかったし、こうして隣で眠るのも好きだ。最初はキバナが散々「嫌じゃないか」と確認してきてくれたキスも、キバナとなら嫌悪感は不思議と最初からなかった。むしろ最近は、心地が良い、嬉しい、と思っていた。
付き合っているパートナー同士であれば、その先に何があるかなんて流石にダンデでも知っている。キバナも知らないわけが無いだろう。けれどそんな素振りすらもキバナは一度も見せたことはない。啄むようなキスをして、そこまでできれいに終わり、だ。それで満たされている。満たされているはず、なのに。
(……オレは、キバナを)
その先の言葉に、オレは何を入れるつもりなのだろう。
(キバナは、オレと――)
触れた手の熱が上がって、持て余す。そこだけじんわりとして少し落ち着かなくて、しかしだんだんと近付いてきた眠気にダンデの意識はそのままゆっくりと浚われていった。
◇
今日中に片付けなければいけない書類の最後の一枚に目を通してサインをして、ダンデはふぅ、と息を吐いて椅子の背もたれに身体を預ける。かつてローズさんも愛用していた、バネのよく効いた椅子はダンデの大きな身体もものともせず受け止めてくれる。ちらりと見た背後にある大きな窓の外はすっかり暗くなっていて驚いた。目の前にあるデスクに積まれた書類の山と格闘していたら、すっかりこんな時間になっていたらしい。パソコンの画面が眩しくて目に痛い。横で休んでいたリザードンが心配そうにぱぎゅあと鳴く。
「オレは大丈夫だぜ、ありがとう」
バトルタワーオーナー兼リーグ委員長になって、もうじき一年が経とうとしている。チャンピオンだった頃は基本的にバトルとポケモンのことだけ考えていればよかったが、曲がりなりにも経営者となるとそうもいかない。ジムチャレンジが近付いていることもあって、今日も会議に書類仕事に関係各所との調整にバタバタと奔走して気付けばもう夜だ。
書類仕事も嫌いではないが、どうも肩が凝っていけない。手持ちのポケモンたち以外誰もいないのをいいことに大きな伸びをする。この間キバナと会った時も大丈夫だと言ったしこれを負担だなんて思ってはいない。日々楽しいけれど、まあ多少オーバーワーク気味、というのは……否定できない、かもしれない。そんなことを言ったらキバナは「多少じゃねーよ」と怒ってくれるだろうか。
椅子により深く凭れて、真っ白で美しい天井を見る。この椅子に座るようになってから。ローズさんのすごさを改めて思い知った。その経営手腕はやはり並大抵のものではない。比較的近い存在でいたつもりではあるが、見えていなかった部分も沢山あった。チャンピオンとして接していた時には見えなかった景色を、この椅子に座って知った。
周りはローズさんと同じようにならなくてもダンデらしくやればいいと言ってくれるが、その言葉に甘えてばかりいられない。ただでさえローズさんが表舞台から去って、ガラルは精神的にも経済・社会的にも少なからず混乱したのだ。この座に就いたからには、愛するガラルをもっともっと笑顔の溢れる良い地にしたかった。
椅子をくるりと回転させる。椅子のすぐ後ろにはガラス張りの大きな窓、ローズさんはここからガラルの景色を眺めるのが好きだったように思う。ダンデはおもむろに立ち上がって、その大きな窓に触れ、窓の外を見る。眼下にはきらきらと美しいガラルの夜景。タワーのすぐ下、シュートシティはこの時間でもオフィスビルから繁華街まで煌々と灯りが灯り、アーマーガアタクシーが何台も行き交っている。その向こうにはアラベスクタウンからルミナスメイズの森の独特で幻想的な淡い灯り、反対側のキルクスタウンの灯りもささやかで穏やかだ。さらに遠く、雪の積もるサイレントヒル駅を越えた山の向こうにかすかに見える光の粒たちはナックルシティのあたりだろうか。流石にここからでも目で見ることは出来ないが、このもっともっと遠くには愛する故郷のハロンタウンがある。この灯りの数だけ、そこに人々の生活が息づいている。ダンデもまた、ここから見るガラルの景色が好きだった。この地が好きだと、この景色を見る度何度でも思う。
今はあの騒動の後の混乱はだいぶ落ち着いてはきたものの、この席に就いたからにはできる限りのことはしたい、という思いは褪せることはない。「ガラルのトレーナーみんなで強くなりたい」という夢も、それ以外のことも、愛するガラルのために頑張りたいと思うのだ。ローズさんだってきっとその思いは同じだったはずだ。結果的にこのようなことになってしまっただけで。
眼下の夜景に、タワーの最上階からローズさんと二人でこの景色を見ながら話をしたあの夜の景色がふと重なる。あのブラックナイトが引き起こされる前夜のことだった。
……あの夜のことを思い出すと、少し感傷的になってしまう。人生にもしもはない。なるようにしかならない。オレもみんなもできる限りのことはやったはずだし、今の生活も気に入っている。道は後ろにはない、前に進むしかないのだ。だけど。
窓の外を眺めながら少しぼんやりとしていると、私用のスマホロトムがダンデの目の前までふよふよと移動してきて、ぱっと画面に何かを映し出してくれる。こちらは何も指示していないのにどうしたんだろう、何か見せたいものがあったんだろうか。そう不思議に思って画面を見ると、スマホロトムが映し出したのは今日のキバナのエキシビジョンについてのネットニュースだった。対戦相手は昨年のジムチャレンジ後に正式に就任したばかりのフェアリータイプのジムリーダー・ビートで、キバナはタイプ相性で不利な中見事にトップジムリーダーの貫禄を見せつけ勝利、と書かれている。その写真に映る彼は八重歯を見せながら獰猛に吠えていて、でも瞳の奥は爛々と楽しそうに輝いている。バトルが楽しくて仕方がないという顔。今までダンデが、誰よりもずっと真正面から見てきた顔だ。ダンデは自分でも気付かぬうちに口角が上がっていた。
これまでもキバナのことは沢山見てきたはずなのに、ここ最近は顔を見るだけでこれまでとは少しだけ違う高揚がわき起こる。この新しい関係性の名前はダンデを少しだけ気恥ずかしくさせ、同時に浮かれさせもした。不思議な感覚だ。何かが決定的に変わったというわけじゃなくて、これまでの関係の延長線上に今もいるはずなのに、関係性に新しい名前がついただけのはずなのに、顔を見るだけでこんな風にふわふわと嬉しくなるだなんて。オレも案外単純なのかもしれないな、と思う。だけどそれは嫌な感覚ではなかった。
強くて、かっこよくて、最高のライバルであり、友人であり、そして――。
ロトムは窓の外を眺めて感傷に浸りかけたダンデの様子に、息抜きになればと記事を見せてくれたんだろう。優秀で優しいロトムに、ありがとう、と笑いかけて窓から手を離したところでロトムの画面がまたぱっと変わる。
「キバナからメッセージロト」
メッセージアプリの画面が開かれて、キバナとのトーク画面に切り替わる。画面に映し出されたのはキバナの自撮り写真だった。まだ砂が落としきれていないユニフォームを着て、彼の無二の相棒であるのジュラルドンと嬉しそうなツーショット。『ビートに勝ったぜ!』というメッセージが続いて届く。今日の試合直後の自撮りだろう。その嬉しそうな様子と、ダンデにこうしてこまめにメッセージをくれるキバナのマメさに心がじわりと暖かくなる。
このまま返信をしてもよかったのだが、たった今メッセージが届いたということはキバナも今時間があるということだろうか。この高揚のままに、直接話したいという気持ちが勝って「ロトム、キバナに電話をかけてくれないか」と指示をする。ロトムもどこか弾んだ声で「了解ロト!」と返事をしてくれた。
電話をかけると、キバナはワンコールで出てくれた。
『もしもし、ダンデ?』
「キバナ、メッセージ見たぜ。ありがとう! そしてビートに勝利おめでとう。試合の記事も見たぜ」
ダンデが矢継ぎ早に言うと、キバナが電話の向こうでふっと笑った気配がした。
『ありがと。しかしビートもどんどん強くなってるなー。戦う度にびびるわ。オレももっと頑張んねぇと』
「はは、嬉しいことだな」
新しい世代がめきめきと強くなっているのは、ダンデにとって嬉しいことこの上ない。同時に自分ももっともっともっと頑張らなければ、と焚き付けられる思いだ。キバナも同じのようで、『だな』と言う声はダンデと同じ色を宿していた。
「ちょっとまだ記事しか見られていないんだが、試合は録画されているはずだから帰ったら見るぜ」
ダンデがそう言うと、キバナが一瞬の間の後訝しげに『帰って、って……オマエまだタワー?』と口にする。……あ、しまった。ダンデが何と返そうか思案しているうちに、その沈黙を肯定と捉えたキバナがはぁ、と溜息を吐く。
『……オマエなー、無理すんなって言ったろ』
先日キバナがダンデの家に泊まった夜のことを思い出す。あの時もキバナはダンデにそう言ってくれていた。
「すまない。でもこのくらい――」
『心配するだろうが』
電話越しのその声は本当に心配の色を滲ませていて、小さく心臓がドキリと揺れる。心配をかけて申し訳なくなると同時に、それ以上に嬉しい気持ちもこみ上げてきてしまった。……そう言ったら、キバナは呆れるだろうか?
考えてみれば、昔からキバナはダンデのことについて、ダンデ以上に気が付いて心配してくれた。それは彼の観察眼の鋭さと生来の優しさゆえだとばかり思っていたけれど、それだけではないのかもしれないと今は少しだけ自惚れてみてもいいだろうか。
そしてそれが嬉しく、優越感のようなものまで覚えてしまう。
「……ありがとう、今後は気を付けるぜ」
声が変に弾んでしまわないように気を付けながら返事をすると、キバナは『そうしてくれ』と苦笑する。
『まあワーカーホリックなのは今に始まったことじゃないし、仕事を楽しんでるのも分かるけどさ。お前も人間なんだから、無茶も限界があるぜ。立場上難しいかもしんないけどさぁ、頼れよ。スタッフもみんな優秀なんだろうし、他にも誰か近くにいる人に言えばきっと助けてくれるぜ』
キバナはそう言った後、ひとつ息を吐いて、呟く。
『オレでもいいし』
それはダンデに聞かせるためというよりも、ほろりと口から零れ落ちたかのような言葉だった。その声色と言葉に、ダンデが一瞬面食らって言葉が出てこない間に、キバナはぱっと空気を変えるように再び口を開く。
『とにかく今日はもう帰れ、ちゃんと食べて寝ろ』
そのてきぱきとした言い方に、ダンデはふっと苦笑する。
「キバナ、母さんみたいだぜ……」
キバナはぴしゃりと『ちゃんと休んでなかったら週末のキャンプ中止な』と続ける。
「それは嫌だぜ!」
その言葉にダンデが慌てて返すと、キバナはくつくつと笑う。
『だろ? じゃあちゃんと休むこと』
週末のキャンプ、というのは久しぶりに二人とも一日オフの日で――ダンデがタワースタッフに「そろそろ本当に有給を消化してください、ジムチャレンジが始まる前の今ならどうにかねじ込めますから」と懇願されあれよあれよと入れられた休日の話をすると、キバナもじゃあオレさまもその日に休もうかな、オレさまもリョウタたちに休めって言われてんだよなと笑ってその後本当に休みを合わせてくれた――じゃあ久しぶりにキャンプでもするか、と約束したのだ。ダンデとしては休みはなくたって苦ではないのだが、キバナとキャンプができるとなればとても心が躍った。予定を入れてからずっと楽しみにしていたのだ。
『おやすみ』
「――……ああ、おやすみ」
ダンデが返して、電話が切れる。ふぅ、と小さく息を吐いた後、さて早く帰って休まなければとダンデは慌てて帰り支度を始める。キャンプを中止にされるのは嫌なのだ。キバナなら本気でやりかねない。
パソコンの電源をオフにして机の上の書類を軽く片付けて、重要書類はデスクサイドのキャビネットの引き出しに入れて鍵をかける。小さなカバンに荷物を詰め込んで、「帰るぜ、リザードン」とデスク横でダンデを見守ってくれていた愛する相棒に声をかける。「ぱぎゅあ」と鳴いて立ち上がった彼を一旦ボールに戻して、そのボールを腰のポケットに大切に納めて執務室を後にする。照明も絞られ静かな廊下に自分の靴音が響く。
電話の最後のキバナの『おやすみ』の言葉が、ずっとダンデの耳の中に残っている。
二人きりの夜の時みたいに、キャンディをころころと転がしたみたいに甘くて柔らかなその声が、ずっとダンデの耳元で反響してなかなか離れてはくれなかった。