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忘れることのない、きっと一生忘れることなんて出来やしないあの一日。ナックルスタジアムの上空を黒い雲が覆う、伝説上の出来事でしかなかったブラックナイトが、紛れもない現実として再現されてしまったあの悪い夢のような日。
この街を守る使命がキバナにはあった。このナックルシティジムリーダー、そしてガラルNo.2の実力者として、ダンデがもしも、万が一、このブラックナイトを収められなかった時の盾として。ナックルスタジアムの前で、屋上とそして街の状況を注視する。強い緊張感は持っていた。流石のダンデでも、あの伝説に立ち向かうのは相当なことだろう。
だけど、どこかで信じきってもいた。ダンデなら大丈夫だと。ダンデの実力は、他でもないオレさまが誰よりも知っている。アイツは、とてつもなく強い。才能に加え、努力の量も――それをダンデ自身は努力と思っていないかもしれないが――常人のそれではない。キバナが必死で追いかけても追いかけてもあとほんのわずか及ばない、それを繰り返してきた十連敗の歴史だ。とてつもなく悔しいが、しかしそんな彼だからこそガラルのシンボル、現代の英雄としてチャンピオンに君臨するダンデをライバルとして敬愛してきたし、ダンデに最大のライバルとして名指しされることはキバナの大きな誇りでもあった。ゆえに、キバナは他のどんな誉れよりもダンデというライバルに勝つことを一番の目標として掲げ続けた。
ダンデとキバナよりも少し遅れて、本日の主役の一人のはずであったチャレンジャー・ユウリとホップが駆けつける。他の市民であれば早く安全なところに避難してくれと指示するところだが、二人はもうただの守られるだけのか弱い子どもなどではない。彼女らの加勢はきっと大きな力になるだろうと、キバナはスタジアムの中へとまっすぐ駆けていく二つの小さな背中を見送った。
しばらく経って、暗い空が晴れていく。終わったのだ、と悟って緊張が解けて大きく息を吐いたのも束の間、スマホロトムが着信を知らせた。ホップだ。電話に出て急いで状況を聞こうとしたところ、それ以上に焦った様子のホップが口を開く。その声は震えていた。
ブラックナイトの中心地となったナックルスタジアムの損壊は激しく、これからの修復作業を思うと頭が痛くなりそうだったがそんなことなど言ってはいられない。ナックルジムの責任者として様々な確認や事後処理に追われ、ようやく最低限一息ついた頃にはすっかりブラックナイトではない本物の夜がナックルシティを包み込んでいた。
「ひとまず状況把握はできたので、あとは明日以降にしましょう。キバナさまは――」
行かなくていいんですか、口には出さないがそう控えめに、しかしまっすぐにリョウタの目がキバナを見る。まったく優秀で優しいジムトレーナーに恵まれたよオレさまは、と苦笑する。心配すんなって、と言ってやりたいところだったが今日のところは彼の言葉に甘えることにする。
ありがとう、と礼を言って、フライゴンに飛び乗る。行き先はナックルシティ最大の総合病院。ダンデが搬送された先だ。
アニキが、意識がないんだ、とホップは震える声で言った。頭が真っ白になる、というのはこのことかと思った。指先が冷えるのが分かる。しかし酷く動揺しているホップにこちらの動揺を悟らせてはいけない。大人として、彼らをこれ以上の不安に晒さない為に、気丈に振る舞わなくてはならないと冷静な自分が叫ぶ。少しでも気を抜くと震えそうになる手を誤魔化すようにスマホをぎゅっと握り直して、ホップに指示を出す。下手に動かすな、オレもすぐ向かうが、まずはすぐに救急を呼んでくれ。ナックルシティに大きい総合病院があるから、きっとそこからすぐに来てくれるだろう。心配するな、あのバトル好きがファイナルに立たないなんてこと絶対ないだろ? そう無理矢理明るい調子を作ってキバナが言ってみせると、ホップも幾分冷静さを取り戻したようだった。
キバナがナックルスタジアムの屋上に到着して間もなく、ホップが呼んだ救急のアーマーガアヘリも到着する。医師たちも流石に一瞬は動揺した様子を見せたが、しかしそこはプロ。てきぱきと状況確認をし、ダンデを運んでいく。リザードンを一旦ボールに戻したホップ、そしてユウリもそこに同行していくのを見届けた。看護師に「キバナさんは」と聞かれたけれど、「オレはまだ事後処理があるので。ダンデと、二人を頼みます」と言うと看護師や医師たちは力強く頷いてくれた。
暗い雲が晴れていく青い空へと飛び立って、病院へと向かっていくアーマーガアヘリを見ながら、力なく倒れたダンデの姿がキバナの網膜に焼き付いて離れなかった。
面会時間を少し過ぎてしまっていたが、キバナの姿に気が付いた受付の女性が察してキバナを通してくれた。あの騒動の直後、この病院に緊急入院したチャンピオンと、この時間に訪れるチャンピオンのライバル。言わずとも目的は伝わっていたのだろう。その優しさに感謝しながら、ダンデが入院しているという部屋へ向かう。さすがはガラルのチャンピオン、この病院の中でも一等いい個室がダンデの病室として用意されていた。
一応ノックをして、返事はないままキバナは部屋の中に入る。静かな部屋の中、月明かりが降り注ぐ真っ白なベッド。ダンデは何本もの管に繋がれて静かに眠っていた。
その姿を認めた瞬間、キバナは一瞬金縛りにでも遭ったかのように動けなくなった。心臓の音が急にバクバクとうるさい。全身が心臓になったみたいだ。ひとつ深呼吸をして、心臓を無理矢理に落ち着けてからキバナは扉を静かに閉めてベッドの側へと歩を進める。
ベッドサイドに二つ並んだ椅子は、きっとホップとユウリが使っていたものだろう。そのうちの一つの椅子にキバナは腰掛けた。キバナの体重を受け止めた椅子は、ぎしり、と微かな音を立てる。その音がやけに部屋の中に大きく響いた気がした。ダンデの顔を見る。表情は険しくはない。閉じられた瞳を長い睫毛が縁取っている。
屋上で一度、倒れたダンデの姿は見ていた。しかしあの時はホップやユウリに動揺を伝えないよう気を張っていて、早く病院に運ばなければと急いでもいたからじっくり受け止める余裕などなかった。こうして静かな空間で改めて眠るダンデと相対すると、改めてじわじわと状況が身に染みてくる。
ダンデは怪我はあるものの命に別状はなく、強い衝撃のショックで一時的に意識を失っているだけだという。後遺症が残る可能性も極めて低く、あとは自然に目を覚ますのを待つだけだ、きっと明日には目を覚ますだろうというのが医師の診断だ、ということはホップから既に報告は貰っていた。それでも、いつもこちらを見つめてキラキラと――試合の時は燃えるようにギラギラと――輝くアンバーはなりを潜め、管に繋がれて静かに眠っているダンデの姿はキバナにとって衝撃的なものだった。
心配することはない。今はただ眠っているだけだ。今までが忙しなかったからたまにはこうして休む時間だって必要なんじゃないか? なんて軽口も頭の中には浮かぶ。頭では、分かっていた。ダンデはただ眠っているだけだって。だけど急に怖くなった。
(……こういうとき、どうにもできないんだな)
何が、ダンデのライバルだ。何がトップジムリーダーだ。苦虫を噛み潰すような気持ちになる。
(ひとりで背負いすぎなんだよバカ野郎)
ダンデが、ずっとひとりでガラル中をかけずり回っていたのは知っている。忙しすぎるんじゃないかと思ってはいたが、ダンデがそういうのが好きな性分だとも分かっていたから、何も言わなかった。何があってもどんなときでも、ダンデの強さはオレさまが誰より知っていると、そう信じていた。現にダンデは少しから頻発していた野生ポケモンのダイマックス騒動もいつもすぐに鎮めていたし、その他にもチャンピオンの力が必要な時にはすぐに駆けつけた。ここ最近は、今にして思えばこの計画の前哨だったようだがそういった事件の頻度が増えていて、キバナも勿論ナックルシティの近くで起きた際には騒動の鎮静化に協力していたし各地のジムリーダーも極力そうしていたが、ガラル全土としてはダンデがすぐに解決してくれるのが日常のようになっていた。
その結果がこれか。
もし。もしもあのときユウリとホップがあの場に駆けつけなかったら? もしも当たりどころが悪かったら? もしもっとあのポケモン――ムゲンダイナがユウリやホップの加勢を持ってしても鎮められないくらいにとてつもなく強かったら? キバナは「もしも」と考えることは元来好きではなかったが、こんな時ばかりそんなことを考えてしまう。こんなものでは済まなかったかもしれない、という可能性に、キバナの手は知らず震えていた。
そしてそんな時、オレは何ができただろう。どんな場所にいられただろう。家族でも、恋人でも、なんでもないオレは――。
ダンデの一番のライバル、気の置けない親友。それが自分の誇りのひとつだった。それで十分に満たされていると、そう思っていたはずなのに。
ダンデの手に恐る恐る触れる。その手があたたかいことに、心底ほっとする。震えるキバナの手よりも静かに眠るダンデの手の方があたたかい気がして、キバナは動揺している己を小さく自嘲した。
キバナはナックルシティジムリーダーとしての責務を選んだ自分の選択を後悔はしていない。誇り高き、伝統あるナックルジムの最高責任者として、そう思う。
だけど。それとは別に、キバナ個人としての感情が、ダンデの熱、生の証に触れて堰を切ったように溢れ出す。
――ダンデが一人だけで背負わずにいられたなら。そしてそれが、自分で在れたなら。
――もっと近くにいられたなら。もっと確かな関係性でいられたなら。
ダンデの手を握る。静かに眠るダンデから、その手が握り返されることはない。それでも、血の通うこの一人の男の手に触れられることに今何よりほっとしていた。
(この手を、握り続ける権利が欲しい)
そう思った。心の中で呟いたその言葉は、不思議なほどすとんとキバナの中に落ちてきた。
自分の感情は自分で熟知しているつもりだったのに、全然だったと気付かされる。こんな状況にならないと気がつけなかった自分に少し呆れた。
ダンデの色んな表情を思い出す。スタジアムで相対する時の、チャンピオンとしての誇り高い表情。ポケモンバトルの時の少年のようにキラキラした楽しそうな瞳。友人として接する時の穏やかな笑顔。頭の中に沢山浮かんでは消えてくれない。
今はそのどれとも違う、静かな寝顔だ。その美しいアンバーが見られないことが、キバナの心をきゅうと締め付けた。
最高のライバル、友人。ずっとその場所に甘んじていたけれど、もうそれだけでは足りなかった。もっともっと、もっと。ダンデの一番近く。ダンデの美しい瞳が一番に向けられる場所に、その手を握れる場所に居たかった。ダンデの存在があまりにキバナの中で大きく、あまりに大切だった。失うかもしれないというどうしようもない恐怖の淵に立たされて気付かされた。
(――こんな、こんな感情、もうさぁ)
頭の中に浮かんだ一つの単語に、キバナは乾いた笑いが出る。ガラルの色男なんて時に雑誌に書かれるようなトップジムリーダーが、自分の気持ちをこんな時になってようやく自覚するのか。
チャンピオンとして、現代のガラルの英雄として強く在り続けるダンデを敬愛していた。
同世代でお互いにポケモンが大好きで、趣味は異なるがお互い一番に愛するポケモンバトルの話は誰よりも合った。いつしか気の置けない関係になったダンデに友愛も抱いていた。
誰よりも勝ちたかった。ダンデの強さ、その理由をを間近で肌で感じ続けていたからこそ、彼に勝つことに強く強く執着し続けていた。
敬愛、友愛、執着。ずっと抱えて抱え続けて生きてきた。そしてそのどれとも重なり、そのどれとも異なる。ずっと此処にあったもの。
呆れるほどありふれた、呆れるほど大きな、恋情だ。
その三日後。キバナがホップに言った通りダンデは医師が驚くほど見事に回復し、チャンピオンカップのファイナルのコートに立った。そしてユウリとダンデはガラルのポケモンバトル史に間違いなく刻まれるであろう、見事と言うほかない素晴らしい試合を繰り広げ、初めて、無敗のチャンピオン・ダンデは負けた。
ほんのわずか、カメラには映っていないかもしれないがキバナが座っている位置からは見えた。いつもの黒いキャップを下げたダンデは悔しげに歯を食いしばった後、次の瞬間にはキャップを投げ捨て晴れやかな表情に変わる。
――チャンピオンタイム・イズ・オーバー!
そう宣言したダンデの瞳はこの瞬間ですらどこまでも輝いていた。
ブラックナイト、ローズ委員長の自首、チャンピオンの交代。――今、ガラルで、沢山のことが一気に変わっていく。新チャンピオンの誕生を祝福する紙吹雪、色とりどりの花火。熱狂するシュートスタジアム。今この瞬間、ここが間違いなくガラルの激動と熱気の渦の真ん中だ。シュートスタジアムの最前列、ジムリーダーたちのための一等席。キバナの目の前にもひらりと紙吹雪が一枚落ちてくる。オレの、オレたちの世界が変わっていく。その様を、キバナは客席から見ていた。
◇
昼過ぎにナックルシティとワイルドエリアを繋ぐ門の前で待ち合わせて、ダンデとキバナは本日の目的地へと向かう。天気の変わりやすいワイルドエリア、本日は快晴。天気も大きく変化することはないという予報だった。これ以上ないキャンプ日和だな、と二人で笑い合った。
二人で向かうのはワイルドエリアの奥地、道があるとも一見しただけでは気付かないくらい草の生い茂った細い道を抜けた先にある秘密基地のような場所だ。多くのトレーナーはこんな奥地まで足を運ばず、しかし人を見るなり襲ってくるような強く危険なポケモンが出現することもあまり多くない。キバナのようにワイルドエリアを知り尽くした人間しか知らないここはプライベートでキャンプを楽しむのにもってこいだということで、キバナ、そしてキバナに誘われてこの場所を知ったダンデの二人はいつからかキャンプの際には決まってここにテントを立てていた。
ダンデもキバナも明日は午前休となるので、今日のキャンプは久しぶりに泊まりがけにしようということになった。二人で泊まりがけのキャンプなんて何年ぶりだろう、まだ子どもの頃には何度もやったことがあるが、大人になってお互いにより忙しく責任ある立場になるととんとそんな暇も取れていなかった。提案したのはキバナからだったが、ダンデも楽しそうにわくわくしている様子だったので、そんなダンデを見てキバナもまた嬉しくなった。
二人とポケモンたちで協力してテントを立て、ポケモンたちとたっぷり遊んだ後には夕飯に作るカレーの材料を集める。キバナが持ってきたカレールー、ダンデが持ってきたレトルトバーグ。それに加えて近くの木に実っているきのみもいくつか頂いて、簡易テーブルの上に並べる。
キバナは辛めのカレーが好きだが、ダンデは少し渋みのある味付けが好きだったはずだ。告白をしたあの夜、ダンデにカレーを振る舞った時もさりげなくそういう味付けにしていた。この中だったら、と並べたきのみを一通り眺めた後キバナはクラボのみとカゴのみを選んで、これを軸に味付けをしようと考える。普段から趣味程度に料理をするキバナがカレーの味付け、キバナほど料理はしないダンデは炊飯と仕上げをメインに担当するという役割分担をした。
手際よく材料を切って、鍋に投入する。ぐつぐつと煮える鍋の様子も見つつ、近くで遊んでいる二人のポケモンたちを眺める。試合の時こそ一歩も譲らぬ真剣勝負を繰り広げる互いのポケモンたちだが、共に戦い過ごしてきた時間が長いため、こうしたプライベートにおいてはすっかり仲良くなっていた。コータスとジュラルドンとオノノクスはのんびりと休憩し、フライゴンとバリコオルはポケボールで楽しそうに遊んでいる。ドラパルトはそんな様子を眺め、ヌメルゴンはダンデの顔がプリントされたチャンピオンボールを容赦なくぬめぬめにしながら遊んでいて、リザードンはそれを少し複雑そうな様子で見ているので思わず笑ってしまった。
「? どうかしたか?」
ダンデが急に笑い出したキバナを不思議そうに見るので、キバナがポケモンたちに気付かれないようにそっとヌメルゴンとリザードンの方に目線をやる。その目線の先を追ったダンデも察したようで、楽しげに笑った。
「楽しんでもらえて何よりだぜ!」
「ご本人にそう言って貰えてよかったわ」
チャンピオンボールはダンデ本人が以前「ポケモンたちに」とキバナにプレゼントしてくれたおもちゃだ。おもちゃメーカーのスポンサーとのコラボ商品で、まだ在庫があるからとキバナにもお裾分けしてくれたのだ。その少し前に、ポケモン用のおもちゃがボロくなってきて……と雑談の中で零していたゆえの配慮なのはわかったが、封を開けた瞬間これを本人がプレゼントするか? と腹を抱えて笑ってしまったことを思い出す。試しにポケモンたちに与えてみたところ、大多数は戸惑いの色を見せていたが、ヌメルゴンは最初から容赦なく遊び倒していた。
鍋の中のカレーが煮立った頃、タイミングぴったりでダンデも米が炊けたと言う。キバナが何度か味見をして味を微調整した後、最後は二人でまごころを込めて完成。まずはポケモンたちの分をよそって、その後に自分たちの分。ハンバーグを大胆にのせたカレーはボリューミーで美味しそうだ。太陽もすっかり傾いて、空を橙色に染めている。
テーブルについて、同時にカレーを一口。ピリっとした辛さの奥にあるアクセントの渋み、うん、うまくできた。さすがオレさま、と自画自賛していると、カレーを咀嚼したダンデも「うまい」と破顔した。そんなダンデの表情が嬉しくてじっと眺めていると、ダンデが段々とそわそわとし始める。
「どうかした?」
聞いてみると、ダンデは一瞬ぐっと口ごもった後、普段の快活さからは想像できないくらいの辿々しさで答える。
「……それはこっちの台詞だ、ぜ」
そんなダンデの様子に、キバナは自分の表情筋が緩むのが分かる。楽しくてしょうがない。
「あ、もしかして照れてる、とか?」
わざとらしくそう言ってやると、ダンデが押し黙る。その沈黙が肯定だ。
「じゃあもっと見ちゃおうかな~」
ふざけた調子で言うと、ダンデが「やめてくれ」と顔を伏せる。その耳がほんのり赤い。キバナはそれを見てくすくすと笑う。ダンデとこんな風に軽口を交わせるのが楽しかった。
以前だって、勿論ダンデは人間だ。間違いなく、生身の、ただの一人のダンデという男だった。けれどチャンピオンの座を退いて、そしてキバナとこういう関係になってから、ダンデのありふれた人間くさい表情を見ることが格段に増えたように思う。それがキバナは嬉しかった。そのこと自体も、そうさせている一端が自分にあるんだろうということも。
それに、少しは、意識してもらえるようになったのかな。そう思えて、また嬉しさが増した。
「早く食べないとカレーが冷めるぜ」
「おっとそうだった。美味しいうちに食べてやらないとな」
ダンデの言葉に、素直に目の前のカレーに目線を戻す。食事は美味しい状態のうちに食べるのが一番だ。それに、これ以上ふざけてダンデの機嫌を本格的に損ねたくはない。カレーを一口食べる。咀嚼しながら、へそを曲げられない程度に目の前のダンデを盗み見る。食事をゆっくり味わうダンデ、というのは、何度見ても未だに感慨深い思いになる。
――ダンデとのこんなゆっくりした休日、いつしか想像しなくなっていたなと思う。想像もしなかった未来が、しかし今ここにある。
夕飯のカレーを食べ終えて後片付けを終えてから、ダンデが今バトルタワーのレンタルパーティ用に育成中のポケモンが何匹かいるのだということで、彼らの実践練習も兼ねて一対一のバトルをする。本気のパーティでの試合もしたい気持ちはやまやまなのだが、キバナとダンデが本気で戦うとなればスタジアムくらいの広さがないと危険だということで断念した。まだタマゴから生まれて日の浅いポケモンたちは不慣れな様子で、しかし一生懸命バトルに挑む。お互いの手持ちとは異なる、しかも生まれて間もない実戦経験の少ないポケモンたちということで普段とはまた違う面白い戦局とはなったが、最後あと一歩キバナが及ばずダンデの勝利となった。
「あー! 悔しい!」
「普段とは違うポケモンだが、勝ちは勝ちだぜ、キバナ!」
そうダンデが勝ち誇ったようににっと口角を上げる。ダンデはいつだってどんな勝負だって本気だ。それはキバナだって同じだった。だからこそ、この男に勝ちたいし、この男との勝負が何よりも好きだと思う。
げんきのかけらときずぐすりでポケモンたちの体力を回復してやり、ボールに戻す。先程までポケモンたちの鳴き声や技による音がさまざま飛び交っていた空間が、急にしんと静かになる。太陽はもうとっくに沈んで、雲一つない空には星々が瞬いていた。
「本当にここは星が綺麗に見えるな」
横を見れば、ダンデも同じように空を見上げていた。
「ああ。普段シュートやナックルだとなかなか見えづらいしな」
小さな野良試合でかいた汗を手の甲で軽く拭って、テントの前に置いた椅子に凭れる。ダンデもキバナの隣の椅子に座った。
「ハロンタウンよりももしかしたら見えるかもしれないぜ」
そう夜空を見上げるダンデの瞳がきらきらと瞬いて、まるで星空を反射しているみたいだ、なんて詩的な表現がキバナの脳裏に過ぎる。流石に気障すぎるな、と思って口に出すのは止めた。
「――あ、そうだ。ロトム!」
キバナが一声呼ぶと、キバナの優秀なるスマホロトムはテントの中に置かれたカバンからすぐにふよふよと出てきてキバナの側に来てくれる。
「写真撮ってくれないか。楽しかった今日の記念に。オレさまとダンデが一緒に映るようにしてくれれば、画角は任せるよ」
「了解ロト!」
流石いつも試合中にバッチリ盛れ盛れの自撮りを撮ってくれるキバナのスマホロトム、得意分野だとばかりに意気込んだ返事を返してくれる。キバナとダンデの少し斜め上、二人がきれいに入る画角まで飛んでいってカメラを向ける。
「それじゃあ撮るロト~」
「おう。ダンデも」
「ああ」
ぱしゃり、フラッシュを焚いてシャッターが切られる。ロトムがキバナの目の前まで戻ってきて、写真の確認のために画面を見せてくれる。うん、バッチリ。二人がばっちりと画面の中におさまって、画角もフラッシュの焚き加減も最高。流石オレさまのロトム。「ありがとう、流石だな。もう休んで大丈夫だぜ」そう褒めるとロトムは嬉しそうに「どういたしましてロト!」と言ってキバナのカバンまで戻っていった。
「ポケスタにアップするのか?」
ダンデの言葉に、キバナは首を振る。
「いや?」
そう返すと、ダンデは不思議そうな表情をする。
「そうなのか」
「完全プライベートだからな」
言ってから、「恋人同士としての、ね」とキバナはさりげなく付け加える。
「オレさまだって何でもかんでもポケスタにアップするわけじゃないぜ」
キバナの言葉に、ダンデは納得したようなしていないような。じゃあなんのために? と言いたげだ。そんな顔を見て、キバナはふっと笑う。ダンデはチャンピオン時代は情報発信用アカウント、現在はバトルタワーの公式アカウントは持っているものの、どれも運営はスタッフが行っておりダンデ自身は一切ノータッチ、個人としてはこれまでも現在も一切SNSはやっていない。やる必要性を感じないというか、よくわからないしな、とダンデは言う。写真だって取材などで撮られることは山ほどあっても、自分で進んで撮ることはほとんどない。記録に残すよりも、自分の目で見たものを心の中に残していくタイプだ。
それもダンデらしくてキバナは好きだ。けれど、キバナの考え方は少し違う。
「残しておきたいんだよ。嬉しかったこと、楽しかったこと――悔しかったこと、悲しかったことまで、全部」
キバナが初めて自撮りをしたのは、ダンデに初めての敗北を喫した時だ。これまで感じたことのないくらいひりつくような熱い試合に高揚して、でもそれ以上に悔しくて悔しくてたまらなくて、このぐちゃぐちゃの感情を、次は絶対に勝つという強い気持ちを忘れたくなくて、写真を撮った。写真を見ればいつでも思い出せる。それから、キバナは「残す」ことを大切にするようにした。その瞬間瞬間は、すぐに通り過ぎて日常の中に流し去られてしまう。この時間も感情も薄らいでしまわないように。
「そういうものなのか」
「そういうものなの」
キバナは返して、「もうすっかり暗くなったし、そろそろ寝るか」と立ち上がって伸びをした。
二人でテントに入って、並んで寝転がる。数年前に新調したキバナのテントは身長の大きなキバナでも余裕のある広さのものを選んだつもりだが、キバナほどではないが大きい方のダンデも一緒に並んで横になるとテントの中はかなりきつくて二人で顔を見合わせて笑ってしまった。小さな頃は、逆にテントの中はそれなりに余裕があって、自分たちだけの秘密基地のように思えたのに。
「狭いなー」
「ああ。でも、嫌いじゃないぜ」
「オレさまも。たまにはいいんじゃない、こういうのも」
そう言ってキバナがけらけらと笑う。
「なんだか、懐かしいな」
そう言うダンデの表情は柔らかい。ランタンの淡い明かりに照らされたその横顔が、きれいだな、と思った。口には出さない。
「ホント。昔はやってたけどなー、何年ぶりだよ」
「大人になってもキャンプは楽しいものだな」
「楽しんでもらえたならよかった。またやろうぜ」
「ああ!」
そう言ってダンデは快活に笑う。笑い合った目がぱちんと合って、そしてふと落ちる静寂。
ダンデは世間で思われているよりもずっとプライベートは静かなことが多いし、二人で過ごす時取り立てて会話を交わさない時間もあるから、会話が途切れるのも普段ならば別に気にはしない。けれどその時ばかりは何となく気になって、「ダンデ?」と聞くと、ダンデははっとした様子で、しかし「あ、……すまない、ちょっとぼーっとしていたぜ」と苦笑した。
「大丈夫かー? ホント、疲れてんじゃないのか」
他者に対して――とりわけダンデに対して強く発揮されるキバナの心配性が顔を出そうとすると、「いや、そういうんじゃないんだ! 今日、楽しかったな、と思って」とダンデが笑ってみせる。少し引っかかるところはあるが、その言葉には嘘はなさそうだった。
「何かあったら言えよ、本当に」
「ありがとう」
おやすみ、と言ってキバナはダンデの額に唇を押し当てる。ダンデはくすぐったそうに、でも楽しそうに柔らかく笑って「ああ、おやすみ」と返事をしてくれた。
テントの中のランタンを消すと、暗闇が二人の空間を包む。目を閉じて眠気が降ってくるのを待っているうちに、隣からはすう、と規則正しい呼吸の音が聞こえてきた。
(ダンデ、もう寝たかな)
なんだか今日はまだ眠くなってくれない。ゆっくりと目を開ける。暗闇の中、多少は慣れてくれた目が薄ぼんやりとしたテントの中を映し出す。右側に視線を移す。タオルケットをかけてお行儀のいい姿勢で横になるダンデが、穏やかな表情で寝息を立てていた。
ダンデを起こさないように気を付けながら、キバナは身体を動かしてダンデの方を向く。すぐ近くにあるダンデの横顔に、小さく心臓が浮かれて弾む。きれいに整った、しかしどこからどう見てもれっきとした男性の、ずっと追い続けたライバルの顔。こんなに近くで見る日が来るなんて、それがこんなにも愛おしく思える日が来るなんて、以前は夢にも思っていなかった。たまに不思議な気持ちにもなる。けれど、今はこのことが嬉しかった。
「恋人同士」のお泊まり。キャンプをして、一緒にカレーを作って食べて、ポケモンバトルをして、一緒のテントで眠って。触れ合いといえば、先程の額へのキスくらい。健全すぎる、子ども同士の恋愛か、と思う。
だけど今の距離で、十分幸せだと思うのも本心だ。
全く同じ感情でなくとも、ダンデがオレの手を取ってくれたことが嬉しかった。
恋愛感情なのかわからないとあの時ダンデは言ったけれど、それで構わない。予定を合わせては一緒に過ごして、隣同士で眠って、手に触れて、戯れのように唇を落として。友人にしては少し過ぎて、恋人と言うには幼い触れ合いが今は楽しかった。
恋人同士、その言葉の先にどんな触れ合いが待っているか。キバナだって知らないなんてことは勿論なかった。けれどキバナはそのことを今は考えていなかった。考えないようにした。
そういうことをしたくないわけじゃない。正直に言えば、したい。キバナだって、人並みに性欲はある大人だ。だけど、別に無理にする必要もないと思っていた。想像することもないではないけど、……なんなら、一人でする時に思い浮かべない、わけではないけど。どうしても我慢がきかないなんてわけじゃない。オレにとって一番大事なことはダンデの一番近くにいること、自分をどうにもなかなか大切にしてくれないダンデを大切にすることであって、体を手に入れることじゃない。
――本音は。本音は、少し、怖い。こういう関係性になったけど、ダンデの「好き」が恋愛のそれになっているのか今もわからないし、ダンデ本人もまだあまり分かっていないと思う。ダンデも楽しんでくれていることは分かるし、少しずつ、少しずつ意識はされるようになってきていると思うけれど。まだそれを「恋」だと勝手に判断するのは性急すぎるように思えて。
戯れのようなキスは許されているけど、それ以上となると拒まれるかもしれない。オレは、ダンデの嫌がることを求めたくない。拒絶されるのも、怖い。
だから、このままで。今はこのままで、十分幸せなんだよ。
「ダンデー」
聞こえるか聞こえないか。小さな声で呼んでみるけれどダンデはすっかり夢の中だ。あの夜とは違う、楽しそうで、生気が溢れている寝顔。そのことにキバナの口角が緩む。
穏やかな日常の中にダンデが在ることが、そしてその一番近くに自分がいられることが嬉しかった。忘れたくなかった。流石に今は写真は撮らないけれど。
「……なあ、オレは、オマエが好きだよ」
聞こえてるはずが無いのに、そう言うと、ダンデが少しだけ笑った気がした。
――なあ、もし。もしオマエがオレを本当に好きになってくれるなら。