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今年のジムチャレンジの準備が少しずつ、速度を上げて動き出す。そうなるとリーグ委員会も各ジムも忙しくなるのは必然だ。ダンデは今日も分刻みのスケジュールを、会議室や執務室、ガラル各地のスポンサー企業や協力企業等々を往復しながらこなしていく。
あのキャンプの後、お互いにこの通りの忙しさなのでキバナになかなか会えていない。しかしメッセージを送り合ったり暇を見つけて電話をしたり、と連絡はそれなりに取ってはいる。そもそもあのキャンプだってこれから忙しくなることを分かっていてリーグスタッフが無理矢理休みをねじ込んでくれ、キバナだって恐らくそれなりの無理をしてスケジュールを空けて実現したものだ。
タワーの外に出ると、もう日が傾いていて驚く。これからスポンサーとの打ち合わせのため、エンジンシティへと向かわなければならない。外に控えていてくれたアーマーガアタクシーに乗り込む。行き先は既にスタッフが伝えてくれていたようだった。ダンデが乗り込むとすぐにアーマーガアがその美しい漆黒の鋼の翼を羽ばたかせ、空へと飛び立っていく。座席に凭れて、ぼんやりと外の夕暮れの美しさを眺める。ぐんぐんと高度を上げていくアーマーガアタクシー、進行方向の正面、良く晴れた今日はナックルスタジアムも遠くてまだ薄ぼんやりとしてはいるが見つけることができた。
(……ああ、そうだ)
なんとなく、ポケットから私用のスマホを取り出して写真フォルダを開く。そこまで枚数の多くないフォルダの中で、一番に表示される最新の写真にダンデは思わず顔を綻ばせる。キバナから転送してもらった、先日のキャンプの写真だ。
忙しい日々の中でも、こうして写真を見れば楽しかった時間が一気に蘇ってくる。ふっと息を吐くことができる。
チャンピオンの時は、ただただひたすら正面だけを見つめて走り続けてきたけれど。
(楽しいことを残しておくって、こういうことなのかもな)
キバナとはポケモンバトルの時は誰よりも近い目線で通じ合っているように思えるけれど、普段の生活や趣味趣向は全く異なる。ファッションやSNSをはじめ色んなことに広く精通している彼は、ダンデの知らないことをたくさん教えてくれる。今まで不要だからとダンデが置き忘れてきた色んなものもキバナはしっかりと拾いながらも、バトルの時にはダンデの一番近くに食らいつき続けてきた。改めて器用ですごい男だと思うし、そんなキバナから教えて貰う、渡して貰う色んなものが嬉しく大切にしたいと今はそう思える。
遠くに見えるナックルスタジアムに目線を戻す。きっと今日も忙しなく仕事をこなしているであろう彼をダンデはアーマーガアタクシーに揺られながら想像していた。
今日も一日の仕事にどうにか片をつけて、キバナにまた心配をかけないように日付が変わる前に自宅に帰る。移動する時間が面倒だとは多少思うが、やはり自宅は落ち着けるし自前のベッドは職場の仮眠室より圧倒的に寝心地が良い。自分とポケモンたちの夕飯は職場で軽くとってきたので、汗を流すため軽くシャワーを浴びて寝間着に着替え、最低限の寝る準備を整えてベッドにダイブする。
目を閉じて、さて眠ろう――としたところで、下半身の違和感に気付いてしまう。寝間着のスウェット地のズボンをゆるく押し上げるそれを認めて、ダンデは溜息を吐いた。
どんなに忙しい時でも、生理現象としての勃起はする。……面倒だ、こんなのなければいいのにと思うけれど、一度灯った熱は吐き出さないと眠れやしない。気付かずにこのままま寝てしまいたかった、なんて思うが仕方がない。ベッドサイドのティッシュボックスからティッシュを何枚か抜き取り、下半身に手を這わせて、ゆるく勃ち上がったそれを扱く。ダンデにとって自慰は溜め込んだ熱を仕方なしに吐き出す為のただの作業だった。いつも通り、早く終わらせよう、と思う。そのつもりだった。
目を閉じる。何も考えないつもりだったが、――なぜか不意に、頭の中に彼の顔が過ぎってしまう。
瞬間。ぶわり、と体温が上がった気がした。
(――……、ッ!)
何で、今思い出すんだ。そして、生理現象だけでない熱が灯ってしまった自分がいた。わずかに硬度を増した熱、先端をぐ、と弄る指先は動揺のせいか少し力が入りすぎてしまった。ぴり、と確かな快感が背中を伝う。
ダンデを柔らかく見つめるターコイズブルーの瞳、試合の時とは全然違う穏やかな声色、優しい指先。いつもはふわふわと幸せな気持ちで思い出すそれが、今はダンデの興奮を煽った。
この感情が性と結びついてしまったことと、自分の浅ましさへの動揺。しかしキバナを脳裏に思い浮かべてしまった瞬間、明らかにこれまでと違った。手が止まる。いや、でも、早く終わらせて眠らなくては。そう思って、自慰を再開する。
大きく息を吸う。自慰の合間、ふ、と名前を呼んでみる。
「き、ばな」
吐息と共にそう零した自分の声は自分で思っていた以上に小さくて頼りない。しかし言葉にすると、生々しい興奮と背徳感がダンデを襲う。先走りがとろりと、熱を増したダンデの先端から零れ落ちる。
興奮、羞恥、背徳感、動揺。耳がいやに熱い。
(――キバナ、に、会いたい)
そう、思ってしまった。
オレは今、何を。そう動揺する自分もいる。しかし一度頭の中で言葉にしてしまうと、言葉に後から追いついてきた感情がわっと溢れ出す。
(……オレは、寂しかったのか?)
そんな自覚はなかった。なかったのに。そう思ってしまった。自分の感情とか痛みとかに鈍感だと、そう指摘されたことは何度もあるが。思っていなかったはずなのに、そんな言葉が浮かぶとようやく居場所を見つけたかのような感情がすとんとそこに居座ってしまった。
触れて欲しい、触れたい。キバナから与えられるあの柔らかなあたたかさが、触れ合いが好きだった。嬉しかった。そう思った自分に驚かされた。
(オレは、キバナを――)
あの夜、オレはこの先に何を入れるつもりなのか分からなかった。
これが恋なのか、ずっとわからなかった。分からないままキバナの愛情を受けているのが、どこか申し訳なくもあった。
けれどキバナと一緒に過ごして、楽しくて、そしてこれまでのライバル兼友人としてではないとろけるような優しい目で見つめられるとどこか落ち着かなくて、でも幸せな気持ちになった。
キスも好きだ。あの大きな手で触れられることも好きだ。
ただライバルであった時、ただ友人であった時には知り得なかったキバナをたくさん知った。彼のことはよく知っていたつもりだったのに、知らないことだらけだった。思い出すと胸がきゅうとなって、じわりと全身に熱が灯る。
今の関係性が心地よくて、キバナの優しさに甘えて、忙しさを理由に自分の感情に真剣に向き合わないままここまできてしまったけれど。
「キバナ」
口から零れ落ちた名前に、脳裏に浮かぶキバナから注がれた愛情たちに、どうしたって愛しさが溢れずにはいられなかった。
キバナは、ダンデの中でずっと特別な存在だった。
ポケモンバトルが大好きで大好きで、大好きで仕方がないダンデが、同じ炎を同世代のチャレンジャーであった彼の瞳の中に見つけ出した時の高揚も、ダンデにも予想のつかない大胆かつ緻密な計算に基づいた試合運びの興奮も、何度倒しても倒してもめきめきと成長してはダンデに全力で挑み続けてくれた喜びも、どれほどのものかきっと彼は知らないだろう。「ガラルのトレーナーみんなで強くなりたい」そうずっと思っていたダンデにとって、どこまでも強くなって何度でもダンデに食らいついてくれる、そしてジムリーダーになってからはジムトレーナーを始め後進の育成にも大きな役割を担うようになった彼は、大きな希望でもあった。
ポケモンのこと。バトルのこと。ガラルのこと。ダンデが熱く語るそれらを、キバナもいつも同じくらいの熱量を持って返してくれた。弱冠十歳でチャンピオンに就任した天才。伝説。そう呼ばれ大人たちに囲まれて過ごす時間の長かったダンデにとって、そんな相手は貴重だった。
ダンデの中でキバナの存在が大きくなるのは、必然のようなものだった。
キバナの才と努力を誰よりも知っていた自負があった。頻繁に一緒にトレーニングをしたりなどはしていなかったが、戦えば全部痛いほどに伝わる。
ダンデはきっと、キバナがその牙を届かせる日を心のどこかで待っていたのかもしれなかった。負けるつもりなんて毛頭なかったが、もしも、例えば、この座を明け渡す時がくるならば――。それも、叶いやしなかったけれど。それに、若い才が育ったことは、ダンデにとっても心から喜ばしいことであるのは間違いはなかった。
ダンデがチャンピオンでなくなってからも、キバナはダンデを「ライバル」と公言したしこれまでの付き合いが変わることはなかった。それが改めてじんと沁みるように嬉しかった。
キバナは、ダンデの中で間違いなく特別な存在だった。
彼と過ごす時間は楽しかったし、彼が楽しそうにしていると嬉しかった。そんな彼が、ダンデの一番近くにいる権利をくれと、手をわずかに震わせてそう口にしてくれたことが、嬉しくないわけがなかったのだ。だから、オレは。
(熱の意味は違っても、オレは、キミがずっと大好きだったんだ)
そうだった。意味は違っても、大好きなんだ――そのはず、だった。
だけど。
(あんなふうに、大切だと言外に言われているように触れられて、見つめられて)
穏やかで柔らかなターコイズブルー。どこまでも優しく触れる指先。ずっと大切だったキミの目線の奥、これまでのライバルとも、親友とも少し違う時間、見つけ出してしまった灯る熱。全部嬉しかったんだ。
思い出す彼の姿に、自分の思考に、耳が熱くて仕方がない。――ああ、もう、だめだ。これはもう、どう考えたって、オレは。
(……恋愛感情として、好きにならない方が、無理だろう)
楽しくて、嬉しくて、幸せで、でも不安で、自分の知らない自分がどんどん膨らんでいく。それが嬉しくて怖い。
恋愛とは、もっと幸せや嬉しさばかりに満ちあふれたものだと思っていた。こんなに色んな感情が複雑に絡み合って、自分では制御できなくて、どうしようもなくなるようなものだなんて知らなかった。けれどその感情を与えてくれるのがキバナだと思うと、そわそわと落ち着かなくて気恥ずかしいような、でもやっぱり嬉しい気持ちでもあった。
オレは誰かと付き合うのはキバナとが初めてだ。これまで恋をしたこともない。――これが恋だというなら、キバナがオレの初恋だ。だから世間一般の平均とか常識とかは分からない。だからといって全く知識が無いわけでもない。
(キバナは、オレと――この先に進むつもりは、)
脳裏に彼の姿を思い浮かべる。ふとした瞬間に触れる唇、ダンデの髪を撫でる指先。至近距離で合う目。思い出すごとに、幸せな気持ちも蘇ると同時に心臓がきゅうと音を立てるようだった。手のひらの中にある自身の熱が増す。とろとろと零れ落ちる先走りで指先がぬるつく。
「……っ、あ」
くる、と思った。慌ててティッシュで受け止めた白濁はどろりと濃い。
はあ、と普段の自慰とは全然違う、荒くなった呼吸を整える。汚れた手を雑に拭ってティッシュを丸めて捨てて、再びぼすんとベッドに横になる。波が引いていくかのようにゆっくりと引いていく熱を感じながら、ぼんやりと天井を眺めた。
本当は。本当は少し前から、心のどこかで思ってはいた。キバナは、この先に進むつもりはないのだろうかと。
別に自分はそれでも構わない。キバナと一緒にいることが楽しいのだから、体目当てなわけじゃない。性欲だって自分は強い方では無いと思う。
キバナはきっと曖昧な返事をした自分に遠慮しているのだろう。キバナはとてつもなく優しくて周囲にさりげなく気を配れる男だから。そんなことしなくたっていいのに。「恋人になる」ということを了承したのは自分なのだから、遠慮なんてしなくてよかった。
だけど、……それだけじゃなかったら、なんて不安が心に過ぎる。彼からの気持ちを疑っているわけではないけれど、しかし肉体関係を伴わない形での恋愛関係や夫婦関係を築いているパートナーたちだって世の中にはいる。同性同士であれば特に、そういう選択をする人たちもいるのだと聞く。恋愛感情と肉欲は限りなく近いところにはあっても別のものだ。
先程までの自慰で零れ落ちた吐息混じりの声は低く、色気もなにもない。自分でも到底好きになれそうになかった。ポケモンたちと共にトレーニングをして鍛えたこのがっちりとした身体は触れて気持ちのいい柔らかさもなければ、セクシーでもない。自分ではこの身体はそれなりに満足しているが、恋愛とか、性欲とかとなれば別だろう。キバナは若者に人気のファッション誌や女性向けの雑誌で色気のあるようなグラビアを求められることが多々あるようだが、ダンデはポケモン関連の雑誌の取材や精々筋トレ特集に呼ばれることはあれど、そういった恋愛だとか色気だとかの方面には今までほとんど呼ばれたことはない。
(……キバナもこの体には興奮は、しないだろうな)
キバナはするとしたらトップのつもりなのかボトムのつもりなのかは分からないが、どっちにしたって、この体が何らかの性欲を呼び起こすとは到底思えなかった。吐精して冷静になっていく頭の中で、ダンデはそんなことを思った。
◇
キバナと話をしよう、しておかないといけない。そう思い立ってスケジュールを再度確認する。明明後日の夜、ジムリーダーを交えた会議がバトルタワーで開催される。その後のダンデの予定は空白だ。ジムリーダー会議ならば当然ながらキバナもシュートシティに足を運ぶ――ダンデはスケジュール帳を閉じて、メッセージアプリを起動した。
明明後日の会議の後に予定はあるかとキバナにメッセージを贈ると、驚く程にすぐに返ってきた返事はノーだった。じゃあ、その後うちに来ないか。そう誘うと、またすぐに返ってきた返事はイエスだ。続けて、「ダンデから誘ってくれるの嬉しい」と楽しげなポケモンのスタンプを添えたメッセージが届く。そういえばこういう関係になってから今まで自分から誘ったことってほとんど無かったな、と思って少し反省すると同時に、キバナも楽しみにしてくれているのが伝わってくるのは嬉しい。
この感情を自覚してしまってから、キバナに会える、と思うと何だか少しむずむずとする。しかしやっぱりどうにも嬉しい気持ちだった。
(……そうか、これが「恋」なのか)
会議はつつがなく終了し、資料を纏めてカバンに詰め込むダンデをキバナがさりげなく待ってくれていた。椅子から立ち上がってぱっと目を合わせるとキバナは小さく頷いて歩き出し、ダンデもその隣に並ぶ。元々がこの会議はバトルタワーの定時を過ぎてからの開催なので、そのまま直帰するとタワーのスタッフには事前に伝えておいた。今日中に終わらせなければならない仕事も少し早めに出勤をしてどうにか片付け済みだ。その足で約束通り二人でダンデの家に帰宅する。
夕飯はお互い会議の前にとってあったので、それぞれにシャワーを浴びて、軽くアルコールをあけて今日もお疲れさまと乾杯。缶を傾けながら、ふかふかのソファに座って他愛のない話をする。最近ジムであったちょっとしたハプニング、この間テレビで見た新しいポケフード、バトルタワーの挑戦者たちの面白い戦術。そうして話しながら、キバナにどう話を切り出そうか――とタイミングを考えているうちにあっという間に日付も変わってしまっていた。いつもならば、もう寝ないとなとキバナが言い出す頃合いだ。その前に話さなければ。ダンデが口を開こうとした時、タッチの差で先に喋り出したのはキバナだった。
「……で、ダンデ、何か話したいこととかあった?」
さりげなく、穏やかに、でもしかしダンデの目を見つめて発された言葉にダンデは咄嗟にうまく答えられず「え」と零してしまう。そんなダンデに、キバナはふっと柔らかく笑う。
「図星?」
「……何で分かったんだ」
「ダンデから誘ってくるの珍しいし、この忙しい時期に言い出すなんて余計に、だろ。それに、今日の様子見てたらな」
「……オレ、そんなに分かりやすいか?」
そう言うと、キバナは「いや?」と小さく口角を上げる。
「オレさましか気付かないだろうけど」
「……キミは、さりげなくそういうことを言うな」
ダンデが耳を赤くすると、キバナは得意げにふふんと鼻を鳴らす。
「オレさまを舐めるなよ、ライバル兼、親友兼――」
「恋人、だろう?」
キバナの言葉に被せるように口にしたダンデのその言葉に、キバナがその垂れた目を驚いたように小さく見開く。
言うなら今だ。そう思ってダンデはすう、と意識的に大きく息を吸う。
「キバナ。ちょっと、聞いて欲しいことがある」
「……うん」
改まったダンデの様子に、頷いたキバナの表情にもにわかに緊張の色がさす。キバナは今、何を想像しているのだろうか。悪い想像であれば早く拭ってやりたくて、ダンデは慌てて付け足す。
「ああ、違う、悪い話をするつもりはないんだ。なんていうか、その」
一呼吸おいて、ぎゅっと自分の拳を握りしめる。握った手のひらはじわり、汗が薄く滲んだ。そして「……オレは」とダンデは意を決して言葉にする。
「――キミが好きだ、キバナ」
もっと格好良く、大人らしく、落ち着いて伝えるつもりでいたはずなのに口に出してみると声は想像していたそれよりもずっと細くて頼りない。少し震えている。恥ずかしいが、許してくれ。告白なんて生まれて初めてなんだ。あの夜のキバナの様子がフラッシュバックする。――あの時、あの言葉をくれた時、キミもこんな気持ちだったのか?
キバナはダンデを見つめて、目を瞬かせる。その瞳の奥、美しいターコイズブルー、その奥にやわらかな、しかし確かな熱をダンデは見て取る。
「この関係になる時、返事が曖昧なままだっただろう。遅くなって悪い。ずっと考えていたんだ、オレはキミが、好きなのか」
「……応えるなんて考えなくて良いって最初に」
「分かってる」
ダンデはキバナの言葉を遮るように言う。あの夜のことを思い出す。曖昧な返事しか返すことの出来なかったダンデに、キバナは「応えるなんて考えなくて良い」と言ってくれた。それは紛れもないキバナの優しさだった。それにダンデはずっと甘えていた。この居心地の良い、温い温度に浸かり続けていた。だけど。
「分かってる。だけどオレの気が済まなかったし――」
ぐ、とダンデは距離を詰める。キバナは一瞬息を飲んだようだった。抵抗や、逃げるような素振りはない。
「応えずには、いられなくなってしまったんだ」
キバナの頬に手を添える。ソファにもう片方の手をついて、座ったまま背伸びをするようにダンデよりも少し高い位置にあるキバナの顔に自分の顔を寄せる。唇が触れる。
自分からキスをしたのは初めてだった。
「無理して言っているわけじゃないぜ。……本当に」
唇を離して、至近距離でダンデは言う。キバナは驚いたように動かない。ダンデを見つめている。
自分の気持ちを――自分のいちばん柔らかいところにある感情を打ち明けることがこんなに緊張するなんて知らなかった。キバナはオレを好いてくれている、それが分かっていてもなお。断られるかもしれないと思いながら自分の思いを告げてくれたキバナは、どれだけの勇気を出して伝えてくれたんだろう。そう思うとまたたまらない気持ちになった。
「一緒に過ごしているうちに分かった。オレは、キミが好きだ。一緒に過ごすのも楽しいし、大切にされるのも嬉しい。……キミに触れられるのも、好きだぜ」
キバナの身体が動く、と思ったら、一度は離れた唇に今度はキバナから口付けられた。温くて柔らかくて優しくて、そして長いキスだった。唇から伝わってくる温度から、感触から、キバナの気持ちが伝わってくるかのようだった。今までで一番長いキスだった。
長い口付けを終えて、唇が離れる。キバナはひどく優しい表情で笑う。その瞳の奥には、やわらかな炎。
「……ありがと、嬉しい」
その表情がいじらしくて、うつくしくて、ダンデは一瞬見惚れてしまった。
キバナは自分の髪をがしがしと掻いて、眉を下げる。
「……ちょっとだけ、一瞬だけ、別れ話されるのかと思った」
「そんなわけ、」
ダンデが慌てて否定しようとすると、キバナは苦笑する。
「ダンデが楽しんでくれてるのは分かってたよ。だけど、『このままじゃキミに申し訳ない』とか言って振られるんじゃないかって」
「……意外だな。キミがそんなに臆病だなんて」
「そう。オレさま臆病なの、ダンデとの恋愛限定」
恋愛感情、自覚する前はこんな風になることなかったのになぁ、とキバナは笑う。その言葉に、ダンデも共感してしまった。ライバル、親友、それだけでいた時はこんな風に不安になったり怖くなったりすることはなかった。自分の感情が自分ではコントロールしきれないような。これまでの人生で感じたことのない類の感情だ。それに戸惑う気持ちも、正直なところまだ強い。
「……知らない方がよかったか?」
ダンデが零れ落ちるように口にした言葉に、キバナははっきりとかぶりを振る。
「いや。この幸福を知らない方がよっぽど嫌だね、今となっては」
もう一度唇が、今度は軽く触れる。――本当に、そうだ。離れかけた唇を今度はダンデから追いかける。ダンデの方から重ねた唇。キバナの口角が嬉しそうに小さく上がった気がした。
何度かバードキスを交わして、唇が離れる。ふわふわと幸せな気分の中、しかしこれも聞いておかなければ、とダンデは口を開く。
「……それで、だ。聞きたいんだが」
この機会を逃したら、また曖昧なままモヤモヤしてしまいそうで、それはダンデの性格上嫌だった。
再び改まったように言うダンデに対してキバナは不思議そうに、しかし柔らかな表情のままじっと次の言葉を待ってくれている。キバナが聞いてくれようとする、ダンデの言葉を受け止めようとする体勢でいてくれることで、ゆっくりと変な緊張が解けていく心地だった。そのおかげで「キバナは」と、今度はするりと言葉が出てくる。キバナは「うん」と頷く。
「――キバナは、この先に進むつもりはあるのか」
ダンデの言葉に、キバナが驚いた様子で固まった。数秒の沈黙の後、キバナがゆっくりと目を瞬かせて、ようやく口を開く。
「……この先、って」
遠慮がちに、言葉を選ぶようにキバナは言う。その意味、分かってる? とでも言いたげな目線を向けられる。
……そりゃあ、オレは十歳の頃から今日まで――そしてきっとこれからの人生も――ポケモンバトルに捧げてきて他のことにはひどく疎いし、その時間一切の恋愛スキャンダルや噂話も無しに過ごしてきた。キバナの中でオレとそういったことが結びつかないのも無理はない、し、結びつく日が来るなんて自分自身でもほんの数ヶ月前までは思ってもみなかった。
「確かにオレに恋愛経験は無いが」
そうダンデは前置きをする。
「流石にオレだって成人男性だ、この先に何があるかは分かっているつもりだぜ」
ダンデはキバナの瞳をまっすぐに見つめる。キバナもじっと見つめ返す。数秒の後、キバナの目がふっと細められる。
「いきなりそこまで駆け足でいっちゃうかぁ」
ほんと、ダンデってさぁ。そう言ってキバナは頬杖をついて苦笑する。
「これだから飽きさせてくんねぇの」
「嫌か?」
「これが嫌だったらずっとオマエに囚われてない」
キバナはそう笑って、ダンデの髪に手を伸ばし軽く梳く。その柔らかな触れ合いが心地が良い。そしてキバナの目がゆっくりと真剣な色を帯びていって、躊躇いがちに口にする。
「ダンデはいいのか」
主語のない言葉に、「何がだ?」と返すとキバナは「だって、」と言ったきり口ごもる。少し考える様子を見せるキバナに、ダンデは言う。
「思うことがあるならちゃんと言ってくれ」
ダンデが言うと、キバナははっとしたような表情になる。「……うん、そうだな」と言って、ひとつ息をついてから再び口を開く。
「――身体を知ってしまったら」
そう言ったキバナがぐ、と距離を詰める。唇が触れそうで触れない距離。キバナの吐息が唇にかかって、反射のようにぞくりと背筋が震えた。キバナの美しいターコイズブルーの瞳が至近距離でダンデを捉える。キバナの熱を灯す瞳の中に、ダンデが映っている。
「もう、戻れないぜ。ただの友達には。ただのライバルには」
瞳と瞳が真正面からぶつかって、じ、とキバナはダンデを真剣な瞳で見つめる。ドキリとして、ダンデは思わず息を詰めた。どちらも口を開かず静寂がじりじりと部屋の中に落ちて、数秒。息を詰めたダンデの呼吸が段々と苦しくなってきたところでキバナは、ふ、とひとつ息を吐く。
「って、思ったんだけど」
ぱっとキバナは身体を離して、へらりと無害そうな表情になる。部屋の中の張り詰めた空気が解けて、ダンデもようやく深く呼吸ができるようになった。そしてキバナは元々穏やかに垂れた目をもっと垂れさせて、小さく眉根を寄せて口を開く。
「……こんな風に思うのは、気持ちを伝えてくれたダンデに失礼だな。ごめん」
キバナが申し訳なさそうに言うので、その気持ちを払拭してやりたくてダンデは反射的に「いや、」と口にする。
「キバナがオレを心配してくれる気持ちは分かった。……それは嬉しい、ぜ」
嬉しい、と伝える声は少し小さくなってしまった。けれどキバナの耳にはしっかりと届いたようで、キバナは表情を緩ませる。キバナが嬉しそうな表情をしてくれたのが、自分でも驚くくらいに嬉しかった。
「それに……オレも経験の無いことだから、実際、やってみてどう感じるか分からないしな」
だけど、とダンデは続ける。どうなるか、自分がどう感じるか、正直に言って分からない。不安がないと言ったら嘘になる。だけど、ひとつ。これだけは確信していること。
「だけど言えるのは――キミとすることならきっと嫌なことなんてないぜ」
にっとキバナに笑いかけてみせると、キバナの顔がじわりと赤く染まっていく。キバナの表情が嬉しそうに、でも恥ずかしそうに崩れて、それを隠すみたいにキバナは自分の顔をその大きな手で覆う。あー、と唸るように言うキバナに思わず小さく笑ってしまう。かわいいな、と思った。
「……オッマエさあ、そういうこと言う?」
先程離された距離を体ごと少しだけ詰める。ダンデはキバナの目をまっすぐに射抜く。
「十年」
ダンデは口にする。
「十年、近くで見てきたんだぜ、オレも。キバナはオレの嫌がることはしない――そして、オレも、キバナにされて嫌だと思うことはない」
だろ? そう言うと、キバナはふっと脱力したみたいに笑って、自分の顔から手を離す。全部見えるようになったその顔は赤いままだ。
「……オレさまの恋人、ほんとかっこよくて参るわ」
「ふふ、オレの勝ちか?」
ダンデがそう言ってみせると、キバナは「勝ち負けじゃねーけど!」とすぐに応戦する。ダンデと同じくらい負けず嫌いな彼の性分はこういう時にも発揮されるようで少しおかしかった。
キバナがあの夜のように、ダンデの手に自分の手のひらを重ねる。ダンデが自分から指を絡ませると、キバナが嬉しそうに小さく口角を上げて絡ませられたその手を柔らかく握る。穏やかな表情で、しかし瞳は真剣にダンデを見つめた。
「覚悟の上なんだな?」
その手は今日は震えてはいない。キバナも、ダンデも。ダンデは手を握り返す。
「ああ」
そう答えると、キバナは嬉しそうに目を細めて笑った。
「それで、だ。するとしたら、役割を決めないといけないと思うんだが……」
ダンデの言葉に、キバナは「……そうだな」と考える素振りを見せる。役割。トップかボトムか――つまり抱く側か、抱かれる側か。男性同士でも可能であるというのは以前どこかで聞いて知っていた。
「ダンデはどうしたい?」
口を開いたキバナがそう言うので、ダンデはすかさず切り返す。
「キバナはどうなんだ」
「……質問に質問で返すなよ」
その返しは予想外だったようで、一瞬面食らったような顔をした後キバナは言う。ダンデは「そんなルールはないだろう?」と言ってやった。
「キミの方がずるいじゃないか。いつだってオレのことをさりげなく優先して、自分の希望は後回しだ。今回はその手には乗らないぜ。オレだってキミの希望を大切にしたい」
オレは気付いている。――この関係になってから気付いた、というのが正確なところだが。キバナがさりげなくオレのことを優先してくれていること。オレに作ってくれるカレーにいつからか辛みだけじゃなく渋みも加えてくれるようになったこと。軽い調子で言いながらも、激務の中でオレに合わせて休みをとってくれること。今日みたいにオレが誘えば二つ返事でOKと返してくれること。一緒に出かけても、ダンデが行きたいところがあればそれを当然のように選んでくれる。思えば昔からそうだった。キバナと仲良くなってからずっと、この優しい男はずっとさりげなく、スマートに、あるいは巧妙に。いつだってダンデのことを優先してくれていた。
そんなキバナの優しさはダンデにとってどうしようもないくらい嬉しかった。けれど同時に、キバナばかりにそうさせるのは嫌だとも思った。オレだって、キバナには好きなものを選んでほしい。キバナがしたいこと、行きたいところ、食べたいもの、それだって優先してほしい。
目を逸らすのを許さないかのようにじっと、まっすぐにダンデはキバナの目を見つめる。キバナは、それを見つめ返してくれる。キバナの目線はどこか探るようだった。キバナ自身も迷っているようだ、と言ってもいいかもしれない。数秒の後、キバナがゆっくりとひとつ瞬きをしてから、口を開く。
「……、オレは、本当にオマエが望む方でいいって思ってたけど」
「けど?」
すかさずダンデが続きを促すように言うと、キバナはぐっと口ごもる。ここでキバナの本音を聞かなければいけない、と思ってダンデはキバナの言葉の続きを待った。キバナはまだ少し迷っているようだった。キバナの耳はすっかり真っ赤で、触ったらきっと熱いんだろうと思う。
「~~けど!」
キバナは若干ヤケのような口調で返した後、ダンデが待つ続きの言葉を口にしてくれる。
「オレは、……ダンデを、抱きたいって思ってた」
キバナが耳も、そして顔も赤くして言った言葉の意味を理解した瞬間、じわりと嬉しさと気恥ずかしさが同時に襲ってくる。
「そ、うか」
同時に心底、ほっともした。――キバナは、そう思っていてくれたのか。実感が伴うにつれて、顔が熱くなってくる。思ってた、って、いつからなんだろうか。キバナはそういう気持ちを持ちながら、オレを。
「ただ、見ての通り柔らかさも色気も何も無い男の体だが、大丈夫か」
ついそんな言葉が口をついて出てしまう。キバナは「大丈夫じゃなかったらこんなこと言わないだろ」と恥ずかしそうに苦笑する。「そうだよな」とダンデが慌てて返して、会話が途切れる。お互いに黙ったまま、その静寂を破ったのはキバナの方だった。
「……正直に言う。何度かオマエで抜いた」
キバナの言葉に、ダンデは咄嗟に返事ができなかった。ダンデが何も言えないまま、だから、とキバナは続ける。
「大丈夫どころか、……オレはダンデさえよければ、もしもダンデもそう思ってくれることがあったなら――そういうこともしてみたいって思ってたよ」
このままでもいいって思ってたのも本当。だけど、こっちも本当。キバナはそう口にする。
――キバナも。そう思って、ダンデは先日の自分自身の行為がフラッシュバックしてしまって慌てた。……キバナもそうだったのか。つい想像しそうになってしまって危ない。どんなふうに。どんなオレを想像してくれていたんだ、と思ってしまうといよいよ顔が熱い。キバナも恥ずかしそうで、お互いに顔が真っ赤だ。
「……で! ダンデはどうなんだ、ダンデはどっちがいいんだよ」
その場の空気を無理矢理変えるみたいにキバナが意識的にワントーン上げているような声色で言う。どっち、と聞かれてぼんやりしていた頭が一瞬追いついてくれない。少し遅れて行為の時の役割分担の話を指しているのだと気付く。ダンデは正直な気持ちで答える。
「オレはどっちだって」
ダンデの言葉に、キバナは垂れた目を今度はつり上げて言う。
「いや、ずりぃ! 人にだけ言わせといて」
赤い顔のままそう言う様子が拗ねてわがままを言う小さな子どもみたいで、なんだかかわいらしく思えてしまった。小さい頃のホップを少しだけ思い出す。
「本当にどっちだってよかったんだ。……だけど」
ダンデがそう言うとすぐに、「だけど?」とダンデの言葉尻を見逃さなかったキバナは先程のダンデの真似のように復唱する。本当に目敏い、いや耳敏い男だ。この様子だとキバナも先程のダンデのように続きを言うまでじっと待つつもりだろう。ダンデは観念して口を開く。
「……キバナがオレを抱きたいというのならオレも、……抱かれてみたい、と、思った」
本心だぜ。そう言うと、キバナの身体が小さく動く。かと思えば、次の瞬間にはダンデの体はあたたかな体温に包まれた。――抱きしめられたのだ。
「嬉しい」
耳元で囁く声にドキリと心臓が跳ねる。キバナの大きな体躯はすっぽりとダンデを覆って、しかしその腕はきつくない程度に優しくダンデを包む。
「あ~~、も、嬉しいわ。ちょっと、今日だけでこんなに嬉しくさせてどうしてくれんの」
キバナの声は本当に嬉しそうで、そしてほっとしているようで、キバナが喜んでいるというだけでダンデもとても嬉しくなる。腕の柔らかな拘束が緩められたと思えば、頬に手のひらが添えられて唇が重ねられる。二、三度触れては離れてを繰り返した後、至近距離でキバナがダンデに笑いかけた。こつん、と額が触れる。キバナの熱を持ったおでこを、同じくらいの体温まで上がっている自分のおでこで受け止める。
「もうちょっとこうしてたいけど、そろそろ寝なきゃな。明日に響く」
そう言ってキバナの体温が離れようとする。それはそうだ、そうなのだけれど――無性に寂しく思えてしまって、思わず「今日は、」と唇から零れ落ちる。ダンデがはっとするのと、キバナが驚いたような表情をするのは同時だった。そしてキバナは嬉しそうに目を細めて、ダンデの頭にぽんと触れる。
「しないよ。……期待してくれてたなら悪いけど」
「きっ、……たい、は」
期待、なんて言われてしまうと恥ずかしくてたまらなくて、しかし否定もしきれなくてそんな自分が余計に恥ずかしい。キバナは楽しげにニヤリと笑う。
「しなかった?」
「……語弊がある」
ダンデの苦し紛れの抵抗に、「あるのか?」とキバナはまた笑う。そうしてキバナの表情はからかい半分の楽しげなものから、穏やかに、しかしわずかに真剣みを纏うものに変わる。
「何も準備してないし。オマエを傷つけたくないの。明日も朝から会議なんだろ? 今日リーグスタッフと話してるの、聞こえてたぜ」
だから、さ。そう言ったキバナの唇が近付いてくる。再び重ねられた唇は、今度は触れるだけでは終わらなかった。キバナの舌がダンデの唇の割れ目をなぞって、初めてのその感触にダンデは小さく肩を震わせた。ぞくり、と這い上がってきたのは決して嫌悪感などではなく、甘やかな興奮だ。いい? と言葉なく聞くようにキバナの舌がダンデの唇をノックする。恐る恐る唇を開いてみると、その僅かな隙間を逃さないようにキバナの舌がダンデの口内に入ってきた。舌と舌が触れ合うざらりとした感触、歯列を優しくなぞる熱い舌の動き、より深く触れ合う唇、そのすべてに堪らない気持ちになる。たっぷりと味わい尽くすように触れたキバナの舌がゆっくりと離れて、唇が離される。キバナの唇が唾液でてらてらと赤く光って、それに先程までの行為を思わせてまたドキリと心臓が音を立てた。荒くなった呼吸を整えていると、キバナがダンデに笑いかける。
「今日はここまで。ちょっとずつ、な」
穏やかで優しくて、自制のきく良い恋人の表情をしながらも、その瞳の奥には、もう隠そうとはしない熱が確かに灯っている。
(――また、新しい表情だ)
この関係になってから、知らなかったキバナの表情を沢山知った。そのどれもが嬉しく、愛しく、もっともっと見てみたい――ダンデはそう思った。