放っておくとすぐに溜まってしまう事務作業をどうにか片付けてからのナックルスタジアムの定期点検、ジムリーダーによる最終チェックを終えてジムを出た頃にはもう夜はすっかり更けていた。うーん、オレさま今日はちょっと頑張りすぎちゃったかも、なんて苦笑する。とはいえ今は繁忙期だから仕方がない。
ブラックナイトや野生ポケモンのダイマックス騒動でそれなりの損壊を受けたナックルスタジアムも、今はすっかり綺麗になって異常もなしだ。もう遅い時間ではあるけれど、帰ったら来たるトーナメントに向けて少しポケモンたちの調整と研究をしておこうかな、なんてキバナはぼんやりと考える。
街では今年のジムチャレンジの宣伝フラッグが至る所で揺れていた。ジムのすぐ近くのポケモンセンターにもポスターが貼ってあるのが見える。
 今年のジムチャレンジが、もうすぐ始まる。
 感慨深い気持ちでポスターを眺めていると、遠くからこちらへと歩いてくる見覚えのあるシルエットを見つけた。ナックルシティで見かけるなんて珍しい。しかし、あのナックルではよく目立つ特徴的な髪型と服装は見間違えようがない。久しぶりに見かけた旧知の戦友の姿にキバナは嬉しくなって、手を振って呼び止める。
「ネズ!」
 その言葉はしっかり彼の耳に入ったようで、キバナの姿を認めると、ネズは思い切り眉根を寄せた。歓迎はされていない表情とは遠目からでも伝わるが、キバナは構わずに歩を止めたネズへとずんずん近付いていく。こういう時、足が長いのは便利だ。一歩が大きいのですぐに目の前に辿り着ける。キバナが正面に辿り着くと、ネズは不服そうな表情で肩を落とす。ネズの超塩対応には慣れっこなので、その表情は意にも介さずキバナはにかっと笑う。
「珍しいな、ナックルに用事なんて」
 キバナが言うと、ネズも観念したようで答えてくれる。
「……ちょっと新曲のプロモーションで。こっちのラジオに出させて貰ってたんですよ」
 新曲。そういえばそうだ。もうじきネズの新曲がリリースされると、ネズが主に音楽活動広報用に使っているSNSアカウントで先日告知されていた――ちなみにキバナからの片道フォローのみで、ネズからは一向にフォローは返して貰えないのだが。ナックルシティにはラジオ局があるため、ネズはそこに出演してきてからの帰り道らしい。
「お、そうだったな。リリース再来週だよな? オレさまも買うぜ。楽しみにしてる」
「それはどうも」
 棒読みで返すネズに、キバナはそれでさぁ、と提案する。
「折角ナックルに来たならメシでも」
「いやです」
 間髪入れず、という言葉を体現したかのようにばっさりと断られていっそ笑ってしまう。まあ、これもネズの様式美のようなものだ。
「相変わらず冷たいな~。久しぶりに会ったのに」
 キバナがそうふざけた様子で言ってみせると、ネズは鼻を鳴らして「おれは会いたくなかったですけど」と言う。
「リリース前でおれも色々忙しいんですよ。それに今、おまえも忙しい時期でしょう」
 ネズにずばり指摘されてぐうの音も出ない。……まあ、それはそうだ。この時期のジムリーダーが忙しいことは、ネズこそよーく、身に沁みて知っている。
「……マリィは、どうですか」
 ぼそりとネズが言う。その表情はキバナにいつも向けるものとは違う、妹を心配するアニキの表情だ。ネズのそういうところがかわいく好ましく思えて、しかしそれを態度に出してしまうといよいよ口をきいてもらえなさそうなので出さないように気を付ける。
「いやー、立派にジムリーダーやってるよ。オレたちが就任したての頃よりもずっとしっかりしてるんじゃないか?」
 キバナが言うと、ネズは「そうですか」と言う。言い方はそっけないが、その声色からは安心した様子が滲み出ていた。
 スパイクジムのジムリーダーは、昨年のトーナメントを最後にネズから妹のマリィへと引き継がれた。アラベスクジムも同じタイミングでポプラさんからビートへとジムリーダーが交代した。ネズはジムリーダー引退以降、ポケモントレーナーは勿論今も続けてはいるが表舞台の軸足は音楽活動に移すということでライブや新曲リリースなど積極的にシンガーソングライター・ネズとして活動している。ポプラさんも裏ではビートを日々積極的に指導しながら、劇団の方は第一線で元気に続けているらしい。ネズはジムリーダー交代後、最初こそ心配して引継業務も兼ねて何度か会議に顔を出すこともあったが、いつしか会議に顔を出さなくなった。
 ――去年までとは違う今年のジムチャレンジが、もうすぐ始まる。
 自分自身がジムリーダーになってから、ジムチャレンジは何度も経験してきた。今年も変わらずキバナはここナックルジムでジムチャレンジャーを迎え、ガラルトップジムリーダーでありジムチャレンジ最後の門番としての責務を担う。しかし今年は、キバナの周りの景色が去年までとだいぶ変わった。ジムリーダー会議にネズやポプラさんがいなくてその席にマリィやビートが座っているのも、チャンピオン席に座っているのがユウリで委員長の席に座っているのがダンデなのも。先程見かけたジムチャレンジのポスターも、これまでずっとダンデの写真が大きく貼られていた部分は初々しいマント姿のユウリの写真になっている。
 あの紙吹雪の舞うシュートスタジアムがフラッシュバックする。ブラックナイト、ローズさんの自首、そして、チャンピオンの交代。あの日シュートスタジアムの真ん中で紙吹雪を浴びながら、晴れやかな表情で新チャンピオンの誕生を祝ったダンデは、息つく間もなくバトルタワーオーナーとリーグ委員会委員長に就任した。スパイクジムとアラベスクジムもジムリーダーのバトンを次の世代に渡した。目まぐるしく、沢山のことがどんどんと塗り変わっていったあの日々。一年前はさすがに全く想像すらもできなかった世界、とはいえ人というのはなんだかんだ適応していくもので、キバナは今日もこの地でこの世界を生きている。
 時は確かに、流れているのだ。
「――ダンデも、大丈夫そうですか」
 ネズの口からダンデの名前が出てきて、キバナはドキリとする。そんな動揺にネズの知らない意味を持たせないように、キバナは飄々とした調子を崩さずに言う。
「今のところ。ただ、アイツ無理とも思わず無理するからなー」
「ええ」
 無理とも思わずに無理する、というダンデの性分はネズもよく理解している。首肯したネズは「……ちゃんと見といてやってくださいよ」とぶっきらぼうに言う。それは、ネズなりの大きな優しさだ。
「……ああ」
 ジムリーダー仲間の間でもキバナにとって比較的近しい――と、キバナは思っている――ネズにも、この関係は伝えていない。ネズは自分たちの新しい関係性を知らないはずだった。しかしネズの目線は、アイツに一番近いのはオマエなんですから、と言外に語っていた。うん、まぁ、そうだ。こういう関係になる前から、キバナが自分の気持ちを自覚するよりももっと前から、ダンデの一番近い友人は自分である自負はあったし、周囲からもそう認識されていたと思う。だからこそネズは他でもないキバナにこのことを伝えたのだろう。
 ネズはなんだかんだ、ダンデやオレたちに対してもアニキ気質だ。それはジムリーダーを離れてからも変わらないようだった。面倒なことは勘弁してくれと言いながらも、最愛の妹のマリィだけでなく周囲の人間に関してもそう言ってなんだかんだ心配してくれる。それは性根は優しくて世話焼き好きのネズらしくて、キバナがとても好きなところの一つだ。
 キバナの返事を聞いて、「じゃ、おれはスパイクタウンに帰りますよ」と言って歩き出す。
「また時間ある時バトルしような、ネズ!」
 去って行く背中にかけた声に、ネズは肩をすくめただけで返事はない。去年の準決勝でのネズとの試合は本当に楽しくて熱くなった。ネズもトレーナーを引退したわけではなく、稀に呼ばれればエキシビジョンに出場することはあるが、音楽活動が忙しいこともあってその頻度はめっきり減っている。ゆえに、偶然にキバナとトーナメントで当たるという機会もなかなかなかった。「ネズにアンコールはない」と彼は言うが、あれで終わりにはさせない、終わりにするなんて勿体ない、もう一度――とキバナはネズに会う度再戦に誘っているのだがなかなかいい返答は貰えなかった。まあこれもまた、キバナとネズの間の様式美のようなものだ。
「メシもな!」
 その髪のボリュームに反して小さな背中を丸めて歩くネズに続けてまた声をかける。するとちらりとキバナを振り返って、しつこい奴だと呆れ半分のような顔をしたネズは不機嫌そうな顔でぽそりと呟くように言う。
「……ま、お互い暇な時期になったら一杯くらいはいーですよ。二軒目は行きませんが」
 素直じゃないネズの十二分なまでの歩み寄りに、キバナはぱっと笑う。
「約束したからな! ジムチャレンジ終わったらまた声かけるわ!」
 キバナの言葉にネズは今度は振り返らず、小さく手を上げて応えた。
ネズと行く店は、いつもジムリーダーの飲み会で使っているシュートシティのパブで良いだろうか。それかこちらがスパイクタウンに久しぶりに行ってもいい。そしてまた懲りずに誘い続ければ、いつかバトルも応じてくれるかもしれないな、なんてキバナは勝手に思って嬉しくなる。だってネズもポケモンバトルはきっと大好きなのだ――バトルの時の顔を見れば分かる。
 ゆっくりと歩くネズの背中が見えなくなって、キバナは空を見上げる。今日の夜空は雲も少なく、星がとても綺麗に見える。先日のダンデとのキャンプの夜を思い出した。勿論、それなりに栄えているナックルシティの街中と自然が豊かなワイルドエリアでは星の美しさは比ではないが。
 ダンデは今頃どうしているだろうか。シュートシティの方向に目を向ける。もちろんここからダンデの姿なんて見えやしないけれど。今頃ダンデは――まぁ、山のような仕事に追われているに違いない。容易に想像できてしまって苦笑する。いちジムリーダーのキバナ以上に、今の時期はリーグを統括する委員長の責を担うダンデが忙しいのは考えるよりも明白だった。
 大前提、ダンデの仕事の邪魔はしたくない。が、根を詰めるのはよろしくない。
「ヘイ、ロトム!」
 キバナが呼びかけるとロトムはすぐにキバナの目の前に出てきてくれた。メッセージアプリのダンデとのトークルームを呼び出して、文章を手早く打ち始める。間違いなく忙しいであろう仕事への労りと、負担にならない範囲で時間をあけられるタイミングがあれば会いたいという内容を書いて、送信。まあ、ダンデが気付いたタイミングでそのうち見てくれるだろう、と思いながらアプリの画面を閉じる。
 先日の幸福な夜を思い出す。ダンデがオレの方を見てくれた、気持ちを伝えてくれた夜。嬉しくて、幸せで、仕事がいくらバタバタしていてもあの夜を思い出せばまた頑張れると思える。
恋をしたことがないわけじゃない。人と付き合ったことがないわけじゃない。恋は、人並みに知っていたつもりだったけれど、そうじゃなかったとこの感情を自覚してから気付かされた。これまでの恋とは、感情の深度も大きさも全然違った。
 だって、……この感情を自覚するよりもずっと前から、オレの中であまりにも大きな比率を占めていた存在なのだ。ずっとダンデを追いかけて、勝ちたくて勝ちたくて、いつしか、他のどんな誉れよりも他のどんな地位よりもオレはダンデに拘った。自分でも笑ってしまうくらいに。しかしスタジアムでダンデと相対した時の衝動と激情が何よりの答えだった。仲良くなってからは一緒にいるのが他の誰よりも楽しかったし、ダンデが笑ってくれると嬉しかった。ポケモンと並んで、オレの人生を大きく変えてしまった存在と言って全く相違ないのだ、ダンデという男は。
 そんな男のもっと一番近くにいたいと、もっともっと大切にしたいという思いが芽生えてしまった。
 当たり前だ。そんなの、そんな存在に恋情まで加わってしまったら。他の恋と比較なんてできやしないだろう。
 ――変わっていく世界の中、オレはまだダンデを追いかけている。
 ロトムが「ダンデから返信ロト!」と言ってアプリの画面を開いてくれる。思いの外早くて驚いた。労りのメッセージへの感謝と、明後日の夜なら会えるかもしれないという返信。キバナの口角が無意識に上がる。
 ――しかしそんな世界の中で、オレたちの関係もまた、少しずつ変わっていこうとしている。



 ◇



 移動の手間を考えていつものようにキバナがダンデの家を訪ねようと思っていたが、話を聞けばダンデは翌日の朝ナックルシティにあるスポンサー企業との打ち合わせがあるのだという。折角なら、キミの家から行けた方が時間的にも助かるぜ、とダンデが言うからそれならばと今夜の逢瀬の場所はキバナの自宅となった。
 ポケモンたちものんびりできるようにと買った、ナックル郊外の大きなアパートメントの最上階の部屋がキバナの自宅だ。ダンデから連絡を受けた時間から計算するとそろそろかな、と広いバルコニーに出て空を見上げる。数分そうしていると、遠くにうっすらとオレンジ色が見えた。お、きたきた、とキバナが思っているうちにそのオレンジ色はどんどん近付いてきて、その上に乗った人物の靡く紫色の髪も見えてくる。
「キバナ、お疲れさま! お邪魔するぜ」
「おーおー、ダンデもお疲れ。いらっしゃい。元気そうでよかったわ」
 ダンデを乗せたリザードンがキバナのバルコニーに降り立って、ダンデがひらりとリザードンから降りてくる。「今日もありがとう、お疲れさまだぜ」とダンデは最愛の相棒に労りの言葉をかけてからボールに戻してやる。
「さすがリザードン、安定の飛行速度。オレさまの到着時間の読み通り」
 相棒を褒められたダンデは「だろう?」と自慢げに言う。電車や飛行機などの機械とは異なり、相手はポケモンだ。一般のポケモンは勿論仕事として空を飛び回るアーマーガアタクシーですらコンディションや天候、飛行距離などによって飛行ペースが乱されることはあるが、シュートからナックルの距離でもペースを崩さず余裕の表情で主人を運ぶリザードンは流石、十年以上忙しく飛び回るこの男の相棒を務めているのは伊達じゃない。ダンデは「到着時間をきっちり読めるあたり、キバナも流石だな」と言ってくれたので、「おうよ、キバナさまだからな」と言ってやる。ダンデは楽しそうに笑った。

 途中で風が強い箇所があったらしく若干髪が乱れているダンデに先にシャワーに行かせ、その後にキバナもシャワーを浴びる。キバナが浴室から出てリビングに戻ると、ダンデがソファに座って何やら書類とにらめっこしていた。キバナが戻ってきたことに気が付いたダンデは顔を上げて、「おかえり」と良いながら手に持っていた書類を適当にまとめてカバンに仕舞う。
「ただいま。……まだ仕事?」
「あー、明日の打ち合わせの資料なんだ。ちょっと暇だったからもう一度目を通しておこうと思ってな」
「そっか」
 ダンデに近付くとふわりと香るシャンプーの匂い。キバナ愛用のシャンプーだ。ここはキバナの家なのだからキバナのシャンプーの香りがするのは当然といえば当然なのだが、これまで髪の手入れなど全く無縁だったダンデの髪から自分が愛用するシャンプーのいい香りがするのはなんだか嬉しい。髪に触れると、さらさらとした触り心地が気持ちが良い。
「おー、ちゃんと乾かしたんだな」
 少し前はダンデは髪を乾かすのも面倒だと言っていたが、今日はしっかりと乾かされている。キバナの指摘に、ダンデは得意げに返す。
「キミに言われてからはできるだけ乾かすようにしてるぜ」
 まぁ、多少面倒ではあるけどな。そう笑うダンデがダンデらしくてキバナも笑ってしまう。しかしダンデの中にキバナと付き合い始めてからの変化をみるのが嬉しかった。「ちゃんとやってるだけ偉い偉い」と言いながらキバナは自分も濡れた髪を乾かすべく、ローテーブルの上に置かれたドライヤーを手に取る。手近なコンセントに挿して自分の髪を乾かし始める。と、なんとなく視線を感じて顔を上げる。ダンデがじっとこちらを見ていたので、何か言いたいことがあるのかと一旦ドライヤーを止める。
「どうかした? ダンデ」
 聞いてみると、ダンデは「あっ、いや」と慌てる様子を見せた。そのままダンデの言葉は止まったが、しかしキバナはダンデが話し出すのをじっと待ってみる。数秒の後、ダンデは少し悩む素振りを見せた後ぽつりと続きを話してくれる。
「前にキバナに乾かして貰ったからお返しに――と思ったが、オレの雑な乾かし方ではキバナの髪をそんなにさらさらにはしてやれないなと思った、から、悪い」
 普段人前に出る時の快活さとはかけ離れたもごもごとした喋り方に、キバナは自分の口角が上がってしまうのが分かる。そしてキバナはダンデに笑いかけて言う。
「じゃ、お言葉に甘えて乾かしてよ、オレの髪」
 そうドライヤーをダンデの方に手渡すように向ける。ダンデは驚いたように目をぱちくりとさせた。
「いや、でも」
 キミはちゃんと聞いてたのか。そう言いたげな視線がキバナに向けられる。確かにダンデは手先は不器用な方だし、ポケモンバトルに関すること以外は二の次三の次、基本的にとても雑だ。髪だって、ファッションが好きで自分の身体の手入れも苦ではないキバナ自身が乾かした方が丁寧にしっかりと乾かせるだろう。
 だけど、そーいうことだけじゃないんだよね、人ってやつは。キバナは笑顔を崩さないまま返す。
「いーの。やってほしい」
 ダンデはまだ少し納得がいっていないようだったが、「……そこまで言うなら。ただし、質は保証しないぜ」と言ってキバナの手からドライヤーを受け取ってくれた。ダンデはキバナの後ろに回ってドライヤーを構える。
「じゃ、いくぜ」
「おー、オネガイシマス」
 ダンデがスイッチを入れると、ぶおお、とドライヤーの轟音が響く。キバナの髪に触れる手つきは少しぎこちなく、しかし豪快だ。確かにキバナ自身でやった方が丁寧で隅々までしっかり乾かせるだろう。しかし今夜はこれがよかった。ダンデの指先が不器用にキバナの髪をかき分ける感触が心地良い。
「そうだ、明日って何時?」
 ドライヤーの轟音をかき分けて、少し大きめの声でキバナはダンデに聞く。
「朝九時半からだぜ。場所は――」
 ダンデが教えてくれたスポンサー企業が入っているビルはナックルシティの東側にあるオフィス街にあるビルで、キバナの自宅からはナックルジムを挟んでさらに少しだけ向こうだ。キバナは頭の中でナックルシティの地図を思い浮かべる。
「そこなら、距離的にはここから歩いて行けなくもないけどリザードンに乗っていった方が楽かもなぁ。しかもあのへんの地形もちょっと複雑だしリザードンに連れて行って貰った方が確実だな。飛んで行けたら十分もかからないだろ」
「そうか、教えてくれてありがとう」
 そうなると身支度にかかる時間はー、とキバナは逆算を始める。うん、まぁ打ち合わせ開始よりも少し早めに着いておくにしても、いつものオレの出勤時間と同じで十分間に合うだろう。あとは明日の朝にでもリザードンにちゃんと場所を教えてやらないと。そうすればあの優秀なリザードンはちゃんとダンデを目的地まで連れて行ってくれるはずだ。
「その時間だったら朝食もちゃんと食べられるだろ? キバナさまお手製ブレックファスト食べてけよ」
「それは楽しみだぜ!」
 ダンデの声が弾む。恋人が自分がつくる食事を気に入ってくれているということは勿論だが、ダンデが――あの、食事の美味しさなんて二の次三の次、手早く飲むように食べられることが最大の評価基準、となっていたダンデがキバナが作る朝食を楽しみにしてくれるということがキバナにとってとても嬉しいことだった。
 そんな話をしている間もダンデはキバナの髪を乾かしてくれる。ダンデがドライヤーのスイッチを止めて、確かめるようにキバナの髪に触れる。
「こんなところでどうだ?」
 ダンデに言われて、キバナも自分の髪に触れてみる。うん、すっかり乾いている。
「ん、いい感じ。ありがと」
 振り返ってそう言うと、なぜかダンデは少し疑うような目線をキバナに向ける。
「本当にか?」
「なんで疑うんだよ。素直に受け取れ」
 ダンデは時々変なところで頑固だ。さっきも自分では乾かし方が雑だと気にしていたけど、まだ気にしているらしい。けらけらと笑い飛ばしてやると、ダンデはまだ少し不服そうだったがそれ以上は突っかかってはこなかった。

 お互いに髪を乾かし終えて、ダンデは寝室に、キバナもドライヤーを片付けてからダンデの待つ寝室に向かう。キバナが寝室のドアを開けると、ダンデはベッドの淵に座っていた。
「別に、先に寝っ転がっててよかったのに」
 キバナの家も自分の家のように好きに寛いで欲しいというのはこういう関係になる前から伝えていたしダンデもそうしていた。今更そんな遠慮をするような関係でもない、が――。キバナはダンデのなんとも言いがたい表情、そして耳が僅かに赤くなっていることを見逃しはしなかった。
「どうかした?」
 優しさを優先してあえて見逃してやることもできた、が、今はもうしたくはなかった。だからあえて、ダンデと肩が触れるか触れないかくらいの距離にキバナは座ってダンデに直接聞いてみる。ダンデは少し躊躇うような様子を見せた後、口を開く。
「……ベッドはキバナのにおいが強いから、ちょっと落ち着かない、ぜ」
 恥ずかしそうにそう口にするダンデに、言いようのない嬉しさがこみ上げてきて、キバナの頬は自然と緩んでしまう。
「この間までそんなこと言わなかったくせに」
「う」
 キバナの指摘に、ダンデは言葉に詰まって気まずそうな表情になる。いや、別に責めてるわけじゃあないんだよ。
「嬉しいけどな。意識されてるってことだろ」
 そう言ってキバナはダンデの前髪をかき分けて、額に唇を落とす。
「ダンデの頭の中がオレで染まっていくのは嬉しいな」
 キバナがそう言うと、ダンデの肌の赤色が耳だけでなく頬にまで広がっていく。
「……なんかそう言われるのはちょっと癪だぜ」
 ダンデはその快活そうなチャンピオンのイメージとは裏腹に、照れ屋であり、それの照れが近しい人間に向けられると小さな子どものように拗ねるタイプだった。それを向けられるのは、嫌ではない。寧ろキバナはそれが好きだった。だってそれはオレでダンデをかき乱せたということであり、そして。ダンデがキバナに気を許してくれているということに他ならないからだ。
「オレさまはずっとそうなんですけど? 初めてオマエに負けてからずっと! その形は色々変わっていったけどさ」
 だから、とキバナは続ける。
「ダンデも味わえ。オレさまで頭いっぱいになればいい」
 口調は挑戦的になったが、口角はどうしても上がってしまう。キバナはあえて取り繕うとはしなかった。
 先程は額に触れた唇で、今度はダンデの唇に触れる。最初は触れるだけ。離して、今度は舌で唇の淵をなぞる。ダンデも覚えてくれたようで、薄く開いてくれた唇の隙間から舌を侵入させる。舌同士を絡ませる。ダンデの舌は厚くて、熱い。弾力もあって、彼の鍛え上げられた肉体を思わせる。舌に筋トレは関係ないだろうけど。キバナが舐めるようにしてダンデの舌に触れると、ダンデの身体が僅かに震えた。そして、舌で応戦するようにダンデからも絡ませてくれる。それが嬉しくてキバナもより深く唇を重ねた。お互いの唾液が絡み合って、唇の端から零れ落ちる感覚がしたけれどそれも構わなかった。
 どちらからともなく唇が離れる。二人の間に細い唾液の糸が伝って、切れる。
「……もっとしたい?」
 キバナが聞く。ダンデは口の端から伝った唾液を雑に手の甲で拭った後、静かに頷く。キバナがそれを見てふっと笑う。

 ダンデが、キバナとこの先に進んでみたいと言った日。あの日以来、会えた回数は多くはないが、タイミングが合う時には前よりも深い触れ合いをするようになった。いきなり最後まで、というのはそう簡単じゃない。元より受け入れる器官をもたないダンデの体の準備もそうだし、お互いの心の準備、そして今がお互いに繁忙期でなかなか翌日に休みまではとりにくい――ということで、少しずつ進んでいこうということになった。
 少しずつ、触れ合う場所を増やして、触れ合う深度を深くしていく。ダンデは拒まなかった。時々「もっと性急に求めてくれていいんだぜ、そんな丁寧に触れなくても、ヤワな体じゃないだろうし」なんてことも言われるが、オマエはもっと自分の身体を大事にしろと思う。……確かに必要以上に丁寧には扱っているかもしれないが。「オレがそうしたいの」と言うと、ダンデは赤くなってそれ以上は言わなかった。
 唇同士の触れ合いを重ねた後、その唇で今度は首筋に触れる。べろりと舌で舐め上げるとダンデが小さく息を詰めたのが分かった。首筋、鎖骨、胸、とどんどん触れる場所が下っていく。手を寝間着のスウェットの隙間に滑り込ませて、下着越しにダンデのそこに触れるとそこは僅かに硬さを持ち始めていた。
「ダンデ」
 呼びかけるとダンデはキバナの方を向いてくれる。唇を重ねて、目が合って至近距離で囁く。
「下、脱いで」
 ダンデは素直に自分のスウェットを脱いで、そしてパンツも脱ぐ。キバナも同様にして、お互い下半身は一糸纏わぬ姿になった。剥き出しになったダンデの熱に直接触れる。布越しとは比べものにならない生々しい感触と温度に興奮した。キバナは自分自身のものはそれなりに大きい方だと自負しているが、ダンデも負けず劣らず大きい。
キバナは元来異性愛者だ。男性のモノに興奮した経験はこれまでなかった。しかし、キバナの指の動きに反応して硬さを増してとろりと先端から透明な液体を零すそれは言葉にせずともダンデが気持ちよくなってくれていると如実に伝えてくれて、何よりも素直なダンデの性器が何だか愛おしく思えてしまう。ダンデへの気持ちを自覚してから、初めての感覚ばかりだ。
 ダンデのそれが段々と硬さを持って唇からは熱い吐息が零れ落ちた頃。不意にキバナの中心にダンデの手が触れて、性感を高めるようにゆるりと扱かれる。
「……っ!」
 自分がダンデのものに触れることに夢中になっていたから油断していた。思わず声が零れそうになったのを寸でのところで堪える。不意を突けたことに満足したのか、ダンデは赤い顔で得意げに笑う。
「もう硬いな」
 大して触れてもいないのに、キスやダンデの痴態で興奮してキバナのそれはすっかり勃ち上がっていた。少し恥ずかしくて「……言うなよ」と言うと、ダンデは楽しげに目を細める。
「キバナ、キミも気持ちよくなってくれ」
 ……もう、だいぶ気持ちよくなってますけど。そう思いながらも口には出さない。ダンデはキバナのそれを優しく握って再び扱き始める。今度は熱い吐息が零れ落ちるのはキバナの方だった。ダンデの動きは正直特段上手いわけではなかったが、しかしダンデがこうしてキバナの性感を高めようとしてくれているということを自覚するとどうしようもなく、たまらない気持ちになる。
「……っは、ダンデ」
 じわじわとまだ遠くの方から、しかし確実にこみ上げてくる射精感。空いたまだ汚れていない方の手でダンデの髪の上から頬に触れる。
「こういうのはどう」
 元々向かい合って近い距離を更に密着するくらいにまで詰めて、お互いのすっかり勃ち上がった熱がちらりと触れ合う。キバナはそれらをまとめて握りこんだ。お互いのそれが触れ合う感触にぞわりと快感が背中を駆けていく。ダンデも同じのようで、ダンデが息を詰める。そのままゆるりと扱き始めると、ダンデの先端からまたとろりと先走りが溢れる。
「~~っ、キバナ」
「んー?」
 熱を持った声で呼ばれたので返事をする。その間も手は止めない。一緒に添えられたダンデの手も、再び遠慮がちに動き始める。性器同士が触れ合い擦れ合う感触、どんどん硬く熱くなっていく温度、お互いの手の動き、先走り同士が混ざり合って零れ落ちて、ぐちゃぐちゃと響く淫猥な水音。その全てが駆け上がるようにキバナの興奮を高めた。それはきっとダンデの方も同じだ。
「は、ぁ」
 ダンデの口から熱い吐息が零れ落ちる。お互いに多分そろそろ、限界が近い。
 ダンデにばれないように、性器を扱いていない方の手をそろりとダンデの後ろに回す。尻の割れ目に指先を添わせて、そのきゅうと固く閉じたそこをノックするように軽くとんとんと触れると、ダンデの体がびくりと震えた。
「……っ!」
 ここにキバナが触れようとする意味。男同士のセックスで、ここをどう使うか。二人で改めて勉強したから、ダンデももうよく知っているはずだった。触れただけで察してくれるようになったダンデに、キバナはつい口角が上がってしまう。周りをゆるりとなぞると、ダンデが「……キ、バナ」と呼ぶ。その声は元チャンピオン・ダンデのものとは思えないくらいに小さくて、愛おしかった。
 勿論このまま入れるなんて暴力的な行為はしない。ここは女性器と違って、性感によって自ら受け入れるように濡れてくれるわけではない。ゆっくり、ゆっくり、な。
「今日、は、いれない」
 今日は、というのは、いつかはそうすると暗に言っているのと同じだ。ダンデの喉仏が上下して、ダンデが唾を飲み込んだのが分かった。ダンデもその時を期待してくれているのだろうか、と思って嬉しくなる。
 ダンデの後孔から手を離して、その手でダンデの腰をきゅっと抱く。
「ダンデ。……いっしょにイこ」
 耳元でそう囁くと、ダンデは控えめに頷いた。それが嬉しくて、責めたてる手を一層激しくした。先端を潰すように押して、きゅうと強めに全体を握る。
「……っ、あ」
 小さく声が零れて、ダンデの体がびくりと震える。ダンデの先端から勢いよく白濁が吐き出されて、追いかけるようにキバナも達した。射精を終えてお互いに荒い呼吸の中、ダンデの頭がくたりとキバナの肩にもたれ掛かる。
「きもちよかった?」
 髪を撫でながらそう問うと、ダンデは「……ああ」と頷いてくれた。



 ふと目が覚める。ぼんやり見回した部屋の中はまだ暗い。太陽はまだ昇る前らしい。隣ではすやすやとダンデが穏やかな寝息を立てていた。
(……喉渇いた)
 水でも飲もうと、ダンデを起こさないように気を付けながらキバナはそっとベッドから抜け出してキッチンへと向かう。
キバナが愛飲しているおいしいみずを冷蔵庫から取り出し一口。乾いた喉に冷たい水が心地よい。喉も潤って満足して、もう一眠りしようと寝室に戻る途中――まだ寝起きでぼんやりしていたのだろう。リビングで何かに躓いて転びそうになってしまった。
「うおっ」
 辛うじて転びはしなかったものの、ばさばさと色んなものが散らばる音。足下を見ると、茶色のカバンが倒れていて書類や本がそこから大量に飛び出してしまっていた。
(やばっ……ダンデのカバンか)
 このカバンはキバナのものではない。ダンデのものだ。カバンから飛び出したものを慌てて拾い集める。堅苦しいフォーマットの書類に、様々なデータやグラフが印字された資料、最新のポケモン研究の論文。どうやら仕事で使う書類や本らしい。そういえば風呂上がりにもなんか資料見てたな、とキバナは思い至る。仕事の資料なら尚更、部外者のオレが見ていいものじゃない。キバナはできるだけ丁寧に、しかし中身は見ないように、ローテーブルで適宜トントンと書類を揃えながら拾い集める。順番はぐちゃぐちゃになってしまっているだろうが、明日の朝謝ろう。
 それにしても努力を惜しまないのはアイツの好きなところだけどよー、もっとどうにかならんのか、と心配混じりで溜息をつく。
(……いや、しかし、すごい量だな)
 資料にはびっしりとメモが書かれ、所狭しと付箋が貼られている。ダンデは元々頭は良いし、本や資料を読むことは好きだという。同じく研究をしたり論文を読んだり知識を深めることが好きで、時間がある時にはガラル最大級の図書館であるナックルユニバーシティ付属図書館に入り浸る気質であるキバナと渡り合って語らうくらいに。
しかし、ダンデは学ぶことは好きといえど人生の半分をポケモントレーナー、ガラル最強のチャンピオンとしてガラル中と飛び回ってきた男だ。ここまでの人生こんなにデスクワークをしたことはないだろう。……不慣れな環境で、よくぞここまで。
 これだけ生真面目にやろうとしたら、そりゃ毎日オーバーワークにもなる。しかもその椅子は、ビジネスのセンスにかけては稀代の天才と言っていいローズ元委員長が座っていた場所だ。そこに他の人間が本気で追いつこうとするならばどれだけ努力しても足るものではない――それはダンデ自身こそがよくよく、痛いほどに理解しているだろう。
(……オマエは、オマエでいいのになぁ)
 そりゃその椅子は、その椅子だ。だけど、誰もダンデにローズ元委員長の「代わり」なんて求めちゃいない。ダンデは、「ダンデ」でいいんだよ。そう言っても生真面目で頑固なあの男は聞き入れてくれるかわからないが。
 十年間に及び君臨した、ガラル最強のチャンピオン。実家でも長男、しかもホップの父親代わり。元々の性分に加え、そういう環境で育ったこともあるんだろう。アイツは人に頼るということを中々覚えない。あの重い重いマントを脱いだ今だって。そりゃアイツに代わる人材なんてガラルの中でもいないだろうけれど。
 ――せめて、オレが、なんて、強欲だろうか。
 せめて寄りかかって貰える存在に、オレがなれたなら、だなんて。
(アイツを大切にしたいのは、ある意味オレのエゴだ)
 ブラックナイトの日のことは、オレはきっと一生忘れないだろう。あの日を思い出すと今も足が竦む思いだ。ダンデを大切にしたい。重すぎる荷物をもう一人で背負わないで欲しい……それはダンデを想っているようで、同時にもうあんな思いをしたくない、というオレのエゴでもあった。
 床に散らばった資料類は全て拾い終わって、適当にまとめてから折れたりしないようにファイルに入れ直してダンデのカバンに突っ込む。
 キバナは立ち上がって、また寝室に戻る。すやすやと穏やかに眠るダンデを後ろから柔らかく抱きしめるようにして、キバナは再び就寝した。



 翌朝、スマホロトムがアラームを鳴らしてくれてキバナが起き出した頃には、腕の中にいたはずのダンデはいなかった。キバナが緩慢な動作で起き出してダンデを探すと、彼は既にトレーニングウェアに着替えてバルコニーでリザードンや手持ちのポケモンたちと共に軽いトレーニングを始めていたところだった。
 ガラ、とバルコニーの戸を開けるとダンデもこちらに気付いたようで振り返る。
「おはよう、キバナ!」
「はよ。ほんと朝早いのな」
「毎日この時間には目が覚めてしまって」
「いやー、健康的ぃ……」
 キバナが髪を掻きながら苦笑すると、ダンデは朝の太陽に負けないくらい眩しく笑った。

 フライパンで熱したソーセージ、ベーコンに美味しそうな焦げ目がついたところでさっと皿に引き上げ、空いたフライパンの中に卵を割り入れる。二人分の目玉焼きができたら、その次はバター。バターが半分溶けたところで切っておいた食パンをそこに投入する。じゅう、と香ばしいにおいがキッチンに充満した。
「うんうん、良い感じ」
 両面とも美味しそうに焼けたタイミングで、トーストをフライパンから皿へと盛り付ける。ソーセージ、ベーコン、トースト。先に焼いておいたトマトにマッシュルーム。皿いっぱいに盛り付けたブレックファスト。
 先程バルコニーでダンデには昨夜書類をぶちまけたことを謝ったところ、ダンデも書類を確認しておくと一旦リビングに戻っていった。しかし再びリビングを覗くとダンデの姿はなく、もうバルコニーでトレーニングに戻ったらしい。バルコニーの戸を開けてダンデとポケモンたちを呼んで、みんなで朝食にする。ポケモンたちには各々好みのポケフードを皿に盛り付け、その後キバナとダンデは紅茶と共に自分たちのブレックファストにありつく。ダイニングテーブルにつくなり、ダンデは驚いたように目を輝かせた。
「いつもながら、キミの朝食は豪華だな」
「ありがと。でも、そんな感動されるほどのものでもないんだけどな」
 褒められるのは嬉しいが、ダンデの普段の朝食はどのくらい簡易なものなのかということも考えてしまう。元来放っておいたらカレーを飲むように食べて栄養補給をする男だ。一人の時の食事をそこまで丁寧に作るようなタイプでもきっとない。……まあ、あまりにもひどかったらきっと相棒のポケモンたちが黙ってはいないだろう。そう信じている。
「キミの普通は普通以上だと思うぜ」
「ある意味、オマエにそのまま返すわその言葉」
 キバナがそう言うと、ダンデは「お互いさまってことだな」と雑に片付ける。何か違う、違うけど、まあいいかそれで。楽しそうに朝食をとるダンデは、昨夜見せた色はもう全く纏わない。ガラルの元チャンピオン、ガラルのシンボルであった男の、眩しいくらいの快活さがそこにある。ともすれば幻だったんじゃないかとすら思えるけれど、しかし、こうして二人で朝食をとっている今こそが昨夜が現実だったことを証明している。
 美味しいぜ、と笑うダンデが穏やかな朝の光に照らされる。嬉しくて、キバナは口元を緩ませた。

 キバナとダンデ、そしてポケモンたちも朝食を済ませて、お互い仕事着に着替える。ダンデはもうだいぶ見慣れてきた深紅の燕尾服、キバナはいつものドラゴンを模したパーカーにオレンジのヘアバンド。バルコニーに出て、キバナはリザードンに地図を見せる。ダンデには最初から見せもしないことは、もうダンデ自身も何も気にやしない。
「ここから南西方向、ナックルスタジアムを通り越したら比較的新しいビル群が見えてくる。芝生の生えている公園の右隣にあるビルなんだけど、そうだな、目印としては……」
 地図で指し示しながら具体的な目印を挙げて一通り説明すると、リザードンは分かったというようにぐるると鳴く。ダンデの相棒は本当に優秀だ。
「ダンデ、リザードンはもう道分かったみたいだぜ。流石だな」
「そうか! ありがとう」
 ダンデはキバナとリザードンを両方見ながらお礼を言って、リザードンに飛び乗る。
「リザードン、頼むな」
 キバナがそう言ってリザードンの頭を撫でると、リザードンはくすぐったそうに目を細める。
「ダンデ」
 リザードンから手を離して、キバナはダンデの方を見る。ばちんと目が合う。美しいアンバーの瞳が朝の光に照らされてきらきらと光る。
「いってらっしゃい」
 そう微笑むと、ダンデは眩しいくらいの笑顔で返す。
「ああ、行ってくる!」
 ばさ、とリザードンが翼を広げ、あっという間にダンデとリザードンはナックルの空へ飛んでいく。その軌道が美しくて思わず見惚れた。
ダンデがチャンピオンだった頃、その快活さと圧倒的な求心力、そしてダンデの相棒がほのおタイプのリザードンのためそのイメージも手伝ってだろう、彼を「ガラルの太陽」と表現した記事があったことをキバナは不意に思い出した。確かに一理ある、が、それだけじゃない。ダンデも人間で、太陽みたいにずっと燃えさかり人々を照らすだけじゃない時もある。太陽でも、神様でもない、ダンデだ。キバナは記事を読んだ時そんなことを思った。
 だけどリザードンに乗って空へと飛び立っていくダンデを見た時、眩しくて美しくて――太陽よりもずっと太陽みたいだなんて、そんな言葉がキバナの頭に過ぎる。目を細めながら、ダンデの姿が見えなくなるまでキバナは空を見上げていた。



 ◇



 満員のシュートスタジアムがモニターに映し出されている。キバナはジムリーダー控え室で、リアルタイム中継されているスタジアムの映像を見上げていた。モニター越し、バトルコートの一番近くにある控え室にも十二分に伝わる観客たちの静かな興奮と高揚感。超高倍率のチケット――今年は特に、例年をさらに上回って倍率が高かったらしい――を勝ち取った観客たちはきっと今ワクワクしてたまらないだろう。
 開会式の時間ぴったり、スポットライトがスタジアムの真ん中をぱっと照らす。キバナたちが控えている側とは反対の入口から、ダンデが現れた。瞬間、スタジアムの熱気が爆発するようだった。大きな歓声に包まれながら、良く晴れた青空の下、昨年のチャンピオンユニフォームとは異なる深紅の燕尾服で彼はスタジアムの真ん中に立つ。スポンサーロゴが所狭しと貼られた重そうなあの赤いマントではなく、すらりとした燕尾服の裾を靡かせてダンデは笑う。
『お集まりの皆さん、そしてテレビで見ている皆さん、お待たせしました!』
 モニターの中でダンデが一言喋る度に、地鳴りのような歓声がスタジアムを包むのが分かる。
『いよいよガラル地方の祭典、ジムチャレンジの始まりだぜ!』
 ダンデの宣言に、歓声と拍手が沸き起こる。これまでもジムチャレンジはガラル全土を挙げての一大イベント、熱狂的ファンの多い催しだが、ジムリーダーになってそれなりに歴が長くなってきたキバナも驚くくらい今年の熱狂はすごいものがある。昨年の色々なことが結果的にジムチャレンジやポケモンバトルへの注目度を大きく上げ、その熱量が一年経つ今でも続いてきたのだろう。それは、ポケモンバトルを愛するキバナにとっても嬉しいことだった。ダンデが、今年のジムチャレンジのエントリー数が例年以上になりそうなんだと少し前に嬉しそうに話していたことを思い出す。
「――委員長・ダンデ、流石だね」
「ええ」
 キバナの隣に座っていたカブがモニターを見上げながら言う。キバナ以上に長い間ガラル地方でジムリーダーを務めている彼も、今年の熱狂には少なからず驚いている様子だった。
「チャンピオンカップで彼を目指せないのは少しだけ寂しいけど」
 そう言ってカブは苦笑した。
 カブもかつて、伸び悩んでいた時にエキシビジョンでダンデと戦って再起した経験を持つ。キバナがナックルジムのジムリーダーに着任するよりも少し前、エンジンジムは一度マイナークラス落ちをしていた。そんな折、ダンデとのエキシビジョンの機会があり、そこでのカブの戦いは当時キバナも中継で見たが、画面越しにも痛いくらいに伝わってくるびりびりとした熱気と覚悟にキバナも鳥肌が止まらず圧倒されたことを今も覚えている。後にカブは各種インタビューであの試合が自分にとって大きなターニングポイントだったと語った。
 ジムリーダーは皆「ダンデに勝ちたい」という思いは多かれ少なかれあるだろうが、カブもダンデとの戦いについてはより一層強い思いを持っているようだった。ダンデとの試合で再起し、常日頃からストイックで熱いカブはキバナにとってより近い熱量で高みを目指せる同志のような仲だった。
 ダンデに続いてチャンピオン・ユウリがスタジアムに登場し、モニターに大映しになる。スタジアムの温度がまた上がった。昨年の初々しいジムチャレンジユニフォームから一新した、ガラルチャンピオン伝統の剣と盾のマークが入ったユニフォームを身に纏うユウリは、一年前とは比べものにならないくらいにしっかりとした表情だ。
 キバナたちの前のベンチに座るマリィとビートがじっとモニターを見つめる。彼らはユウリの同期だからこそ、色々と感じるものもあるんだろう。……そういえば、ネズは毎年開会式を欠席していたから、久しぶりに全ジムリーダーが揃う開会式になるんだな。
『新しいチャンピオンの待つチャンピオンカップを目指して、みんな頑張ってくれ! 楽しみにしているぜ!』
 今年のジムチャレンジャーに向けてダンデが激励の言葉をかける。さて、この次はジムリーダーの入場だ。「さて、そろそろ行くかね」とメロンが立ち上がって、キバナたちも続いて立ち上がる。慣例としてトップジムリーダーのキバナが真ん中、カブも隣につく。一番後ろに引っ込み思案のオニオンがそっと並んだ。
「ぼくたちも頑張らないとね」
「……そうですね、もちろん」
 スタジアムに入場する直前、カブがキバナに話しかける。それはキバナに向けられていると同時に、己への鼓舞でもあるようだった。変わっていった景色の中で、オレたちは今年もまた、より強く、より高みへと目指して走り続ける。キバナが首肯すると、カブが微笑む。
『――それでは、ガラルが誇るジムリーダーたちの入場だ!』
 ダンデの呼びかけで、キバナたちはコートに向けて歩き出す。コートに足を踏み入れた瞬間、照明で照らされぱっと視界が明るくなる。その光の真ん中に、リーグ委員長・ダンデが立っている。一瞬、ダンデとキバナの目線がかち合う。公の場だ、そのまま何事もなかったかのように振る舞われるかと思ったが、カメラがダンデを捉えていない瞬間、ほんの僅か――ぼうっとしていたら気付かないくらいに僅かに、ダンデがキバナに微笑みかける。それに驚いて、しかし無数のカメラがこちらに向けられていることは分かっているので表情には出さないように必死に気持ちを落ち着ける。昨年と同じで、だけど違うこの景色。立ってみると色んな感情がぶわりと溢れ出す。
 嬉しさ、寂しさ、高揚、闘争心、誇らしさ。色んな気持ちが合わさって、一言では到底言い表せそうにない。しかしスタジアムの真ん中に立つ昨年とは違う服を身に纏うダンデが眩しくて、そして、どうしようもなく好きだった。


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