流線の彼方
きらきらと輝いたあの星が落ちてきた、
あの夜にオレが願ったことはなんだっただろうか。
1.
その言葉を口にした瞬間、零れ落ちそうなほどに大きなアンバーの瞳がさらに大きく見開かれた。試合後の控室、蛍光灯に照らされたその瞳がきらりと輝いて、まるで星でもその目に宿しているかのようだった。肩より少し長いくらいまで伸ばした紫の髪が汗で首に何本か張り付いている。それが扇情的に見えて、キバナはドキリとした。人に、同じ年頃の男に、こんな風な感情を抱くことなんて知らなかった。ダンデに出会うまで、知らなかったことだ。
チャンピオン・ダンデ。若干十歳でチャンピオンになったその少年のことを知ったのは、キバナがトレーナーになったばかりの頃だった。自分と同じ年の頃の少年がガラルのトレーナーのトップに君臨したことはキバナにも少なからずの衝撃を与えたし、元来の負けん気と自信家がめらめらと燃え上がり、絶対にこのチャンピオンをオレが倒したいと思ったのだった。既に周囲の同世代のトレーナーの中でキバナは突出して強かったことは間違いないし、自分だったら不可能なことではないと思っていた。
ダイマックスバンドを手に入れて、ジムチャレンジに出場して、勝ち上がってチャンピオン・ダンデへの挑戦権を手にして初めてダンデとコートで相対した時。テレビ画面で見るのとは、全然違った。ダンデがコートに現れた瞬間、ぶわりと鳥肌が立った。見た目は小柄なただの少年だというのに、ダンデが入ってきた途端スタジアムの空気が変わった。
試合が始まってからは、夢中だった。ダンデから放たれる熱に一瞬でも油断したら飲み込まれてしまいそうだった。こちらも全力で迎え撃つ。ダンデからも全力が返ってくる。その繰り返しに、これほど心が躍ってはちきれそうでたまらないのかと驚かされた。自分の知らない自分を引き出されていくようだった。何よりも、心の底から、ポケモンバトルが楽しくてたまらないと心が震えて仕方がなかった。
曇りのない美しいアンバーの瞳がチャレンジャー・キバナをまっすぐに射抜く。その瞳に、風に揺れる伸ばしかけの紫の髪の毛に、スタジアム中の照明を浴びて輝くその表情に、自分でも気付かないうちにすっかりと心を奪われてしまったようだった。
熱戦の末にダンデが制した決勝戦の後、ダンデから握手を求められてそれに応じる。楽しかったと汗の伝うその顔が年相応の少年らしいあどけない笑顔に変わった時に、心がドキリと音を立てた。それが試合の高揚とは別の意味の鼓動であると気付いたのは、その少しだけ後のことだった。
あれから数年が経ち、その思いは無くなるどころか膨らんでゆくばかりだった。久しぶりにエキシビジョンでダンデと戦って、どうしようもなく楽しくてたまらなくて、――試合後の高揚した感情のままにぽろりとこの気持ちを零してしまったのだった。しまった、と思ってももう遅い。口から零れ落ちた言葉はもう撤回などできない。冗談ということににしてしまえばよかったのかもしれないけれど、そうしたくもなかった。もう言ってしまったものは仕方がない。じわりと緊張で手のひらに汗が滲んだ。
ダンデはキバナの様子を伺うようにじっと見つめた後、これが冗談でも違う意味でもないということが分かったのだろう。顔をじわりと赤くして、そして少し考えるような様子を見せた後、ゆっくりと言葉を選びながらといった様子で口を開く。
「ごめん」
心がきしりと音を立てる。表情には出さないように、ダンデに罪悪感を抱かせないように、キバナはへらりとした表情を張りつけられるよう取り繕うことに必死になった。
「オレは、今はチャンピオンとしての――ポケモンバトルをすること、強くなることが楽しくて、他のことはあんまり考えられないというか」
ダンデらしいな、と思う。キバナが「そうだよなー、変なこと言ってごめ――」と言いかけたところで、ダンデはそれを遮るように「だけど!」と言葉を続けた。
「だけど、勝手かもしれないけれど……キミとはこれからもライバルでいたい! コートの真正面でこれからも何度でも向かい合いたい。キミとのバトルが大好きなんだ! ……ダメか?」
勢い込んでそう言うダンデは必死な様子で、それがダンデの心からの本音であることが伝わってくる。そのことが、そしてダンデの言葉がどうしようもなく嬉しくてたまらなくて、もうそれだけでも十分すぎるくらいだと思えた。
「……当たり前だ!」
そう言うとダンデはほっとしたように笑った。その表情がとてもきれいで、キバナはまた恋に落ちたのだった。
『――キバナ、そろそろ起きるロト! 遅刻するロト!』
スマホロトムの声にぱっと目を覚ます。見慣れた寝室を見渡すと室内はもうすっかり明るくて、太陽はとっくに昇ったらしい。キバナの周りをふよふよと回っているスマホロトムが表示してくれている時間はアラームをセットした時刻を少し過ぎていて、スマホロトムの言う通りそろそろ起きないとまずい時間だった。
「ごめん、起こしてくれてありがとな! 助かった!」
熱心に起こそうとしてくれていたのだろうスマホロトムにそう礼を言うと、スマホロトムは『どういたしましてロト!』と言って笑う。
ベッドから起き出して急いで身支度を調える。顔を洗って、着慣れたユニフォームとパーカーを身に纏う。髪の毛をセットしてヘアバンドを被れば、いつものキバナさまスタイルの出来上がりだ。
少ない荷物とパートナーたちが入ったボールを持って自宅を後にする。抜けるような快晴が眩しくてキバナは思わず目を細めた。この時間でももう日差しは暖かくて、こんな日にキャンプでもしたら気持ちが良いだろうなと思う。
――とても、懐かしい夢を見た。もうすっかり記憶の奥の方に丁寧にしまい込んだつもりだった日のことだ。夢だというのにあの時のことを忠実に再現していて、あの頃の感情を鮮明に思いだしてしまいそうで少し嫌になった。自分の夢なのだから、自分でコントロールできればいいのに、なんて埒のないことを思う。
時々すれ違うナックル市民たちと挨拶を交わしながら、ナックルジムまでの道を歩いていく。途中、馴染みのパン屋で朝食にするためのサンドイッチとアイスティーを購入した。頼んでいないのにマドレーヌの包みも出てきたので不思議に思っていると、パン屋の主人が「ナックルスタジアムの修繕も大分終わったみたいだね、大変だったでしょう。ジムの皆さんでよかったら」と言って笑った。その気持ちが嬉しく、ありがたく受け取ることにする。レナやヒトミたちに渡したらきっと喜ぶだろう。リョウタも甘いものは苦手ではなかったはずだ。パン屋の主人が言うようにナックルスタジアムの修繕作業も大分落ち着き、仕事も少し余裕が出てきたところだ。皆もよく頑張ってくれたし、今日の午後にでも少しティータイムをとることにしよう。
パン屋の紙袋を抱えて店を出た時、ふと斜め前の商店の店頭に並べられた雑誌と新聞に目が留まった。雑誌はガラルで今最も注目を浴びる人物である新チャンピオン・ユウリの少し緊張した様子の笑顔で表紙が飾られていた。そしてその横に置いてある新聞の一面は昨日のエキシビションの記事のようだ。勝利したオニオンとゲンガーの写真が一面に載っているのが見える。キバナが昨日、負けた試合だ。キバナは眉根を寄せて、頭をがしがしと掻く。
――ブラックナイトの再来、チャンピオンの交代、ローズ元委員長の自首。様々な大事件で大きく揺れたガラルも、数ヶ月が経った今は少しずつ落ち着きつつある。大きく破損したナックルスタジアムの修繕ももうすぐ終わるし、しばらくは流石に動揺の色の濃かったナックルの街の人々も以前のように静かで穏やかな日々をすっかり取り戻したようだった。
変化した日々が少しずつ日常になっていく。そんな中で、自分だけがどこか取り残されたままのような気がした。
◇
「それではセットチェンジをしますので、ユウリさんとキバナさんはこちらで少々お待ち下さい」
スタッフの指示に従って、ユウリと共にスタジオの隅に置かれたパイプ椅子とテーブルへと向かう。先程までキバナたちがいた場所には沢山のスタッフが入って、手際よくセットや小物を変えていく。
昔からあるキバナにも馴染みのポケモン雑誌で、今は新チャンピオン就任記念として新チャンピオン・ユウリとジムリーダーの総当たりグラビア&対談企画連載をしているらしい。次号はキバナの番で、今日はシュートシティのスタジオにてその撮影の日だった。ユウリとの撮影は初めてではないが、まだ少し不思議な気持ちというか、新鮮な気持ちになる。チャンピオンとトップジムリーダー、という組み合わせで撮影をすることはよくあるが、キバナがナックルジムのジムリーダーに就任してからずっと、そこにいるのはダンデだったからだ。
椅子に座ると、ユウリは緊張が解けたようにふうと大きく息を吐いた。その様子を見て、キバナは「おつかれ」と声をかける。
「でもユウリも大分撮影慣れてきたなー、さっきのポーズとかキマってたぜ」
「ありがとうございます、まだかなり緊張はしますけど」
ユニフォーム姿のユウリはそう言って苦笑する。それでも最初の頃はもうわかりやすくガチガチだったから、まだ初々しさはあるものの自然な表情やポーズをカメラマンの指示に従ってとれるようになってきたのは大きな成長だと思う。カメラの前に立てばいつでも堂々とチャンピオンとしての姿を見せ続けてきたダンデとは全然違うな、なんてことを思った。それはどちらが良いとかではなく、どちらもらしいということだ。
不意にテーブルの上に置かれたカバンからひゅうとユウリのスマホロトムが飛び出してきて、『ホップからメッセージロト!』とユウリに声をかける。メッセージアプリに切り替わった画面には、短めのメッセージと共に何やら写真が付いているようだった。それを見てユウリがくすりと小さく笑う。
「お、何か面白いことでも書いてあったのか?」
「ああ、すみません。内容はただの近況報告なんですけど……、見ます?」
「オレさまが見てもいいやつ?」
「大丈夫だと思います」
そう言ってユウリが画面をタップして、画面をこちらに向けてくる。画面いっぱいに映し出されていたのは大きな本棚を背景にしたホップの自撮り写真のようだったが――ピントが合っていなくてホップの顔がぼやけている。それを見た瞬間、キバナもユウリと同じように笑ってしまった。そんなキバナを見て、ユウリもまた笑う。
「流石にブラッシータウンとこっちではそこまで頻繁に往復できないので、その分ホップが最近メッセージと一緒に自撮りも付けてくれるようになったんですけど、何か……いつもこんな感じで」
「こりゃーオレさまが今度直々にホップとホップのスマホロトムに自撮り講座開いてやらなきゃなー」
そんなことを言い合ってユウリと笑い合う。
「それにしても、オマエらホント仲いいんだな」
キバナが何気なく言った言葉にユウリは少し照れたように眉を下げた。
「……進む道は別になっちゃったけど、今でもずっとホップは私のライバルなので。ホップも頑張ってるから私も頑張ろうって思えるんです」
そう言うユウリの表情はまっすぐで晴れやかだった。そんなユウリの表情を見ながら、キバナの頭の中で「ライバル」という言葉が反響する。
ライバル。キバナにもライバルはいる。言うまでもなく、ダンデのことだ。これまで一度だって勝てたことはないけれど、キバナはダンデをライバルと公言してきたし、ダンデの側もいつからかキバナを「最高のライバル」と言うようになっていた。「自他共に認めるライバル」という関係になって、もう何年も経つ。
その関係性をもはや疑ったこともなかった。けれど。自分とダンデの「ライバル」と、ユウリとホップの「ライバル」はどこか違う気がした。
――自分とダンデは、どんな関係だろう?
そんな疑問が浮かんでしまって、撮影が再開してからもその思いは頭から離れてはくれなかった。
撮影と対談が終わってスタジオを出た頃にはすっかり外は暗くなっていた。もう遅いから気を付けて帰れよー、とアーマーガアタクシーに乗り込むユウリを見送った後、キバナもボールからフライゴンを出してその背中に乗り込む。
「うちまでよろしくな、フライゴン」
そう背中を撫でながら言うと、任せてくれと言わんばかりにフライゴンが鳴いてその羽根を大きく羽ばたかせた。一気に高度を上げたフライゴンは、ナックルシティに進行方向を定めて飛び始める。夜でも煌々と輝くシュートシティの夜景を眼下に見ながら、何度見てもすごいなと思う。この華やかな街こそ、ローズ元委員長の大きな功績であった。あの人のことを思い出すと、一緒に色々なことを思い出して今でも複雑な気持ちにはなるけれど。
横目にバトルタワーが見える。バトルタワーもまだ上階まで明かりがついていて、バトルタワーの営業時間って何時までだっけ、なんてことを考える。ダンデもまだ仕事をしているだろうか。
――元気かな。ダンデがチャンピオンだった頃はなんだかんだ試合や取材で定期的に会うことはあったけれど、ダンデがチャンピオンを降りてからは会う機会はめっきり減ってしまった。相変わらずのワーカーホリックでバトルタワーのスタッフを困らせているなんていうことは風の噂で聞いてはいるけれど。ライバルであると同時によき友人でもあるからプライベートで連絡をとることも珍しいことではなかったが、件のブラックナイトやチャンピオン交代劇の後はお互いにバタバタしていて、最近は連絡を取ることもできていなかった。……キバナ自身がそういう気分になれなかった、というのもある。
ごう、と追い風に乗ったフライゴンが速度を上げた。バトルタワーがどんどん遠ざかって、シュートシティの街並みも後ろに流れていく。ジムチャレンジが終わった頃にはまだまだ寒かったけれど、今は夜にフライゴンに乗って空を飛んでいても風の冷たさに凍えることはない。風でパーカーのフードが揺れるのを感じながら、キバナは遠く山の向こうに見えるナックルシティを見つめた。
ふと、遠くの空にきらりと星が落ちていくのが見えた。珍しい、流れ星だろうか。……いや、ただの流れ星にしては煌々と赤くきらめいているように見えた。とすると、ねがいぼしかもしれない。きっとどこかに、何かの願いを持つ人がいたのだろう。ねがいぼしは、願いを持っている人のもとに落ちてくると古くからガラルに言い伝えられている。
ねがいぼしか――懐かしいな。そう思って、キバナは自分の右手首に付けているダイマックスバンドを見つめた。
自宅に帰ってシャワーと夕飯を済ませ、寝室のベッドに寝転がる。スマホで自分のSNSのページを開くと、自分がアップした写真が一覧になって画面を埋め尽くした。先日のエキシビジョンの後に上げた自撮り、今日の雑誌撮影のオフショット。アップした写真をタップして詳細画面を開くと、いつものように沢山のいいねとコメントが付いていた。アップする度に万を軽く超えるいいねの数に一瞬心が満たされるも、そんな自分に気付いて嫌気がさす。自撮りをしSNSに写真をアップすること自体がいつしか楽しくなっていたけれど、……これも元より敗北の悔しさを忘れない為に始めたはずではなかったか。
軽くコメントをチェックするとファンたちの『応援してます!』『写真かっこいい!』といった暖かいコメントが沢山並んでいる。――他にも、厳しいコメントもそこそこ。『この間の試合ひどかった』『ダンデがチャンピオン降りたからってやる気なくしてんなよ』なんて言葉が暖かいコメントの合間合間に挟み込まれるように並んでいた。玉石混淆の世間の声などいちいち気にしていたって仕方が無いので普段は流して終わりなのだけれど、今日は何だか妙に心に引っかかってしまった。
(……分かってる、今回ばかりは自覚があるせいだ)
なんか、今日はダメだな。キバナはコメントのチェックをやめて、スマホの画面を閉じて目を瞑った。
先日のオニオンに負けた試合だけじゃない。最近のキバナは明らかにスランプだった。いつも通りに戦えば十分に勝機のある相手でも、細かな判断ミスが積み重なり負けることが続いていた。試合のVTRはいつも必ず自分でも見返しているが、我ながらひどいものだと落ち込んだ。ガラルトップジムリーダーの名を冠する者として情けないという自覚はあるし、ジュラルドンたちにも心配をかけている。主人の判断ミスで苦しく悔しい思いをさせているというのに、それがまた申し訳なかった。
このスランプは、ダンデがチャンピオンを降りてからだ。
あの日から自分の気持ちが揺らいでいる。それがスランプに繋がっていることは分かっていた。原因は分かっていても、そう簡単に解決できるものでもない。
ずっと追いかけてきたんだ。ずっと目の前にあったんだ。ただただひたすらにそれだけを追いかけ続けてきた。それが急に目の前から消えてしまった。自分が倒す気でいたダンデはダンデ自身が推薦状を渡した少女に倒され、チャンピオンを降りた。ダンデの無敗神話はあの日崩れ去った。
どうして自分では、自分のこの牙では、ダンデに届かなかったのだろうか。
しんと静かな部屋の中ではつい色んなことを考えてしまう。ブラックナイトの日のこと、あの後のこと、チャンピオンカップの日のこと、それからのこと――。迷子癖のあるダンデをキバナはよく笑ってきたが、なんだか今度は自分が迷子になってしまったような心地だった。
◇
仕事を終えてスパイクタウンに到着したのは丁度ライブが始まった頃だった。ライブ会場に近付くと外からでもネズの歌声が聴こえてくる。ライブ会場に入ると、ネズの歌声とバックバンドの爆音、盛り上がる人々の歓声がキバナの鼓膜をつんざくように震わせた。毎度鼓膜が破れるんじゃないかというほどの大きさだが、これもまたネズのライブの醍醐味だ。
キバナは人波をかき分けて、一番後ろの少し空いたスペースに陣取ることにする。今歌っている曲は、先日リリースしたばかりの新曲だ。ロックな曲調に哀愁の漂う歌詞を乗せたその曲はキバナもお気に入りだった。音楽に乗りながらステージを見ていると、ステージの上のネズと目が合う。その瞬間ネズが眉を顰めたので、キバナは思わず笑ってしまった。
「よーネズ、おつかれ。ライブ最高だったぜ!」
ライブを終えたネズが帰りかけたところにそう笑って声をかけると、ネズは先程ステージの上でした以上に面倒そうに眉を顰めた。
「行きませんよ」
「いや、まだ何も言ってないだろ?」
「どうせ飲みの誘いでしょう、面倒なことになりそうな予感がするのでおれは行きません」
――そんなことを言いながらも、結局は付き合ってくれるネズは本当に面倒見の良いヤツだと思う。
ネズの行きつけだというスパイクタウンの路地に佇む小さなバー、カウンター席の端に二人並んで座る。適度にざわついた店内、グラスを煽るとアルコールが喉をくらりと灼く。
「新曲もかっこよかったぜ! 大人気みたいだな。この間ナックルのラジオ局でも流れてたし」
キバナがそう言うと、ネズは「それはどうも」と平坦な声で返す。
「そっちは絶不調のようですね」
ネズがそう続けたので、キバナは一拍おいて大きく息を吐く。
「……手厳しいな」
まあ、引退したとはいえ元ジムリーダーのネズが知らないはずもない。溺愛する妹のマリィが現役ジムリーダーなのだから尚更だ。マリィの試合はチェックしているだろうし、キバナも先日マリィと戦ったばかりだ。……あの試合は勝てたものの、危うい場面が何度もあって、どうにかといった辛勝だった。
「最初からそんな度数の高い酒を飲みやがるので、酔っ払ってヤケにでもなりたい気分なのかと」
まああんだけボロボロの試合が続いていりゃあね、と言いながらネズはグラスを傾ける。キバナは手の中のグラスに視線を落とす。普段であれば一杯目にはまず選ばない度数の強いカクテルだ。ネズの言うことは図星だった。グラスの表面に浮き出した水滴が、つるりと滑り落ちていく。
ダンデがムゲンダイナの前に倒れた時から、そしてチャンピオンじゃなくなった時から、頭の中にある靄が消えない。
ずっとずっと自分が、他でもない自分がその玉座から引きずり下ろしてやるのだと信じてやまなかった。何度でも諦められやしなかった。けれどその時に正面にいるのは自分ではなかった。
客席から眺めたあの光景が今も目に焼き付いている。ざわめくスタジアムの真ん中で、ぐっとキャップで顔を隠した後、キャップを天に投げたダンデの顔は眩しいほどに晴れやかだった。その時でさえあのアンバーは、なにひとつ曇りなんてなくて、世界で一番美しい輝きを湛えていた。熱狂の渦巻くスタジアム、その真ん中で笑うダンデとユウリ。その時自分はどんな表情をしていただろう。自分では分からなかった。
決してジムチャレンジャーたちを、ユウリを侮ってなどいたわけではない。だがトレーナーを始めたばかりの少女に無敗神話・ダンデが敗れるなんて、誰が想像できただろうか。しかし、同じポケモントレーナーだからこそ、自らも手合わせしたからこそ、彼女の勝利がただの運やまぐれなどではなく実力の伴ったものであることはキバナには痛いほどに分かっていた。
オレもダンデも、強さをずっと追い求めてきた。それでも辿り着けなかった場所があった。
「……『ライバル』って何なんだろうって思ってさ」
グラスの中の氷が溶けてバランスを崩し、重力に従って落ちていく。小さくなった氷がカランと音を立てて、それがやけにキバナの耳の中で響いた。
あのブラックナイトの日。直接見てはいないが、あの時ダンデはムゲンダイナの前に倒れ、ユウリとホップがムゲンダイナをおさめたという。――英雄は、一人ではなく二人だった。ガラルを再度襲ったブラックナイトは、まさにガラル地方に古くから伝わる英雄伝説の再現のようだった。
ダンデがスタジアムを飛び出してナックルスタジアムの屋上に向かう、ブラックナイトの根源を止めに行くと言った時、キバナはダンデに全てを託すことにした。ダンデなら大丈夫だ、ダンデならきっとそれを成功させると思ったのだ。
結局は自分もダンデのことを「英雄」だと思っていた。それはダンデへの敬愛であると同時に、無責任な神格化という危険性も孕んでいたと今ならば思う。アイツも人間であること、分かっていた。完璧なんてはずはないし、怪我もすればあの時みたいに倒れることだってある。最悪の場合だって存在するのだ。分かっていたはずなのに。
それでもオレはナックルジムのジムリーダーとして街を守る責任があったし、何かあった時に真っ先に動けるあの場所にいたことは今でも間違っていなかったと思う。けれど、同時に思うのだ。共に戦えたら結果はなにかひとつでも違ったのか? と。
意識を失うほどの怪我をしたくせして、三日後にはチャンピオンカップの決勝のコートに立っていた。幸いにして後遺症もなく、ダンデは今は新しい場所で元気に走り回っているけれど、それらは結果論だ。
ダンデがライバルだと言ってくれたその言葉に嘘は無いと断言できる。しかし、オレたちはずっと結局一人と一人だった。不可侵な部分が絶対的にあった。そういうものだと思っていたけれど、それでよかったのか、今となっては分からなくなっている。
ジムチャレンジの際にナックルシティ駅からシュートスタジアムへ向かうユウリとホップを送り出した時のことや、先日のユウリとの撮影の時のことを思い出す。
お互いをライバルだと言う二人は、しかしキバナとダンデとはどこか違う関係性を築いているようにも見えた。コートの中で真正面で相対するだけではない、隣同士で走り、影響を受け合って、共に成長していく。それぞれにお互いをライバルと思い、鍛え上げた強さをコートの中でぶつけ合うことで高め合っていった自分たちと、彼女らの在り方は、同じ「ライバル」と言っても異なる形であるようだった。
(「ライバル」って、何なんだろうな)
そう思えば思うほどわからなくなっていく。オレはただただ、一人で走り続けているダンデを追いかけているだけに過ぎなかったのかもしれない。そう思うと、乱暴に丸めた紙のように感情がくしゃりとなる思いだった。
最近会っていないといえど、ダンデがローズ元委員長の後を引き継ぐ形でガラルリーグ委員長兼バトルタワーオーナーに就任して以降、仕事――これまでのようにバトルや取材ではなく、主にジムリーダー会議だ――で何度か会う機会はあった。その時のダンデは、ガラルではまだチャンピオン交代の感傷や余韻に浸る人々の多い中で、そんなことなんて吹き飛ばしてしまうくらいにすっきりとした表情をしていた。普通であればあれだけ長く務めたチャンピオンへの未練や再戦への熱意も生まれそうなところだというのに、ダンデは早くもすっかり前しか向いていないようだった。それがまたキバナの心を静かにくしゃりと乱した。
(ネズもダンデも、他のみんなも新しい日々をしっかりと走っている。なのにオレはなんだ?)
いつの間にかグラスの中が空になっていたので、キバナは次の酒を注文する。メニューをざっと眺めて、次もまた度数の強いカクテルをあえて選んで注文した。横で何か言いたげにネズが見ているのには気付いていたが、キバナは気付かないふりをする。ネズは結局何も口を挟んではこなかった。
キバナは酒に極端に弱い方ではないが、流石に強い酒を飲めばアルコールがすぐに回っていく感覚がする。普段であれば自制心も働くところであるが、ネズの指摘の通り今日は酔う為に飲みたい気分だった。それに明日は休みだから、ひどい二日酔いになったって構いやしない。
バーテンダーが出してくれたカクテルに口を付ける。先程よりも甘みの強い酒だ。しかしアルコールの度数は先程に負けず劣らず強い。
先日見た夢のことを思い出す。まだお互いに少年と呼ばれるような年の頃、ある試合の後に試合後の高揚と勢いのままキバナがダンデに告白をした時の夢だ。
あれ以降、キバナはダンデに対する恋愛感情を伝えることはなかった。しかし、ずっと好きであることは変わらなかった。むしろ年々それは深まっていくばかりだった。それはお互いに大人になって、すっかり男同士の身体になっても同じだった。その唇に触れたいと、この気高く強く美しい男を自分のものにしてやりたいと、そう思う気持ちは確かにずっとこの心の中で渦巻き続けている。衝動に突き動かされそうになってしまう瞬間も何度だってあった。しかし、それ以上にダンデを大切にしたかった。ダンデの夢を応援したかったし、なによりもダンデに幸せで居て欲しかった。ダンデが自分とそういう関係になりたくないのならば仕方がないと自分の気持ちを押し込めた。
――恋人として、パートナーとして隣にいられなくたって、ダンデの真正面で戦える存在であること、一番のライバルであること。それだけは自分だけの最上級の特権であり、それだけで十分すぎるほどだと思っていたんだ。だけど。
早くもなくなりそうなグラスの中のカクテルを煽る。心地の良い甘さが口の中に広がっていくはずなのに、何だかそれが妙に苦く思えた。喉元を通り抜けるアルコールが熱い。自分が酔い始めていることは何となく自覚していた。
「ダンデが、好きなんだよなぁ……」
呟くようにして、ほろりとその言葉がキバナの口から零れ落ちた。もうずっと言葉にするのをやめていた言葉だ。心の奥底に押し込めて、考えることだってずっとやめたかった感情だ。
それでもずっと諦められなかった。どれだけ忘れようとしたって、ダンデに会えば、コートの上でぶつかり合えば、感情が溢れ出す。
ダンデが好きだ。ライバルとしても、友人としても、そして恋愛感情としても。もうそれは自分の一部になっていて、簡単に切り捨てられるようなものじゃないんだよ。
空になったグラスをキバナはじっと見つめる。中身が空っぽになって、外側に残滓のように残った水滴の細かな粒が何だか自分に重なるような心地で、そんな馬鹿みたいに感傷的になった自分を笑い飛ばしたい気持ちになった。
自分の原動力であったはずの感情にがんじがらめになっていることを自覚する。ダンデに出会ってからずっと、走って走って走り続けて――そしてわからなくなった。オレはどこへ向かっていたんだっけ? 何を手に入れたかったんだっけ?
「……だいぶ酔ってるってことにしてあげましょう」
零れ落ちたキバナの告白にネズが小さな溜息と共にそう呟いたのを、キバナはくしゃくしゃの意識の隅で聞いていた。