2.



 ジムリーダーたちにヨロイパスを配布する、というメールがダンデ委員長名義で届いたのは昼の少し前のことだった。ヨロイパス――ガラル本島の東の海に浮かぶ、かつては無人島、現在は私有地となっているヨロイ島に入る為に必要なパスだ。島の所有者はかつて伝説的なチャンピオンだったというマスタード氏で、今はそこでトレーナーの為の道場を開いているのだということはキバナも知っていた。その道場こそ、ダンデがジムチャレンジに出る直前にトレーナーとしての修行をした場所だということも。
 自分が修行した島だ。海に森に岩場に砂地にと自然も豊かで、本島にはいないポケモンも沢山いる、修行にはうってつけの場所だと思う。島の所有者である師匠にはもう話を通してある。きっとみんなも何か得るものがあるだろから是非行ってみて欲しい、と。パスは後日郵送をするということだった。
 仕事がキリの良いところまで終わったので少し早めに昼休憩をとっていたキバナがそのメールに気が付いたのは、ナックルシティに最近できたばかりのカフェのテラス席だった。時折吹く涼やかな風が心地が良いけれど、風が止むと少しだけ暑いなと思う。景色は評判通りいいけれど、屋内の席にしておけばよかったか、なんてことを思っているところにスマホロトムがメールの受信を知らせてくれた。ダンデのリーグ委員会のアドレスからで、開いたところそういった内容が書いてあったのだった。
一通り目を通したところで、注文したミックスサンドが運ばれてくる。綺麗に皿に盛られたそれをひとつ掴んで口に運びながら、先程のメールを反芻する。ヨロイ島。ダンデがかつて修行した島。興味が無いなんてはずはない。それはダンデからどうしたって勝利をつかみ取りたいライバルとしてもそうだったし、ダンデが好きだから自分の知らない頃のダンデのことを知りたい、自分と出会う前のダンデが過ごした場所を見てみたいという気持ちもあった。
 それに、新しい刺激を受ければ少しは気が紛れるだろうか? そんなことを思って、それを胸の奥に流し込むように氷がたっぷり入った冷たいアイスティーを飲む。喉を通る冷たさに、少し目が覚めるような心地になった。
 一時期よりは大分持ち直してきたものの、キバナはスランプを未だ完全に脱せたわけではなかった。胸の中の靄が、まだわずかに残ったまま。自分とダンデの関係は何なのか、自分がダンデを追いかけ続けた日々は何なのだろうか――そう考えたあの日の答えが今もうまく出せていないからだ。
 風が吹いて、キバナの髪を揺らす。もう夏も目の前まできている。ブラックナイト、チャンピオンの交代から早いものでもうじき半年ほどが過ぎようとしていた。



 ジムに戻ると、廊下を歩いてきたリョウタがキバナを見つけてはっとしたように「あ、キバナさま!」と声をかけてきた。
「ただいま、リョウタ。何かあったか?」
 何か用事がありそうな様子だったのでそう聞いてみる。
「おかえりなさいませ。丁度今キバナさまに来客がありまして――」
「来客?」
 今日は特に来客の予定はなかったはずだけれど。そう不思議に思っていると、リョウタは続けた。
「ダンデ委員長です。応接室でお待ちです」

 応接室の重厚な扉をノックすると、聞き慣れた――そして少し懐かしい、溌剌とした声で返事が返ってくる。扉を開くと、赤茶の革張りのソファにその男は座っていた。この十年着慣れたユニフォームにマントの姿ではなく、バトルタワー用に新しく制作したという深紅の燕尾服に身を包んでいる。出で立ちは変わっても、キバナの顔を見てにっと笑った笑顔は相変わらず太陽のようだった。そしてその顔を見て、自分の鼓動が高まるのまでやっぱり相変わらずだった。
「お疲れさまだぜ、キバナ! いきなり来てしまってすまない」
 ダンデの姿に、声に、言葉に、ふっと自分の口角が僅かに上がるのが分かる。
「お疲れ、ダンデ。別にオマエがいきなりなのはいつものことだからいいけどよ」
 ダンデが座っているのとは反対側のソファに腰を下ろしてそう茶化すように言うと、ダンデは「何も言えないな」と苦笑する。どうやら一応自覚はあるようだった。むしろ、思い立ったら即行動しないと気が済まない質であるダンデがいきなりじゃなかったことの方が珍しいので、今更何も気にすることではない。そんなダンデにはキバナももう慣れっこだった。
「で、どうかしたか? わざわざナックルまで来て」
「ああ、別に大した用事ではないんだが……」
 用件を尋ねてダンデが答えようとしたところで、扉がノックされる。キバナが「入っていいぜ」と返すと、「失礼します」とリョウタが恭しい様子で顔を出した。その手にはトレーとその上に乗った二つのティーカップ。ダンデとキバナの分の紅茶を持ってきてくれたらしい。丁寧に、慣れた手つきでキバナとダンデの前にティーカップを置いていく。
「ありがとう」
 ダンデの礼にリョウタは「いえ、どうぞごゆっくり」とそつなく微笑む。
 リョウタが応接室を去った後まだ湯気の立つ紅茶を一口飲んで、おや、と思う。どうやらリョウタはしっかりキバナの好きな茶葉のものを淹れてくれたらしい。キバナの好きなフルーティな香りが鼻をくすぐって、本当に優秀な部下を持ったものだとキバナはダンデにばれないように小さく笑った。
 ダンデも紅茶を飲んで、「流石ナックルジムの紅茶はいつも美味いな!」と笑う。「オマエ、紅茶の味とか分かったっけ」と言ってやると、「茶化さないでくれよ。……そりゃ確かにこだわりというほどのものは無いが」と語尾が段々と小さくなっていくのがおかしかった。
「そうそう、それで今日来た用件だったよな」
 ダンデは足下に置いていたカバンに手を入れて何かを取り出す。出てきたのは小さなカードだった。
「さっきメールを送っただろう? これがそのヨロイパスだ」
「あー、これが! ありがとな、でも郵送で送るって書いてなかったか?」
 黄色をベースにした、手のひらに収まる小さなカードをダンデから受け取る。キバナは裏返してみたりして眺めながらも、そう不思議に思って聞いてみる。メールが来たのはついさっきのことだし、わざわざこのためだけにシュートからナックルへ来るほどのことでもないだろう。
「他のジムリーダーにはそうするつもりだぜ。今日はたまたまナックルに来る用事があったから、それならキミには直接渡しておこうかと」
「……なるほど」
 自分だけに手渡しに来た、ということに俄かに高揚してしまう心に単純だなと呆れてしまう。たまたま近くまで来たついでだと言っているというのに。しかしそれでも嬉しいことに変わりはなかった。
「ヨロイ島はいいところだぜ。オレもチャンピオンになって以降は忙しくて全然行けていないけれど、メールでも書いた通り自然が豊かでこちらにはいないポケモンもたくさんいてとても刺激的な島だ。こっちで言うとワイルドエリアに近い環境かな。海も森も岩場も砂地もあるから様々な環境での対応力が鍛えられると思うし、きっとみんなにとってもいい修行場所になると思う――」
 そうヨロイ島の魅力を語るダンデの表情は生き生きとしていた。その目は相変わらず前しか見ていなくて、キバナがこんな風にぐちゃぐちゃ悩んでいることなんて知る由もないみたいにダンデはいつだってまっすぐに走り続けている。
ずっとそうだった。ダンデは止まることなんて知らなくて、キバナがどうあろうとお構いなしだ。そのことに少しだけムカついて、だけど結局こういうダンデだから好きなんだよなとそれ以上の大きさで思う。
「……キバナ? 聞いているか?」
 ずっと黙って聞いているばかりだったキバナを不思議に思ったらしい。ダンデが言葉を止めてそう聞いてきたので、キバナは慌てて意識を目の前のダンデに戻す。
「あぁ、聞いてる聞いてる。ヨロイ島は前から興味あったし、なんたってダンデが修行した島だろ? スケジュール調整できたらオレさまも行ってみるわ」
「ああ、是非行ってみてくれ!」
 ダンデはそう言って、また太陽みたいににかっと笑った。
 ふと会話が途切れて、室内に静寂が落ちる。どこかから、子どもたちの賑やかな声がわずかに聞こえてくる。ナックルスタジアムの横手にある広場かどこかで子どもたちが遊んでいるのだろう。
窓の外から降り注ぐ昼下がりの穏やかな日差しが室内を照らす。ダンデはティーカップに手を伸ばして紅茶をまた一口飲んだ後、再び口を開いた。
「……それにしても、キバナと会うのもなんだか久しぶりだな。会議なんかでは何度か会ってはいたが」
 かちゃり、とダンデがティーカップをソーサーに置く音がキバナの鼓膜を小さく揺らす。
 ダンデがそんなことを言い出すのが少し意外で、そしてダンデもそう思っていたのか、と思ってキバナは目を瞬かせた。今でもダンデとは会議などで顔を合わせることはあるし、ダンデも招待されれば今もエキシビジョンなどに出ることは無いわけではない。しかしそれもチャンピオン時代からは比にならないくらいの少ない回数だ。今はバトルタワーやリーグ委員会の仕事が忙しく、出たくてもなかなか時間を作れないらしい。ダンデとこうしてゆっくりと顔を合わせるのは本当に久しぶりのように思える。
――最後にバトルをしたのはいつだっけ。まだダンデがチャンピオンを降りてから半年ぽっちしか経っていないはずなのに、世界が一気に変わりすぎてしまったからか、それらの日々がすっかり遠くへ行ってしまったように思えた。
「そうだな」
 そう言ってキバナも紅茶に口を付ける。もう湯気は立っていない紅茶は、少し温くなり始めていた。先程までの言いたいことがあふれ出ているような快活さとはスイッチが切り替わったみたいに、ダンデは目の前に穏やかに静かに佇んでいる。普段人前に出る時の溌剌とした王者然としたダンデとは違う、穏やかな雰囲気を纏った静かなダンデが二人きりだったりプライベートだったりの場では時々現れることをキバナはダンデと友人関係を築いてからしばらくして知った。本人は意識して切り替えているわけではないだろう。どちらもダンデの素で、どちらだってダンデだ。
 きらきらと輝くアンバーの瞳、まるでたてがみのように長い紫の髪、特徴的に整えられた髭。見慣れきったダンデの姿をまじまじと見つめる。見慣れきったはずのダンデの姿の中で、あのぴっちりとしたユニフォームに仰々しくて重たそうな深紅のマントを纏っていないことだけがどうにもまだ見慣れない。
「……その服、やっぱりまだ変な感じだな」
 そう素直な感想をぽつりと零すと、ダンデの表情が少し心配そうなそれに変わる。
「似合わないか?」
 ダンデの言葉に、キバナは慌てて返す。言葉の選び方を間違えたな。
「あぁいや、似合わないとかじゃないぜ。ただ、いつものマントにユニフォーム姿じゃないオマエが変な感じだってだけで」
 そう言うと、ダンデは今度こそキバナの言葉の意味を正しく受け取ってくれたようだった。ほっとしたような表情になった後、「そうか、実はオレもだ」なんてダンデが笑った。もう新しい場所にすっかり馴染んだようだったダンデ自身もまだ違和感があるのか、というのをやっぱり少し意外に思った。
 ダンデの長い睫毛が、窓から降り注ぐ日差しに照らされて美しい紫色に光る。それに一瞬、キバナは見惚れた。
 ――どんなに悩んだって、会えばやはりダンデが好きだと思う。ダンデと戦いたいと思う。
 チャンピオン交代以降、キバナの戦績が明らかに振るわないことはリーグ委員長であるダンデが知らないはずがなかった。最近は持ち直してきたものの、まだ本調子ではないことは他でもないダンデから見れば明らかだろう。しかしダンデの態度はこれまでと何も変わらず、それに触れるつもりもないようだった。それに拍子抜けしたような、ほっとしたような、なんとも言えない気持ちになる。ダンデはどう思っているのだろうか。
「あぁそうだ、ホップも近々ヨロイ島に調査に行くつもりらしい。話をしたら興味があるって言っていたから、ホップの分もヨロイパスを用意したんだ。もし会ったらよろしくだぜ」
 ホップもすごく熱心に勉強しているらしいとソニアが言っていたぜ、子どもが大きくなるのは早いな。そんな風にしみじみとした調子で話をするダンデに、オレたちまだそんな感慨に浸る歳じゃないだろと言って笑い合った。

 少しの間たわいない話をした後、不意に応接室の壁掛け時計を見たダンデはそろそろ次の予定に出発しなければならないと言った。ナックルジムの正面玄関前はこの時間は人通りが多いから応接室近くの広いバルコニーから出発した方がいいかもしれないというキバナの言葉にダンデも頷いたので、二人でバルコニーに出る。ダンデはボールからリザードンを出し、「今日はありがとう。邪魔したな、キバナ!」といつものように明朗な声で言って笑う。キバナが昼食を食べに出た時よりも風が少しばかり強くなっていて、ダンデの長い紫の髪をひっきりなしに揺らした。
「いーえ。ヨロイパスもありがとな、じゃ」
 そう言ってキバナは片手を軽く上げてひらりと手を振る。ダンデはそのままリザードンの背に乗り込むのかと思いきや、少し何かを考えるようにそのままじっとキバナを見ていた。何か言い忘れたことでもあったのだろうか。どうかしたかとキバナが聞こうとしたところ、タッチの差でダンデの方が早く口を開いた。
「キバナ!」
 改まったように、こちらにちゃんと届けようとするように、先程よりも少し大きな声でダンデがキバナの名前を呼ぶ。
「今日、こっちに用事があったっていうのも勿論あるんだが! ……本当のところは、キミの顔がなんだか無性に見たくなったんだ」
 ダンデの言葉に、キバナは瞠目する。ダンデがそんなことを言うなんて、思ってもみなかったからだ。
ざあ、と一際強い風が吹いて、ダンデの長い髪を舞い上がらせる。周囲の木々がざわめくように葉を揺らす音が遠くに聞こえた。ナックルシティの高く青い空にダンデの紫の髪のコントラストが目に焼き付いて、まるで何かの映画のワンシーンのようにさえ見える。乱れた髪の奥で少し照れくさそうに唇を引き結ぶダンデは、これまでキバナが見てきたダンデの姿よりもずっとひどく人間くさい表情をしていて、オマエそんな表情もできたのか、なんてキバナは思った。
「チャンピオンに未練があるわけじゃないんだ」
 ダンデはぽつりと呟くように、しかし風にかき消されはしないはっきりとした口調で言う。
「だけど――チャンピオンの頃は定期的にコートで顔を合わせていたから。キミとこんなに長いこと戦っていないのは、やっぱり、変な感じだ」
 そう言ってダンデは、キバナをまっすぐに見て小さく苦笑した。
 体温がじわりと上がっていく感覚がある。これはきっと、初夏の暑さのせいだけじゃないということくらいはキバナも自覚していた。
「――ダンデ」
 キバナは返す言葉を探すよりも早く、ほとんど本能や衝動みたいにその名前を口にしていた。先程の風で乱れたままの前髪の隙間から、アンバーの瞳がキバナを見つめる。ばちん、と目が合う。その目を見た瞬間にもう、自然と次の言葉は決まった。
「落ち着いたらまたバトルしよう」
 この言葉がごく自然に口から零れ落ちたことに、自分自身でキバナは驚いた。しかし同時に、すとんと自分の心にその言葉が落ちて染み渡っていくようだった。この言葉を口にすることを、自分自身が誰よりも一番に待っていたようにさえ思えた。
 キバナの言葉を受け取ったダンデは、その瞳をきらりと輝かせる。噛みしめるみたいな表情になった後、にっと満面の笑みを浮かべる。
「……勿論だ! 楽しみにしているぜ!」
 まるで星がきらめいているかのような、その瞳の輝きはこれまでとなにひとつ変わっていなくて、それが嬉しかった。



 ◇



 駅を出た瞬間、鼻孔をくすぐったのはいっぱいの潮のにおいだった。駅を出て目の前にすぐ海が広がっていて、ドヒドイデやガラルヤドンが砂浜の上でのんびりとしている。――ガラルヤドン。キバナは驚いて目を瞬かせる。知識としては知っているが、本島ではなかなかお目にかかれないポケモンだ。
 ぐるりと辺りを見渡せば、青い空、白い雲、美しい砂浜に海、青々と茂った木々、そして自然の中で心地よさそうにのんびりと過ごすポケモンたち。ダンデが言っていた「いいところだ」という言葉が頭を過ぎる。なるほど、これはたしかにいいところだな、とヨロイ島に降り立ってすぐにキバナは実感したのだった。

 ダンデからヨロイパスを貰って数週間。リョウタたちにヨロイパスの話をすると、折角の機会ですから是非行ってきて下さいと快くスケジュールを調整してくれた。丁度ジムとしても閑散期であったこともあり、溜まっていた有休消化も兼ねて数日のまとまった休暇を貰ってこのヨロイ島に足を運ぶこととなったのだった。
(……リョウタたちにも心配をかけちまってただろうなぁ)
 キバナがヨロイ島に行きたいと言った時、皆はキバナが少し驚くほどに喜んでくれた。これまでもこのときも何も口にこそしなかったが、ダンデがチャンピオンを降りてからしばらく、このナックルジムの主たるキバナがバトルも不調で普段もなんとなくもやついた様子だったことを聡明で優しい彼らが気付かないわけも気にしていないわけもない。本当に情けないな、と今更になって思う。
 しかしなにごとかを胸の内に抱えながらこれまで通りの日常をこなしていく日々が続いた中で、キバナが久しぶりに言い出したわがままだ。いいリフレッシュになるといいと気を回してくれたのだろう。本当にいい部下たちを持ったもんだ。ここでは何かお土産のようなものは手に入るだろうか。これといったものが無さそうであれば、帰りがけにどこかの駅で美味しいものでも買って休み明けに持って行こう、なんてことを考える。
(それにしても)
 ――ここがダンデが修行した島か。
 チャンピオンになる前のダンデが修行した、と言うともう十年以上前だ。十年以上前、キバナと出会う前、チャンピオンになる前のただの少年だったダンデが、かつてこの島にいた――その場所に今自分が立っていると思うと、何だか不思議な気持ちだった。そして間接的にとはいえ、自分の知らないダンデの足跡に少しだけ触れられたような気持ちで、じわりと嬉しく思う。
 カバンの中からふい、とスマホロトムが飛び出してくる。
『キバナ、写真撮るロト?』
 キバナは新しい場所に行った時は必ずと言っていいほど写真を撮る質なので、今回もそうだろうと気を回して出てきてくれたのだろう。
「サンキュー、じゃあ一枚お願いするかな」
 キバナがそう言うと待ってましたとばかりに『了解ロト!』と言ったスマホロトムがキバナの斜め上に飛んでいく。逆光にならない方向、海と空とキバナの顔がうまく写る角度をすぐに把握してカメラを起動するスマホロトムは流石キバナさまのスマホロトム、とキバナ自身も改めて感心してしまうほどだった。
『それじゃあいくロトー』
 パシャリ、とカメラアプリのシャッター音が響く。写真を確認すれば、青い空に白い海にキバナの顔にのんびりと過ごすポケモンたちに、完璧な角度でばっちり映える最高の一枚が出来上がっていた。
「流石! ありがとな、ロトム」
 キバナはそうスマホロトムに礼を言って、いつものように慣れた仕草でその写真をSNSにアップしようとして――、キバナは動きを止めて少し考えた後、今日はやめておこうかなとSNSアプリのアイコンをタップせずにホーム画面に戻した。
『アップしないロト?』
 スマホロトムは不思議そうに聞いてくる。キバナがこういう時、撮った写真をSNSにアップしないのは珍しいからだ。キバナは頷く。
「うん、今日はいいかな」
 スマホロトムにはカバンに戻って貰って、青い空を見上げてキバナは大きく息を吸う。潮の香りと新鮮な空気が肺を満たした。――なんだか不思議なほどに、すっきりとした気持ちだった。



「これでよし、っと」
 ロープをしっかりと締め上げて、キバナは息を吐く。一人用には少し大きめのテントが綺麗に張れていて、うんうん、久しぶりだけどバッチリだな、と心の中で呟いた。最近は忙しさにかまけてなかなかできていなかったけれど、それこそジムチャレンジ時代もそうだし、ジムリーダーになってからもナックルシティはワイルドエリアに近いこともあって昔は時間を見つけては手持ちポケモンと遊ぶのも兼ねてよくワイルドエリアでキャンプをしたものだった。――昔は、たまにダンデも一緒にキャンプしたっけな、なんて懐かしいことを思い出す。日はもうとっぷりと暮れていて、見上げれば空には満天の星空が広がっていた。本当はもう少し早めにテントを張っておこうと思っていたけれど、島の探索が楽しくて気が付けばすっかり夜になってしまっていた。

 島の主であるマスタード氏の道場にも島に到着してすぐに挨拶をした。キバナはリアルタイムでは知らないが、過去の試合の記録は見ていたし自分にも他人にも厳しい伝説的なチャンピオン――ということは伝え聞いていたので少しだけドキドキしていたけれど、応対してくれた明るくて朗らか、軽い口調で話す老人がそのマスタードだと言うのでキバナは驚いてしまった。しかし白黒の粗い映像だったとはいえ過去の記録映像で見た姿の面影はあり、なんだか不思議に納得をしてしまったのだった。
 今日からしばらくこの島で世話になる旨と合わせて、ダンデがこの島はとてもいいところだって言っていたと伝えると、マスタードはその笑みを一層深くして「そっかそっか、ダンデちんが」ととても楽しそうに呟いていたのが印象的だった。
 マスタード氏の奥方であるミツバという女性が「折角だからここに泊まっていかない? 部屋も沢山空いてるし、賑やかな方が楽しいし!」と提案してくれて、とてもありがたい誘いで少し迷ったけれど今回は気持ちだけ受け取らせて貰うことにした。今回は久しぶりに、一人でじっくりと冒険をしてみたい気分だったからだ。丁重に断るとミツバは嫌な顔ひとつせず「気が変わったらいつでも言ってね」とマスタードと同じように朗らかに笑っていた。
 そうして島を一周するように巡り始めて、一通り探索し終えた頃にはすっかり夜になってしまっていた。そろそろどこかにテントを張って休んだ方が良いなと思い、テントを張る場所の候補を頭の中でいくつかピックアップする。最終的に昼間に通りかかった時に目星を付けていたうちの一カ所である、この森の近くの奥まった草原にテントを張ることにしたのだった。

 見上げた星が綺麗で、キバナはそのまま後ろに倒れ込むみたいにして寝転がる。途端、視界いっぱいに星空が広がった。草の香りが鼻を擽る。ボールから出していたジュラルドンはそんなキバナの様子を目で追った後、ジュラルドン自身もキバナの真似をするみたいに空を見上げた。
 ナックルシティもそれなりに星は綺麗だが、流石にガラルでも有数の都市である。夜でも街は明かりが灯っているし、輝きの弱い星はあまりはっきりとは目視できない。しかしここは自然が豊かで建物も少ないためか、ナックルシティよりもずっと空が澄んで驚くほどに沢山の星々が夜空を覆い尽くすように輝いていた。いやあ、すごいな、なんて心の中でキバナは呟く。自分と空との間に遮るものはなく、手を伸ばせば星を掴めてしまうんじゃないかとさえ思えるほどだ。
 これは確かにリフレッシュできるな、と思う。同じガラルだけれど、ダンデの言っていた通り本島では見たことの無いポケモンもたくさんいて新鮮な驚きの連続だった。
 こんな風に新しい場所を冒険するような気持ちになるのはいつぶりだろうか。ジムチャレンジ時代を思い出すようでもあり、どこか別の地方に来たような気持ちでもあった。
(別の地方、か)
 キバナはそう心の中で呟く。

 ――うちの地方に来ませんか。貴方の実力であればチャンピオンになることも夢ではありません。
 かつて、そう他地方のリーグに誘われたことがある。ガラルからは遠い地、キバナがまだ旅行や遠征でも行ったことのない地方だった。少年から青年に変わろうかという頃、ダンデへの黒星がそろそろ片手では足りなくなりそうになってきた時期の話だ。ダンデとの試合が終わった後、キバナの控室に他地方のリーグ関係者だというスーツ姿の紳士が尋ねてきた。今日の試合を見たと、素晴らしかったと褒め言葉を連ねた後、キバナをそう誘ってきたのだ。
 ポケモンバトルは世界中で楽しまれているものだ。その中でもガラルは興行的な意味合いが強く発展してきており、その実力とエンターテインメント性と世間的な盛り上がりはめざましい。他地方から観光がてら試合観戦に来る人も年々増加しているという。その紳士はかねてよりガラルリーグの盛り上がりに注目しており、自分の地方のリーグも盛り上げたいという思いから優秀な選手をスカウトしにはるばるやって来たのだと言った。
 ――……ガラルには、ダンデ選手がいますから。
 あの伝説級の強さは他の地方を見渡してもそうそういる才ではない。ダンデがチャンピオンである限り、ガラルでチャンピオンになるハードルは他の地方よりも極めて高い。本来であれば貴方はチャンピオンレベルの実力があるのだから、是非うちのリーグに籍を移しチャンピオンの座に挑戦することも考えてみてくれないか。と、その紳士は続けた。その表情や声色から、その褒め言葉は皮肉や揶揄などではなく本心からのものであり、本気でキバナを選手として評価してくれているのが伝わってきた。
 ありがたいことだった。けれど、キバナは迷うことなくその誘いを断った。
 自分にとって「チャンピオンになる」ことよりもずっと、「ダンデに勝つ」事の方が大事だったからだ。

 ある時、たまたまつけたテレビでガラルリーグの評論のようなことをしているのを見たことがある。その時座っていたコメンテーターらしき男性は、訳知り顔でこう言っていた。
 ――なんというか、キバナ選手は運が悪いな、と思いますね。あれだけの実力があればチャンピオンになることも夢ではないはずなのに、ダンデ選手と同じ時代に産まれてしまったばっかりに。
(否。そんなことはない。不運などでは絶対にない)
 昔、少し負けが込んでいた時期に、賛否両論ある鋭い切り口が持ち味の週刊誌の記者にこう聞かれたことがある。
 ――あんなにダンデ選手に拘らなければ、もっと上を目指せたんじゃないか、という声もありますが。
(ダンデがいたからオレは強くなれた)
 ダンデに負けた自撮りをSNSにアップした時には、大量のコメントの中に冷ややかなものだって混じっている。
 ――何度戦っても勝てていないのに。
(それでも、次は勝てる可能性は十分にあるだろ?)

 ――落ち着いたらまたバトルしよう。
 ――……勿論だ! 楽しみにしているぜ!
 ヨロイパスを渡しに来た時の、ダンデとの会話を思い返す。
 キバナはゆっくりと目を閉じて、これまでのダンデとの試合を脳裏に思い浮かべた。
 初めてダンデと戦った時。あの頃自分はナックルジムのジムリーダーではなく、ただのいちジムチャレンジャーだった。ダンデへの挑戦権を手に入れて初めてコートで相対した時の、あの今までの人生で一度も感じたことのなかった類の高揚と興奮は、今でも忘れることなどできない。
 二回目は、次期ナックルジムリーダー就任が決まった後に行われたエキシビジョンだった。ダンデと共に次世代を担うホープとして注目されたキバナは、ナックルジムを背負うその責と世間の期待に応えるべく、そして何よりもダンデに勝ちたいと自分でも驚くほどに燃え続ける己の心のままに、前回のダンデとの試合を徹底的に見返し、対策して挑んだ。しかしダンデの側も前回の試合からキバナを対策してきたのは同じで、前回とは違う技構成に試合運びで観客を熱狂させたもののあと一歩この牙はダンデに届きはしなかった。
 キバナが追いかけても、追いかけても、それと同じようにダンデだって走り続けていた。それならもっとと速度を上げて追いかける。それでもダンデには追いつけなくて、じゃあもっとだと、その繰り返しでいつしか何年もの月日が経っていた。双方少年だったあの頃から、背も伸びて声も低くなって、ダンデは髭まで蓄えて、しかしずっと変わらずにキバナはダンデを追いかけ続け、それを何度でも打ち返すダンデはキバナを最高のライバルだと公言するようになった。
 三回目は、四回目は――……。ダンデとの試合のひとつひとつが、脳裏に鮮やかに浮かび上がる。そのすべてを昨日のことのように思い出せるし、思い出すだけで高揚して仕方がなかった。戦う度に強くなるダンデに、それならば自分ももっと強くなればいいと何度でも気持ちを燃え上がらせた。
 あのこちらを射抜いて輝く瞳が、風に揺れる紫の髪が、焼き付いて離れない。どうしたって、何度だって、それが世界で一番美しいものに思えた。
 もう理屈で諦められるようなものなんかじゃないのだ。ダンデじゃないとこの飢えはもう満たされやしない。そしてそれを、不運だとも思わなかった。ダンデにとらわれたことが不運に見えるなら、どうぞ勝手に言っておけばいい。
 結局いつだってこの結論に辿り着くんだよな、と、自分で自分に苦笑した。
 遠い遠い、この海の向こう、その先にはまだキバナも出会ったことのない強いトレーナーたちも、ここには生息していないポケモンも、沢山いるだろうと知っていた。それでも。
 ダンデに勝ちたい。ダンデの一番側で走っていたい。ダンデと共に在りたい。
 ライバルとしても、友人としても、そして恋愛感情としても、それがすべてなのだ。

 ゆっくりと目を開ける。満天の星空と、そして視界の端には愛するパートナー、ジュラルドンが目を開けたキバナに気付いてこちらに目を向けた。それにキバナは口角を上げて、ぱっと上半身を起こす。髪の毛に付いた葉っぱを手で軽く落として、ジュラルドンの方に顔を向けた。目を合わせて、キバナはにっと笑う。
「なあ、ジュラルドン。またオレと走ってくれるか」
 当然だ、と言うようにジュラルドンはひとつ鳴き声を上げた。

 その時。夜空に、きらり、と赤い光が流線を描いた。ただの流れ星にしてはいやに眩しくて大きな輝きに、キバナは驚いて目を瞬かせる。あれは――、いや、オレは、この輝きを知っている。
 その光は速度と大きさを増して、こちらに向かってくるようだった。びゅう、と風を切る音と共にその光は少しだけ向こうの砂浜の方へと軌道を描く。直後、鈍い音を立てて砂を巻き上げるように落ちたそれをキバナは慌てて確認しに行った。キバナが小走りにそちらへ向かうと、何も言わずともジュラルドンはしっかりとついてきてくれた。
 眠っていたポケモンたちが何匹か何事かとこちらを伺うように起き出してきたのが分かる。その赤い光にキバナは近付いて、しゃがみ込んでそれを近くで確認する。――やっぱり、そうだ。煌々と赤く光り輝くそれを、今と同じように、こんな風に近くで見たことがある。それはもう、ずっとずっと前のことだった。
(……思い出した。ねがいぼしがオレのもとに落ちてきた日のこと)
 あれは、チャンピオンになったばかりのダンデの試合を見た後だ。強くなりたいと思った。既に駆け出しながらトレーナーとして周囲の同世代から突出した実力をつけていたキバナであったけれど、そんなところで世界は終わりでは無いのだと、もっともっと広い海の存在を知った瞬間だった。
 この男の戦いを見て、もっともっと強くなれると、ポケモンに終わりは無いのだと知った。そして、どこまでも強くなりたいのだと願った。その瞬間に、空から赤い光が美しい軌道を夜空に描いて、キバナのもとへと落ちてきたのだった。少し前にもどこか遠くに落ちていくのを見たけれど、自分のもとに落ちてくるのはあまりにも久しぶりのことだった。
 手首に付けている、自分のダイマックスバンドを見る。あのとき落ちてきたねがいぼしで作ってもらったのが、キバナのこのダイマックスバンドだ。どうしてずっと忘れていたのだろう。かつての自分と、今が不思議と重なったように思えた。
 ――ずっと願いは同じなのだ、と、思い知る。キバナの姿を、あの時と同じように、ねがいぼしはその赤い光で照らしていた。



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