サニーデイステップ




 腹減ったからちょっと寄り道しよーぜ、と言われることがいつしか心待ちになっていた。
 高校から新ボーダー本部までの道の途中には幸いにして近界民の被害が少なかった昔ながらの商店街があって、学校が終わって自然に待ち合わせて競うように本部に向かう最中、そこに差し掛かったあたりで太刀川にたまにそう言われることがある。向かう場所は決まっていて、気の良い夫婦で切り盛りしている小さな肉屋。お目当ては太刀川の好物でもあるコロッケだ。太刀川は昔からよく家族で足を運んでいた店らしく、迅を初めて連れて行った時にも既に店主夫妻とも顔馴染みだった。
 初めて着た時はぱりぱりに固かった新しい制服が、ようやく体に馴染み始めたように思う。入学式の頃にはまだ残っていた桜の花はすっかり鮮やかな新緑に塗り替えられて、青々と茂った葉が風に吹かれてさらさらと揺れている。連休を過ぎてからまた随分と日差しが暖かくなったので、頬を撫でる風の涼しさが心地良く思えた。
「迅」
 例の商店街が近付いた頃、同じ制服を着た太刀川がくるりと迅の方を見る。それだけで、あ、くるな、と最近は未来視よりも早く分かるようになった。そんな自分を誇らしいように思うのが少しだけ恥ずかしい。予想は違うことなく太刀川がその言葉を口にしたので、迅はいつも通りのなんてことない声色を意識しながら、いいよ、と返す。満足げに小さく口角を上げた太刀川がふいと足の向ける先を変えて進んでいくのを、迅は早足で追いかけて太刀川の横に並んだ。太刀川は最近また少し背が伸びたせいで、迅よりも一歩の大きさが少しだけ大きい。
 買い物客で賑わう夕方の商店街を二人並んで歩いていくと、目的のお店が見えてくる。こちらがお店を見付けるのとほとんど同時に、レジに立っていたおばちゃんが丁度接客を終えたタイミングでこちらに気が付いた。にっこりと表情を綻ばせてひらひらとこちらに手を振ってくれる。いつ会っても朗らかで太陽みたいな人だ、と思う。
「おかえり。慶くんに、迅くん」
 名前を呼ばれて軽く会釈する。玉狛ともかつての実家とも方向が違うこの店には迅はこれまであまり来たことがなかったのだが、太刀川に連れられて何度も足を運ぶうち気付けば迅も顔馴染みになっていた。
「コロッケ二つ?」
 もはやこちらが口にしなくても覚えていてくれるいつもの注文に、太刀川が頷く。すると奥の調理場から店主である旦那さんが顔を出して「ちょうど揚げたてがあるよ」と言ってくれた。「やった」と目を輝かせた太刀川に、二人はニコニコと笑う。
 通りに面した透明なケースの中ではなく調理場から直接持ってきてくれたコロッケは揚げたてだから熱々だった。それぞれお代を支払って、「ありがとうございます」とお礼を言う。
「今日もこれからボーダー?」
「はい」
 太刀川が答えると、おばちゃんが目を細めた。お肉屋さんの壁には、少し前に完成したボーダーの隊員募集のポスターが貼られている。君も一緒に三門市を守ろう、という趣旨のメッセージが書かれたポスターは根付さんの提案だろう、まるでヒーローもののように爽やかなテイストでまとまっていた。
「がんばってね」という言葉にもう一度お礼を言ってから店を後にする。先ほどと同じように笑顔で振ってくれた手にこちらも返してから、再び本部に向けて歩き出した。
 口を開けて、できたての熱さに火傷しないように気を付けながら迅はコロッケを一口囓る。さくさくの衣の感触と甘みのあるほくほくのじゃがいも、そこに絡んだソースの味が口の中に広がって思わず表情が緩んだ。かかっているソースはサービスとしておばちゃんがかけてくれたものだ。夕方の小腹が空いた時間にこの味は染みる。
 何度食べても美味しいその味に、ちらりと太刀川を見ると太刀川も同じように表情を緩ませてこちらを横目で見ていた。言わずとも、思っていることは共有できているとそれだけで不思議なほど信じることができた。
「やっぱうまいなー」
 そう言う太刀川の顔がとても上機嫌で、あまりに幸せそうだったから。胸の中にわっとせり上がりそうになるものを感じて、慌てて迅は進行方向を見るふりでふいと太刀川から視線を外す。
「だね」
 今の返答は不自然じゃなかっただろうか、少しだけそれが心配になって、横目でそっと太刀川を見る。太刀川は気にした風もなく、コロッケの二口目を囓っていたので迅は内心で小さく息を吐いた。
 商店街を進んでいくにつれ、視界の遠くにあった白く大きな建物が段々と存在感をもってくる。今となっては三門市民で知らない人はいない、ボーダー本部基地――迅にとっては「新」ボーダー本部基地の建物だ。
 ――近界民による三門市の大規模な侵攻、そしてその後新たな基地を作ってボーダーがその活動を公にかつ規模を拡大するようになってからもしばらく経って、この風景も少しずつ三門市の新たな日常の中に組み込まれはじめていた。
 そしてこの、迅にとっても新たな日常の中にあっという間に入り込んできたのがこの隣の男、太刀川だった。
 最初は、ただの新入隊員の一人だった。最初に見た時から、未来視でうっすらと面白くなりそうな未来の輪郭は感じ取っていたけれど、それは迅の予知とそこから感じた予想を大きく上回るものだった。驚くほどの早さでトリガーでの戦い方を掴んで、ランク戦システムが本格的に始まると更にその成長は加速した。最初に模擬戦で迅と戦ったときには流石に経験や手数の差から迅がストレートで勝っていたが、すぐに実力は拮抗するようになり、そして追い越された。その頃になるともう、太刀川と戦うときには迅はいつもの飄々とした仮面なんて繕えなくなっていた。
 楽しい。
 心の底から、湧き上がるように思った。自分の内側にこんなにも燃え上がるような感情がまだ眠っていたなんてひどく驚いた。それでも、心から楽しくて仕方がなかったのだ。太刀川とランク戦で戦うことが。
 迷いのない弧月を繰る手が、曇りなく今この瞬間が楽しいと伝えてくる表情が、そのくせ状況を冷静に見て最善の判断を下すその瞳が、全てがまっすぐに迅に向けられる。一瞬でも気持ちを緩めなんてすれば落とされるだろうびりびりとした緊張感と、それこそを楽しいと思う衝動と、この瞬間だけは太刀川に全ての感覚を向け、太刀川からも全てを向けられる、そのことへの言葉ではうまく分類しきれないような喜びの類と。
 トリオン体での戦闘訓練、仮想の命を賭けた斬り合いで、こんな風に思うのはどうなんだと自分でも少し笑えてしまう。しかし太刀川と刃を合わせる日々の中で、理屈なんて全部蹴散らしてしまうほど強く強く思った。
 あ、おれ、今生きてるな、って。指先まで体の全部に染みわたるようにそう思った。生きていて、そしてそれがどうしようもなく楽しいと――埃を被っていたことすら気付いていなかった感情が、久しぶりに掘り起こされたように思って驚いた。忘れていたこともいつしか忘れていた。
 そんな自分を哀れむみたいなつもりはない。しかしおれはまだそんなふうに思えるんだと、どこか俯瞰で、不思議なほどの冷静さで思ったのだ。
 歩きながら、迅はコロッケをもう一口食べる。さくさくとほくほくのそれぞれ違う感触が口の中で混ざり合う。隣をのんびりとした様子で、しかし大股ですいすいと歩いて行く太刀川を横目で見て、迅の歩幅も自然と大きくなる。元々歩幅が狭い方ではなかったが、太刀川とこうして行動を共にする時間が増えて、迅の歩幅も少し大きくなった。
 太刀川と戦うことが、迅の世界で一等楽しいことになった。楽しくて、その分負けると心底から悔しかった。弧月の扱いはもう迅よりも太刀川の方が優れていることは迅自身が誰より理解していたけれど、それでじゃあもう仕方ないなんて諦める気持ちになんて到底なれなくて、自分の戦闘スタイルにより合った新しい武器スコーピオンを開発した。初めてスコーピオンを持って対峙した時の、太刀川の表情は忘れられない。驚いた表情をした後、今まで見たことがないくらい物騒な嬉しそうな表情で笑ったのだ。
 それ以降、それまで以上に迅と太刀川はランク戦ブースに入り浸るようになった。入り浸りすぎて、時々遅くなって忍田や鬼怒田に怒られることもあるくらいだ。反省はしているが、しかしどこかでそれすらも楽しいように思えてしまうのが困りものだった。
 相手と戦うことが楽しい。そうお互いに思っているだろうことは、言葉にしなくたってお互いに了解し合っていた。ランク戦のステージで相対すれば、言葉よりずっと雄弁にそれが伝わってくる。共有する時間の割合が増えれば、自然な流れのようにランク戦以外でも一緒に行動する機会も増えた。食堂で一緒にご飯を食べたり、夜の警戒区域の中でだらだらと駄弁りながら帰路についたり、宿題が終わらないのだと言って嫌々ラウンジで一緒に教科書やプリントを広げたり。
 そしてそれは、この春迅が太刀川と同じ高校に入学してからより顕著になった。学年は違えど、学校が同じであれば一日のスケジュールも大体似たようなものになる。昼休みになれば何となく屋上に集まって二人で昼食をとり、放課後になればどうせ向かう先もやることも同じなのだからと一緒に本部まで行くようになった。
 迅の日々の中で、太刀川が占める割合がどんどんと増えていく。じわりと染みこんでいくように広がっていくそれを、しかし止めようなんて思えなかった。そうして少ししたある日、いつものように本部に向かう途中で太刀川が言い出したのだ。「腹減ったからちょっと寄り道しよーぜ」と。迅も言われてみれば腹は減っていたので、断る理由もなく頷いた。そんな迅ににまりと笑った太刀川が、コロッケが美味しい肉屋があるんだよと言って連れてきてくれたのが先程の店だった。以来、数日に一度くらいの頻度でそういう日があって、そのたび迅は「うん」と頷いてこうして一緒に寄り道をする。
(最初は、それだけだったのに)
 いつしか、太刀川にそう言われることが心待ちになっている自分がいることに気が付いた。気が付いてしまった、と言った方が心情的には近いかもしれない。太刀川と自分を繋げるものはなによりもランク戦だと疑ってこなかった。いや、今だってそう思っている。自分たちの間に一番にあるのはランク戦だ。互いと刃を重ねて競い合うことが楽しくて仕方がないことは今だって変わるどころか増幅するばかりで、時間が許すなら一戦でも多くとランク戦ブースに入り浸る日々だ。
 だというのに。
 早く太刀川と戦いたいと逸る思いも確かに心の内にあるのに、今のこの時間がもう少し続けばいいなんて思う自分もいる。矛盾するように思えるそれは、同時に迅の中に居座っている。
 太刀川が、昔からの行きつけのお店を迅に教えてくれたこと。寄り道をしようと言うときの普段と変わらないようで、しかし少しだけいたずらっぽい表情。好物であるコロッケを食べるときの幸せそうな横顔。ランク戦「だけ」をしていた頃には、知ることのできなかったこと。
 それを手にしてしまったら今度は、もっと知りたい、もっと見たい、と思うようになった。「ランク戦をしていて一等楽しい相手」だったはずなのに、それだけでおさまりきらない何かが迅の中に生まれつつあった。
 最近では、先ほどのようにふとした太刀川の表情に心臓が急に揺らされるような瞬間さえあって困りものだった。だというのにやっぱり、もっとと自分の内側にいる強欲な自分がその手を離そうとしたがらない。
 そろそろ名前を見つけてしまいそうなこの感情に、まだ名前をつけたくはなかった。自分でも意地っ張りだと呆れてしまうけれど、自覚してしまえばもっと強く膨れあがってしまうような気がして、もう少し先延ばしにしていたかった。
「ん、うまかった」
 太刀川がそう言って、コロッケを挟んでいた紙を丸めた。太刀川がもう食べ終わったのを見て、迅も慌てて残りのコロッケを少し大きめに開いた口の中に放り込んだ。まだ温かいもののもう火傷しそうになるほどの熱さではないコロッケを咀嚼して、先ほどまでの思考と一緒にごくりと飲み込む。じゃがいもの味とソースの味が喉の奥に残って、ゆっくりと霧散するようにとけていった。
 迅も手の中の紙を適当に丸める。くしゃりという音と紙が潰れる手の中の感触が、迅の意識をちゃんと現実に引き戻してくれたような気がした。
 いつの間にか商店街の端まで歩いていた。ここを抜けてもう少し歩けば本部はもうすぐそこだ。ランク戦が楽しみなくせに、少しだけ名残惜しいような気持ちも生まれてしまう。賑わう商店街、雑踏の中で、すぐ近くにあるその手を引いてみたくなった。
 もう少しだけ遊ぼう、なんて言ったら、この人はどんな顔をするだろうか。それを見てみたくなって、しかしそれを実行に移す勇気は今の自分にはまだなかった。
「今日は俺が勝つからな」
 丸めた紙を制服のポケットに入れた太刀川が、迅を見て言う。昨日のランク戦では迅が勝ち越していた。一昨日もギリギリとはいえ最終的には迅の勝ち星の方が多かった。弧月を使っていた頃とは変わって、今はほとんど互角の勝負となっている。
「いやあ、今日も太刀川さんに奢ってもらえると思うと楽しみだな、おれは」
 そう言うと太刀川がわかりやすくむっと唇を尖らせた。自分たちの間でいつしか恒例になったのが、ランク戦で負けた方が食堂で夕飯を奢るというゲームである。
「なんだよ、そんなの覆してやるからな」
「楽しみにしてるよー太刀川さん」
 わざとらしく煽るように言ったところで、商店街の終わりが来る。「あー、話してたら早く戦いたくなってきた」と言いながら先に片足を踏み出したのは太刀川だ。アーケードを抜けると急に日陰から日向になって、遮るものがなくなった太陽の光がこちらにまっすぐに降り注ぐ。それがさらに下からも照り返されて眩しくて、思わず迅は目を細めた。
「行こうぜ、迅」
 一瞬細めた目を、ゆっくりと開いていく。太刀川がこちらを見ている。一見すると黒に見える濃い緑色の髪の毛が太陽に照らされる。
 振り返って迅を見つめる太刀川がいやにきらきらとして見えたのは。それに心臓がまた揺れる音がしたのはきっと、この季節にしてはいやに眩しい陽差しのせいだった。





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