アフター・ザット
向かってきた刃を弧月で弾き返す。ギィンと耳を劈くような音がした後、しかし迅は弾かれるのは織り込み済みだったようで怯むこともなく反対の手に握ったスコーピオンをもう一閃太刀川目がけて振り下ろした。それももう一本の弧月で受けて、今度はこちらが攻勢に回ると迅は強度で劣るスコーピオンでもうまく力をいなして全てを弾き返してくる。それならばとより強く刃を振るうと、流石に耐えきれなかったらしいスコーピオンが鋭い音を立てて二つに割れた。
迅がわずかに表情を歪めたが、それ以上の動揺をみせることはなく一度太刀川から距離を取る――と見せかけて、足から生やしたスコーピオンで太刀川の膝から下を蹴り上げてきた。寸前に気が付いてこちらから距離を取ったが、数ミリ程度受けた傷口からトリオンがわずかに零れて仮想空間の空を汚した。
それを見て、迅が僅かに口角を上げる。性質の悪い表情。
太刀川の好きな表情だった。
おまえ、そういうとこ変わってないのな。そう思うと、太刀川の心の深いところから何かこみ上げてくるものがあった。
迅が次々出現させるエスクードで遮られた視界を弧月で斬っていく。最後の一つを斬り倒したところで屈んでいた迅が現れて刃を向けてきたのを、咄嗟に反応して弧月でいなす。すぐにこちらからも斬りかかると、迅も器用にスコーピオンでそれを受けた。刃が重なり合って、至近距離で絡んだ視線、迅がわずかに目を眇める。ランク戦の最中、迅が未来を見定める時の癖だ。
そしてそれこそが迅の数少ない隙が生まれる瞬間であることを太刀川は知っている。
スコーピオンと力比べをしていた弧月を退いて、迅に向けて再び振り下ろす。迅はすぐにスコーピオンを構え直したが、この距離だ、ほんの零コンマ数秒の遅れが結果を分ける。完璧ではなかった構えは弧月を受けるには脆く、スコーピオンを貫いて迅の手首を落とした。今度は先ほどの迅のように、自然、太刀川が口角を上げていた。
「……ほんと、性質悪い顔するよね」
一度距離を取った迅がそんなことを言うので、「どっちが」と返す。しかし迅は理解できないといったような表情をしたから、あれはどうも無意識らしい。それはそれで余計に性質悪いだろおまえと思ったけれど、言うのはやめてやることにした。
どっちにしろ、その表情を自分は好きであることに変わりない。
手首からトリオンを零す迅は、残ったもう片方の手に持ったスコーピオンを握り直す。迅の目が、射抜くようにまっすぐに太刀川を見る。
鋭くて、負けず嫌いを滲ませた、愚直なまでにまっすぐな青い目。
火傷しそうだと思うほど高い温度に見据えられて、思考するよりも早く全身がびり、と痺れるような心地になった。トリオン体だから実際はそんなことはないはずなのだけれど。
心の内が自分でも驚くほどひどく充足していくのを感じる。欠けていたこと自体忘れていたピースがようやく埋まったような心地がする。
先日の黒トリガー奪取の命で刃を合わせた時にも感じはしたが、任務ではなく単純に互いと競い合うためだけの時間はやはりそれとはまた違う、より純度の高い喜びを抱かせた。
こんな気持ちになるのは、三年ちょっとぶり――そう、迅だけが太刀川に、こんな感情を教えてくる。
ブースが閉まるギリギリまでランク戦をしていたせいで、駆け込んだ食堂も閉店ギリギリの時間になってしまった。人もまばらで店じまいムードが漂い始めている店内に入って、カウンターにいた顔馴染みのおばちゃんに「まだ大丈夫?」と聞くとニコニコ笑いながら「大丈夫だよ。もうすぐ閉店だから、いくつか売り切れのやつもあるけど」と返ってきた。閉店間際の滑り込みは少し申し訳なさもあるが、お言葉に甘えて入らせてもらうことにしよう。なんたってランク戦に夢中になりすぎてすっかりお腹が空いているのだ。
「あーくっそ、あそこで欲張らず一回退いとけばな」
隣の迅はがしがしと頭を掻きながらぶつぶつと呟いている。悔しそうなその表情に反比例するように、太刀川は上機嫌になって笑った。
「なっはっは、結果は結果だからな」
「分かってるよ。まあスコーピオンでの戦い方の勘は取り戻してきたから次はいける」
先日A級に復帰し、「個人でアタッカー一位目指すからよろしく」と太刀川に宣戦布告してきた迅のランク戦復帰初戦が今日だった。太刀川が「ランク戦やる時は絶対言えよ、行くから」と繰り返し念を押し続けた甲斐もあってか、事前に連絡を寄越してきた迅と時間を合わせてランク戦をした。結果は七対三で太刀川の勝利だったが、どれも相当拮抗した勝負の末の辛勝だ。迅はああは言うものの、三年ちょっとぶりだというはずなのにスコーピオンの扱い方にブランクはほとんど感じさせなかった。流石は迅だな、と先ほどまでの戦いを思い返せば、ふつふつと太刀川の心の中に高揚が湧き上がる。
食券の券売機の前まで行くと、先ほどのおばちゃんの言葉通りいくつかのボタンには赤い売り切れのランプが点いていた。目当てのメニューを探すとそこにも売り切れのランプが点いていて、「お」と太刀川は思わず声に出してしまう。
「A級セット売り切れか~」
言うと、迅は「え、マジで?」と言って隣から券売機のボタンを覗き込む。
「すごい、あれ売り切れとかあるんだ」
迅がさりげなく若干失礼なようなことを言ったけれど、太刀川も少し驚いているのでその発言は軽く流してやることにした。
A級セットというのは、ちからうどんとコロッケという太刀川の好物全部乗せのセットだ。当初は元々あった日替わりうどんの中のひとつだったちからうどんに太刀川が小鉢の付け合わせとしてコロッケを付け足していたのだが、太刀川が「ちからうどんを日替わりじゃなく毎日出して欲しい」とリクエストをして、その後なんやかんやで最終的に太刀川のいつものセットだったちからうどんとコロッケというセットとしてメニュー化されたのだった。当時はまだボーダー隊員自体今ほど数も多くなかったから、割とそういうリクエストも通りやすかったところもある。ちなみに、まだ風刃を持つ前だった当時高校生の迅こそが「そんなに通常メニューにしてほしいなら直談判してみなよ、おれのサイドエフェクト的に可能性としては五分五分」なんてけしかけた張本人だったのだが、実際にメニューになった時はけらけらと誰よりおかしそうに笑っていた。
「ああでも、そういや結構人気らしいぞ。うまいのもあるけど、強くなりたい願掛けとかなんとか……C級やB級上がりたてのやつらの間で流行ってるらしい」
「へー。まあ、A級一位さまだもんねえ」
頷きながら迅が券売機とにらめっこをしつつ、ズボンの尻ポケットから財布を取り出して千円札を投入する。太刀川もざっと残っているメニューを確認して、じゃあこれにするかとA級定食のボタンを押した。「あ、おれもそれにする」と言って迅も続いてボタンを押す。じゃらじゃらと出てきた小銭のお釣りはまた迅が開いた財布に仕舞った。
ランク戦をした日は負けた方が夕飯を奢る、というのは、昔からの自分たちの遊びのひとつだ。トレーを持ってレジに並んで、迅が二人分の食券をおばちゃんに渡す。
「はーい、A級定食二人分ね。ちょっと待ってて」
「お願いしまーす」
食券を持ったおばちゃんが奥に引っ込んで、てきぱきと丼にご飯を盛り付けていくさまを見ながら太刀川はにやりと笑って隣の迅に言う。
「いやー懐かしい。やっぱおまえに奢られるのは気分がいいな」
「嫌な言い方! 今度めちゃくちゃ奢らせてやる」
迅がわざとらしく太刀川を軽く睨みつけたところで、おばちゃんが「はい、まずは海鮮丼」とカウンター越しに二人分の丼を渡してくれた。ありがとうございます、とお礼を言ってそれをトレイに乗せていく。
ボーダーの食堂は格安だ。それに太刀川も迅もA級隊員で固定給に加え出来高の報酬も貰っている身なので、食堂でいくら奢ろうが財布的には正直なところ痛くも痒くもない。しかしそれでもこんな遊びに興じていちいち悔しがったり嬉しがったりするのは、お互いがお互いに対してだけは他の何よりも負けず嫌いだからだった。
昼食時にはわいわいと賑わっている食堂は今はがらんとしている。ちらほらと遠くの席に何人か座っているのが見えるほかは静かなものだ。セルフサービスの水を汲んでから、手近なテーブルにトレーを置いて向かい合わせに座った。いざ食べるという段になると、つやつやと輝く海鮮丼と麻婆豆腐のスパイシーな香りがより空腹を刺激する――迅はさっきA級セットに対してあんな風に言ったけれど、A級定食のこの組み合わせも冷静に考えればなかなか個性的なものだと思う。まあ、太刀川としては特に食べ合わせを気にする質でもないのでなんだって良いのだが。
いただきます、と手を合わせて迅はスプーン、太刀川は箸を持った。麻婆豆腐から食べていく迅に対して、太刀川はわさびを溶かした醤油を回しかけて海鮮丼から食べることにする。
白米の上に乗ったマグロの切り身を口に運んで咀嚼する。口の中に広がる弾力のあるマグロと醤油の香りに、うん、美味い、と思ってすぐに二口目三口目と箸が進んだ。普段は進んでは選ばないメニューだから最近あまり食べていなかったけれど、海鮮丼も久々に食べると美味いなと思う。たまにはA級セットだけでなくA級定食でもいいかもな、と思いつつ、まあA級セットがあればやはりそっちを選んでしまうだろうなとも思うのだった。
海鮮丼を半分くらい食べた後に、冷めないうちにと今度は麻婆豆腐にも手をつける。正面の迅を見れば、今度は太刀川とは逆に海鮮丼を口に運んでいるところだった。ぱくぱくと勢いよく食べている迅に、こいつも腹減ってたんだろうなと思う。そりゃこの時間までランク戦してれば腹も減るよな、と思って、そんな相似に何となく少し楽しいような気持ちになった。そんな迅を見ながら麻婆豆腐を口に運ぶ。海鮮丼とは打って変わったぴりりとした辛さを口の中で感じながら、こんな風に迅と過ごすのは久しぶりだな、と不意に思った。
ランク戦で刃を合わせることだけじゃない。こんな風に向かい合ってご飯を食べたり、軽口を叩き合ったり。そういうことも、迅がランク戦を離れている間はあまりなかったのだ。そのことに今更気付かされて、そうか、と心の中で呟く。
迅がランク戦を離れてから、ランク戦だけじゃなくそれ以外の迅と共有していた時間も手のひらから零れ落ちたみたいに急に消えてしまった。別にそこまでする必要はなかっただろうと太刀川は思うのだけれど、それが迅なりの覚悟の形なのだろうということは理解ができた。最初こそはっきりと自覚できるくらいに寂しさのようなものは感じていたけれど、その後自分も隊を組んだりA級隊の隊長として会議やら書類やらを頼まれたり近界遠征が始まったりで、太刀川も太刀川なりに変化した日々の中で次第にそのぽっかりと空いた寂しさは薄れて忘れていった。忘れても平気でいられるようになった。
そのはずだったのに。
太刀川の目の前の定食が残り三分の一くらいになったところで再び迅を見れば、迅の定食は太刀川よりも残りは少なくなっていた。太刀川だって食べるのが特段遅い方ではないが、こいつ意外と早食いなんだったな、ということを思い出す。食べるときだってあぐりと大口を開けて食べる。そんなところも昔――互いに高校生だった頃と変わっていない。
出会った頃の迅はまだ中学生で、第一印象はすかしたやつ、だった。
飄々とつかみどころのないように振る舞って、いつだって大人ぶって余裕ぶって立ち回る。そんな印象が変わったのは、迅と刃を合わせた時だった。
涼しげな色をしていたその青い目の奥に、鋭い炎を宿しているのをみた。最初は気配程度にしか見付けられなかったそれが、太刀川が強くなっていくにつれて段々と大きくなっていくのに、これまでの人生で感じたことのない類の高揚を覚えた。もっと見たい、もっとむき出しにさせてやりたい、という気持ちに駆り立てられるまま夢中で迅と戦った。そうして太刀川が弧月で迅に勝ち越せるようになってしばらくした頃、迅が新しい武器、スコーピオンをつくって太刀川の前に立ってきた。「太刀川さんに勝つためにつくったんだ」と、ぎらついた青い目がまっすぐに太刀川を射抜いたときに思ったのだ。
人生で一番楽しいものを知ってしまったと。
迅とのランク戦が他の何をするよりも楽しかった。ランク戦をする頻度が増えれば自然、共有する時間も増えて、そのすぐ後に迅が太刀川と同じ高校に進学してからはより顕著になった。
迅とランク戦をするのが楽しい。だけどそれ以外でも、迅と過ごす時間自体が楽しいと感じていた。遅くまでランク戦をやっていたら鬼怒田に高校生は早く帰れとどやされた帰り道。他の隊員のランク戦の記録(ログ)を見ながらああだこうだとラウンジで分析をしていた休日。高校の屋上でなんとなく駄弁りながらパンをかじっていた昼休み。ホームルームが終わるなり落ち合って高校から本部に競うように向かった放課後。そして、今みたいに負けた方が奢りだと言ってランク戦終わりに空腹と共に足を運んだ食堂。
ランク戦だけじゃなく、迅とともに在ったすべてが太刀川にとって楽しいものだったのだ。それは三年ちょっと経っても、褪せるどころか鮮やかに思い出される。ほかに代わりになるものなんてない類のものだった。
なぜって、今にして思えば答えは簡単だ。
(こいつとだから楽しい)
迅がS級になった直後は、忘れたふりをしていた。そうしないともう一度とわがままに手を伸ばしてしまいたくなりそうだったからだ。月日が経って、忘れたふりをしていたことすら忘れていたはずだった。
だというのに、一度それが再び手の中に戻ってしまえばどうだ。忘れていられたことを不思議に思うほど、すっぽりと太刀川の中におさまってまるで最初からそこが居場所だったかのように居座っている。
この場所は何年経とうがなお、この男でしか埋められないのだということを知る。
――そんな感情に相対して太刀川の中に浮かぶのは、不思議なほどの納得感だった。
一度戻ってしまえば思い出すのは一瞬だ。指先まで、実感を伴って、太刀川の中に染みわたるように巡っていく。
どうしても迅じゃないと満たされないものがあった。ランク戦でも、それ以外でも。迅と遊ぶのが、一緒に居るのが楽しくて、知らない一面を知るのが楽しくて、もっともっとと欲しくなった。子どものわがままのようなそれが、太刀川の内側で目を覚ましてあの頃のように強請(ねだ)ってくる。
不意に、中学生の頃だったか、母親が見ていた恋愛ドラマの台詞が脳裏に過ぎる。
――おまえじゃないとダメなんだ、と言っていた主人公の心情が当時の太刀川にはよく分からなかった。まあそういうもんなのか、となんとなく流してそのまま忘れ去っていたけれど。
タイトルも内容もすっかり忘れたドラマの主人公の心情とこれが同じ類のものかなんていうのは果たして分からないけれど、しかし、今になって急にその言葉の意味が少しだけ分かるような気がしたのだ。
(あー、なるほど? ……なるほどなあ)
目の前の迅を見ながら、太刀川は心の中で呟く。自分の中に落ちてきた言葉を、なるほど、と咀嚼していく。口の中の麻婆豆腐と一緒に。よく噛んで、飲み込んで、思う。突飛なように思えたけれど、その言葉にするりと納得してしまったから、きっとそういうことなんだろう。
一緒にいると楽しくて、わくわくして、もっと知りたいと、もっと欲しいという気持ちの尽きない相手。
人生で一番楽しいものを太刀川に教え込んできた相手。
こいつじゃなきゃダメだと、三年ちょっとが経っても思える相手。
「迅」
そう思えば、早くそれを伝えてみたい気持ちになった。そんな思いに動かされて名前を呼んでから、少ないながらもここにはまだ他に人がいることを思い出す。
「なに?」
こちらを見た迅に、「あー、……後で言うわ」と返す。自分としては構わないといえば構わないのだが、こいつがそういうのは嫌がるだろうと思ったからだ。なんせ若い人間の多いボーダー、それがそう言う類の話であれば尚更噂話というのは広まりやすい。
「えぇ、なにそれ。太刀川さんが言い淀むとからしくなさすぎて何言われるかちょっとこわいんだけど」
「いーだろ、つーか何気に失礼だなおまえ」
言うと、「おっといけない」なんてわざとらしく肩を竦めて迅は残りの麻婆豆腐を口に運ぶ。迅も太刀川も、目の前の定食は残りわずかだ。
先ほど言いかけた話は、帰り道で言おうと考える。言ったらこいつはどんな顔をするだろうか。そう思うと楽しみでそわそわと気持ちが疼いた。
いつからか、迅の知らない顔を知るのが楽しみになっていたあの頃のことを思い出す。――高校生の頃、本部に向かう途中で迅を買い食いに誘った時もそうだった。懐かしさに太刀川は小さく口角を緩めた。
(今にして思えば、多分あの頃からだったんだろうな)
そんなことを考えていたら、やっぱりコロッケが食べたくなってきてしまった。うん、明日こそは食べよう、なんてことを思いながら、太刀川は海鮮丼の残り一口をぱくりと飲み込んだ。