恋を紡ぐ




 ぱちり、と目を開けると、最初に目に入ったのは抜けるような綺麗な青色――太刀川の好きな色。その青がちいさく揺れるのと、あ、そうか、と太刀川が昨夜の出来事を思い出すのはほとんど同時だった。
 そうだった、昨日、迅と。
 太刀川を見つめていた迅が、揺れた瞳を誤魔化すみたいに瞬きをする。迅の睫毛がぱちぱちと上下するのを寝起きのまだ少しぼんやりとした状態のまま見た。そんな細かいところまで、この至近距離では全部事細かに見つけることができる。軽く体を動かすとすぐ後ろの壁に当たった。流石にシングルベッドで男二人で寝るのは狭いな、と思考の隅で思う。嫌というわけではない。すぐそばに感じる迅の体温。そして二人分の温度であたためられたベッドの中は適温で心地が良かった。
「はよ、迅」
 そう言ったときに、口の中が思いの外乾燥していることに気付く。冬だな、と思った。静かな冬の朝の空気は、確かにからりと乾いている。
「……おはよ、太刀川さん」
 まるで何かを噛みしめるみたいに、わずかな間の後にそう言った迅の声も普段よりも低くて少しだけ乾いているようだった。迅の前髪が、一束ぱさりと落ちる。いつもは上げている前髪が今は下ろされていて、普段よりずっと幼いような印象を受けた。
 そういえば、迅の寝起きを見るのは初めてだなと気付く。またひとつ、知らない表情を知った。――昨夜はもっと、色々見たけれど。そんなことを、迅にばれないように心の中で付け足す。

 ちょうど残り二切れだった六枚切りの食パンをトースターにセットする。トーストが焼き上がるのを待つ間に、棚から自分用と来客用のマグカップを一つずつ取り出した。インスタントコーヒーの粉末の瓶を開けて、スプーンで掬ってそれぞれ一人分。電気ケトルでお湯を注げば、白い湯気と共にふわりとコーヒーの香りがキッチンに漂った。電気ケトルは一人暮らしをするときに母親が持たせてくれたものだ。必要な時に必要なだけぱっとお湯を沸かせるのがなるほど楽だし便利である。
「何か手伝うことある?」と迅がさりげないように、でもほんのわずかだけ気遣いを滲ませて声をかけてきたけれど、コーヒーにトーストだけの簡単な朝食だ。特に手伝いが必要となる行程もないし、恐らく迅が気にしているらしい体の方も心配には及ばない。だからあっさりと「いや、大丈夫だぞ」と返して、来客用の方のマグカップを迅に渡した。迅は高校生の頃から基本的にブラックを飲んでいるのを知っているから、他には何も入れない。太刀川と迅の間で、空気を白く染めては溶けていく湯気がじわりと揺れる。迅はほんの一秒にも満たないくらいのわずかな時間、太刀川を見つめてから「……そっか。ありがと」と受け取ってマグカップに口をつけた。
 太刀川も自分用のマグカップを傾けてコーヒーを飲みながら、迅を見る。迅の男っぽく突き出た喉仏が、コーヒーを飲み込んで上下するのをなんとなくじっと眺めていた。今まで意識したことはなかったのだけれど、よく見ればしっかり整った体をしてるんだよな、こいつって。なんてことをぼんやりと考える。そんなことを思うのは、昨夜、薄明かりの中で互いの体のかたちを見て、触れて、確かめ合うみたいに知ったからだった。
 視線に気付いた迅が、太刀川を見る。視線同士がぱちんと絡んだ。
「ん?」
 そう言った声はまだ眠いのか、油断した、甘ったるい響きをしていた。そこまで考えて、いや、もしくは昨日の今日だからかもしれないとも思う。まあそれは、別にどっちだって構わなかった。
「いや?」
 それだけ返して、太刀川はもう一口コーヒーを口にする。体の表面をしんと冷やしてくるような冬の朝の空気の中、熱くてほろ苦いブラックコーヒーを口から喉の奥へと流し込むと、体がすっと目覚めていくような心地になる。
 昨日、迅とセックスをした。
 ――俺さ、おまえのこと好きみたいなんだよな。迅のランク戦復帰初戦の後、本部からの帰り道でのそんな思いつきのような太刀川の告白に対して普段のポーカーフェイスはどこへやらで散々動揺した様子を見せた迅が、……おれもどうも好きみたいなんだよね、たぶん、なんて意趣返しのような返事をしてきた日から一ヶ月ちょっと。その間に近界からの侵攻があったり、それに伴ってやることが色々あるのだと言って迅も忙しなく毎日あちこち飛び回っていたから、付き合い始めたからといって一緒に過ごす時間はあまりとれない日々が続いていた。別にそれに対して寂しいとか言うような質でもない。
 しかし、迅から『明日の夜、時間ありそうなんだけど会えない?』と連絡が入ったときはやはり気持ちは高揚した。二つ返事でOKして、『なら家来いよ』と誘ったのは太刀川からだった。そういえば、一人暮らしを始めたのは大学生になってからなので、迅をこの家に招いたことはないということにその直後思い至って合わせて住所も迅に送った。
 夜だとランク戦ブースも閉まっているからそれなら家の方が気楽だしいいだろというのが半分。もう半分は、分かりやすく下心だった。お互いに子どもでもなし、迅だって分かっているだろう。『わかった』というシンプルな返事に、迅が実際どう思っているかは、会ったときに確かめればいいと思った。
 チン、とトースターから焼き上がりを知らせる軽い音がして太刀川は振り返る。手に持っていたマグカップをキッチンの台の上に一旦置いて、きれいに焼き目がついた二枚のトーストを取り出して皿の上にそれぞれ乗せた。
「おれ持ってくよ」
 別に何もしなくていいと言ったのに、気付いた迅がひょいと皿を手に持って居室へと運んでいく。真面目か、とつい笑いそうになってしまう。
(まあ確かに、普段使わないような筋肉使ったせいで腰がだるくないわけじゃないが)
 でも、その程度だ。そもそも昨夜だって迅にそこまでの無理を強いられたわけでもない。むしろこちらがじれったさを感じるほど丁寧にされたので、普通に生活する分には何ら問題はない。
 普段はへらへらと食えなくて生意気、むしろ不遜ささえあるやつが――時にはあえて、意識的にそういう立ち回り方をしている部分もあるだろうが――さりげなさを装ってこんな風に甲斐甲斐しくしてくるのがなんだかちょっと面白い。面白いから、逆に指摘せずに好きにやらせることにした。
 トーストは迅が持っていってくれたので、太刀川は冷蔵庫に向かう。物の少ない冷蔵庫の中から、使いさしのマーガリンの容器を取り出す。
「マーガリンでいいか?」
 ひょいと迅の方を振り返って聞いてみる。まあ、言ってもうちにトーストにつけるようなものはマーガリンくらいしかないんだけどな、と思っていると「うん」と返事が返ってきたので、片手にバターナイフは入れっぱなしのマーガリンの容器、もう片手に自分のマグカップを手に持って迅がいる居室の方に戻った。
 ローテーブルの真ん中にマーガリンの容器を置いて、迅の隣に座る。
「なんかマーガリンなのが意外。……あ、太刀川さん先使っていいよ。家主なんだし」
 その言葉に「おお、さんきゅー」と返した後に、迅の言い草に疑問を返す。
「つーかなんだよ、別にそんな珍しいことないだろ? マーガリンって」
 言いながら、お言葉に甘えて先にマーガリンを使わせてもらうことにする。容器の蓋を開けてマーガリンをたっぷりバターナイフで掬って、焼きたてほやほやのトーストに塗りつけると触れたそばからじゅわりと柔らかく溶けていった。そのさまに思い起こされるように空腹を感じながら、ざりざり、と音を立てながら全体にマーガリンを馴染ませていく。
「太刀川さんってマーガリンってよりバターって感じじゃない?」
「あー」
 なんだそれ、と思いつつ、そういえば高校生の頃にも朝食は何派かみたいな話をした時にクラスのやつにそう言われた気がする、というのを思い出す。納得できるようなできないような、な気持ちになりつつ、まあなんだっていいかと思い使い終わったマーガリンとバターナイフを迅に渡した。受け取った迅は、太刀川と負けず劣らずの量をバターナイフで掬っていく。やっぱりこういうところが遠慮のないやつで、しかし太刀川はそういう迅が嫌いではなかった。
 迅がトーストにマーガリンを塗っていく音を聞きながら、太刀川は熱いうちにとトーストの一口目を食べる。さく、という表面のよく焼けた音の後に、中のもっちりした感触がついてくる。ふわりと優しいマーガリンの香りが口の中に広がった。うん、うまい。今日も変わらぬ安定の味。
「うちが昔からマーガリン派だったんだよ」
 一口目を飲み込んだ後に先ほどの迅の言葉に対してそう補足すると、迅は「ああ、なるほど」と返す。迅も使い終わったマーガリンの容器に適当に蓋をした後、トーストの一口目をがぶりとかじった。
「そういう迅はどうなんだよ。普段、トースト何つける?」
 ふと思って聞いてみると、迅は口の中のトーストをもぐもぐと咀嚼しながら「んー」と間延びした返事をした。ごくん、と迅の喉仏が上下した後、迅が再び口を開く。
「そんなにこだわりがあるわけじゃないけど、おれは普段はジャムが多いかなー。それこそおれも、昔からそうだったから。母さんが好きだったんだよね、いちごジャムのトースト。それで自然とおれも好きになった」
 玉狛だと陽太郎や小南も好きだから支部に常備してあるし、と迅は補足して、もう一口トーストをかじる。
「なるほど。そういやジャムのトーストってあんま食べたことないな」
 昔、給食でパンと一緒にジャムが出たことはあるけれど、あれは冷めた丸パンだった。ほかほか焼きたてのトーストにジャムというのはそういえばやったことがない気がする、と太刀川は思う。
 そして同時に、迅のことで知らないことってまだまだこんなに沢山あったんだな、ということに気付かされる。
 迅と出会って、ランク戦が始まって、時間も忘れて戦う遊ぶようになって、自分の中で迅を特別の位置に置くようになって。どこか、一番近い場所に居たような気がしていたのに、こんな何気ないことですらまだまだ初めて知ることばかりだ。
 昨夜だってそうだった。
 昨夜。家に来た迅とたわいない話をしていたら、自然な仕草で指先が触れた。それを合図みたいに唇を触れ合わせて、それが次第に深くなって、その先。先ほどまで押しつけるみたいに舌を絡ませてきていた迅が、至近距離で射抜くみたいに意志の強い瞳で、だというのにらしくもなく小さく揺れる声で「あのさ。……おれ、太刀川さんのこと、抱きたいんだよね」と言ってきた。
 その時は流石におお、と思ったけれど、色々考えるよりも先に口からするりと出てきた「いいぞ」という言葉が自分の内側に返ってきて、じわりと染みとおっていくように思った。いいぞ。うん、そうだな。それは抱きたいとか抱かれたいとかそういう話というよりも、多分自分はそこはどっちだってよくて、それよりも迅がしたいようにするのを見たいという興味の方がずっと強かった。
 迅がしたいようにする時というのは面白くて、刺激的で、楽しいことなんだって、迅がスコーピオンをつくって太刀川の前に立ってみせた時から、自分の中にきっと刷り込まれてしまっている。そして事実、それはずっとそうだったから。
(初めて知る顔ばっかだったな、あんな)
 あんなふうに、迅は俺を抱くのかと。
 傷つけないようにと丁寧に、しかししつこいくらいに太刀川の体を探る手のひら。性感に上気した頬。太刀川が、気持ちいい、と伝えると無防備に緩む口角。緊張したように張り詰めているくせに、ひどく高い温度の凶暴な熱を揺らして太刀川を見つめる青い目。不安げに、嬉しそうに、気持ちよさそうに、繕う余裕なんてないみたいにころころと素直に変わる表情。普段はあえて本音を掴ませずへらへらと立ち回る男が、あんな表情をこちらにさらけ出してくることに――迅本人は不本意だったかもしれないが――高揚しないなんてないだろう。もしかしたらあれが、優越感とか独占欲とか、そういう類のタグをつけるべき感情なのかもしれないとふと思い至る。かもしれない、なんて曖昧に思うのは、それらが今まで太刀川にはなかなか縁のない感情だったからだ。
 そんなことを思い返していると、トーストを咀嚼していた迅がからっとした声で先ほどの太刀川の言葉に「え、ほんとに?」と返してくる。昨夜聞いた、とろりと粘つくような、甘ったるい声とは全然違う、いつもの軽やかな迅の声。
「甘いけど結構美味しいよ。ジャムのトースト」
「へえ。ちょっと気になってきたな」
 言いながら、太刀川もトーストをかじる。さく、じゅわ、と香ばしさと美味しさが口の中に広がっていく。いつもの美味しいトースト、でもやっぱりジャムのトーストも気になってきた。甘いものはものすごく好んで食べるというほどではないが、人並みには好きだ。
「じゃあ次の時までに買っとくわ」
 口の中のトーストを飲み込んでから太刀川が何の気なしにそう言うと、迅がぱちくりと目を瞬かせた。迅の反応に、何だろうと不思議に思う。
「どうした?」
 そう聞いてみると、迅がなんと言えばいいか迷うように少し唇をまごつかせた。
「あ、いやー……うん、ありがと」
 もごもごと言った迅の耳が、じわりと赤く染まっていく。すぐ隣にいるから、そんなさまもすぐに分かる。
 そこで、何となく迅が何に急に照れだしたのか分かって、太刀川は小さく口角を上げてしまった。
「耳赤いぞ」
 あえて指摘してやると、今度は迅の頬まで赤くなった。
「わざわざ言わないでよ」
 言った後、迅は半分くらいになっていた食べかけのトーストをやけくそみたいにがじりとかじった。
 迅が意外と、こと恋愛に関してはひどく照れ屋なことも、迅と付き合うようになってから知ったことのひとつだった。ふとした瞬間に急に顔を赤くしたり、照れて慌てたりする。
 口の中のトーストを流し込むみたいに、迅がまだ薄く湯気を立てるコーヒーを飲む。それでようやく少し気持ちが落ち着いたのか、はあ、と小さく息を吐いてから言った。
「……そんな普通に、次とか言うんだと思って」
 呟くみたいな声音で、そんなことを言う迅がどうにもかわいく思えてしまって、太刀川の中で形容しきれないような感情がじわりと疼き出す。太刀川をこんな気持ちにさせるのは、間違いなく迅ただ一人だけだった。
「なんだよ、もうしないつもりか?」
 ついからかいたくなってしまってそんなことを言ってやると、迅がすぐにきゅっと眉根を寄せて唇を尖らせた。からかわれていることなんて分かっているだろうに、引っ込みがつかないのかもう太刀川相手には諦めたのか、こんなふうにむきになる迅は普段玉狛で先輩ぶっている姿よりもずっと子どもっぽい。
「んなわけないじゃん」
 そう言う迅の言葉に満足して、太刀川はにまりと笑う。
「ならいい」
 迅と付き合い始めてから知ったことは、他にもある。
 これまでよりももっと近い距離から迅が与えてくるもの、あるいは教え込んでくるもの、そのどれもが太刀川にとって楽しくて仕方がないこと。二人で過ごす時間の気安さ、触れた唇の柔らかさ、こちらの肌に触れる手の熱、自分でも触れたことのない場所からわき上がってくる快楽。ころころ変わる迅の表情のひとつひとつ、その視線、声色。それらを知る度に面白くて、楽しくて、もっと知りたいと欲しくなること。
 そしてそんな迅に、愛しさのようなものが生まれてくること。
 思いつきのように自覚した恋愛感情は、迅との時間を重ねるたび、答え合わせのように実感を連れてきた。あの夜「好きみたいだ」と言った、その言葉が自分の中でいつの間にか変化していったのが分かる。
「なあ、迅」
 名前を呼ぶと、迅の目が動いて太刀川をとらえる。迅の青い目の中に、まっすぐに太刀川だけが映っている。それをじっと見つめ返しながら、言いたくなったというただそれだけの理由で迅に言う。
「好きだぞ」
 言葉にしてみると、それがいやに甘い響きになって部屋の中にじわりと染みるように落ちた。俺こんな声出せるのかという、自分でも新たな発見だ。しかしそれがしっくりもきているのだからおかしい。迅はいつも、太刀川に知らない自分を教えてくる存在だった。
 迅は赤い顔のまま、しかし目は逸らさない。「……うん」と言った迅の声だって、太刀川に負けず劣らず、柔らかく甘い音をしていた。






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