きみしかみてない




 昼を過ぎた頃の夏の太陽は容赦なく暑い。じりじりと肌を灼くように照りつける日差しを受けながら、迅はトリオン体の偉大さを思う。今日は珍しく生身で出歩いているのだ。いや、先ほどまでトリオン体だったのだが、日課である暗躍、もとい市中の見回りと称した散歩を終えてから換装を解除した。放っておくと日がな一日、寝るとき以外の時間を全部トリオン体で過ごしかねない迅に「お前はもう少し生身で日に当たれ」という木崎の心配と小言の間のような言葉にちゃんと従った……なんていうのは建前で、今のこの時間は完全プライベートだから、いつものように実力派エリートのボーダー隊員としてあえて目立つのはなんとなくやめておきたくなったからだ。
 目的地である三門市立大学の前に到着したのと同時に校門から見慣れた顔が出てくるのを見て、タイミングばっちり、流石おれ――なんて迅は内心で自画自賛をする。自然と上がりすぎてしまいそうな口角を意識してこらえながら、いかにもさりげない風を装ってひらりと手を振った。それだけで、こちらが声をかけるよりも早く特徴的な格子の瞳が迅を見つけて、お、と小さくそれが見開かれる。
「迅」
「やー、太刀川さん」
 大学生ではない迅がこんなところにいるのは普通に考えれば不自然といえばそうなのだけれど、太刀川は特に怪訝そうな様子はみせなかった。迅がたまにこうして、未来視を使って予定が合いそうなときに太刀川のもとにふらっと現れるのは、付き合い始めて以降互いの間では「よくあること」になっていたからだ。
 太刀川は元より迅に未来視を使われることに何の抵抗も無いタイプだったし、これだってわざわざ連絡を取り合うより確かに早いかもななんて笑っていたからこの人の寛容さには恐れ入る、と自分でしておいて迅は内心で思っていた。自分としてはちょっとしたズルというか、役得というか、そんな気持ちでしていたことだったから。そんな風にまるっと受け入れられてしまったものだから、当初はわずかな戸惑いと同時に、受け入れられているという嬉しさとでこそばゆいような気持ちになってしまったものだ。
「ってか、大学って今夏休みなんじゃなかったっけ? 研究室?」
 会うなり、迅がこの未来視を視た時からの疑問をぶつけてみる。迅が視たのは先ほどの、太刀川が校門から出てくる景色という断片のイメージだったから、実際に太刀川が大学に来て何をしていたかまではよく知らなかった。迅は大学生の夏休みの期間はぼんやりとしか知らないが、嵐山や柿崎たちが夏休みに入ったと話していたからもう大学は夏休みのはずだ。
 迅の言葉を受けて、太刀川は「ああ」と返す。
「期末試験と出席日数がギリギリアウトで単位落ちそうだったから、救済措置のレポート提出」
 あっさりと当たり前みたいな調子でそんなことを言うものだから、迅は思わずぶっと吹き出してしまった。
「なにそれ、大丈夫なの」
「いやわからん、こっちが聞きたい。未来視で分かんないか?」
 そんな、朝の占いを見るみたいな軽い感じで聞かれたので「えぇ~」なんて言ってみせながら目の前の太刀川にぐっと意識を向けてみる。自分でも律儀だなあおれ、なんて少しおかしく思いながらそれらしき未来視を探してみるけれど……ううん、これは、なんとも。
「……まあ、未来は無限に広がってるもんだからね」
 そうあえて答えを濁してみせると、太刀川は「えぇ、なんだよそれ」と不満げに唇を尖らせる。しかしすぐにからっと「まあ提出したから後はもう夏休みだ。解放解放」なんて言って笑った。本人より、忍田さんとかの方が太刀川さんの単位に気を揉んでるんじゃないの――なんて、つい数日前に会った時にもあいつは大丈夫なのかと眉間に皺を寄せていた彼の師匠に迅は少しだけ思いを馳せた。
「で」
 話を変えるように太刀川が言う。太刀川の目が迅をとらえて、試すみたいにじっと見つめた。迅の答えを待っている、悪戯っぽさを湛えた瞳。言葉にされずとも、聞かれていることはもう伝わっていた。
 落ち合って、さて、この後どこに行くか。
 もしもこれが高校生の頃の自分たちだったら、迷いようもなく本部を選んでいただろう。空調のよく効いた本部に行って、時間が許す限りランク戦をして。勿論、今だってその選択肢も十分にある。太刀川とランク戦をするのは楽しい。ランク戦で存分にやり合って太刀川と遊びたい気持ちだってあった。
 だけど、今日は。
 迅はすうと息を吸って、さりげない風な声色で答えを口にする。
「太刀川さんち、行きたい」
 そう言うと、太刀川がふっと小さく視線だけで笑った。「ん」と太刀川が頷いて、歩き出す。その隣を迅も追いかけるように歩く。太刀川の輪郭をなぞるように小さな汗の雫が落ちていくのが視界の端で妙に目に焼き付いた。
「俺もそう思ってた」
 いつもと変わらない、のったりとした低い声で太刀川が言う。その声が迅の耳を静かに揺らしたあと、肌に纏わり付く夏の暑さがじわりと鮮明になった気がした。

「あーーっつい」
 部屋に入るなりそんな風にぼやいた迅に、太刀川も「部屋もヤバいな」と汗を垂らしながら笑う。ようやくじりじりと照りつける直射日光から逃れられたと思ったら、大きな窓から真夏の日差しを容赦なく取り込んだ太刀川の部屋の中は外と負けず劣らず蒸し暑かった。
「エアコンエアコン」
 言いながら太刀川が部屋に上がって、居室にあるエアコンの電源を入れる。ピ、と軽快な音がして、エアコンがゆっくりと稼働し始めた。迅も適当に靴を脱いで居室に入って、ベッドを背もたれに座る太刀川の隣に腰を下ろす。片手に持っていたコンビニの袋を、がさりと音を立てながらローテーブルの上に置いた。
「とりあえず、アイス食べよ」
「だな」
 言うが早いかコンビニの袋の中からアイスをそれぞれ取り出して封を開ける。太刀川の住むアパートへと帰宅する途中、あまりの暑さに耐えかね「アイス買ってこうよ」と迅が提案したら太刀川も二つ返事で賛成して、アパートのすぐ近くのコンビニに立ち寄ってアイスを買ってきたのだ。昔ながらの棒アイス、ソーダ味。首筋に滲んだ汗が垂れていくのを拭うのも面倒に思いながらアイスにがり、とかぶりつくと、爽やかな甘みと共に歯から口の中がきんと冷える感覚がする。美味しい、と冷たい、が同時に来て、隣の太刀川もふっと口角を緩ませた。
「あーやっぱアイス買っといてよかったな。美味い」
「だね。……ってか前から思ってたけど、太刀川さんちのエアコンって効き始めるまですごい時間かかるよね」
 迅が言うと、太刀川は「古いからなあ。しょうがない」と大して気にした風もなく肩をすくめた。確かに、エアコンは見るからに古い型だ。このアパート自体築何年なのか、中はまあまあ綺麗にされているけれどそこそこ古そうな造りではある。「警戒区域に近いし古いから家賃安いんだよ。でも警戒区域に近いってことは本部にも近いから、むしろそれが決め手だな」なんて前に太刀川が話していたことを思い出す。エアコンは未だ若干怪しい音を立てながら起動している最中で、冷風はこちらには届いてこない。部屋の中にいてもなおじりじりと纏わり付いてくる暑さを誤魔化そうとするように、迅はすぐに二口目のアイスをかじる。ひんやりと口の中の温度がまた下がって束の間の涼しさを感じた。
 食べながら、なんとなく横目でまた太刀川を見た。太刀川もさすがにじっとりと汗をかいていて、前髪も何本か額に貼り付いていた。暑さのせいでうっすらと上気した頬をつ、と汗の雫が伝っていく。そんな汗に構わず、太刀川が口を大きく開けてアイスを口に含む。何気ない一連の動作を眺めていたら、腹の奥で熱の欠片のようなものがわずかに疼くような気持ちになって、迅はすぐにふいと視線を逸らした。
 ぶおお、とエアコンの立てる音が変わって、冷えた風がようやくこちらに届き始める。アイスでは冷やせなかった体の外側、Tシャツからむき出しの部分の肌の上を風が撫でて、首元や額に滲んだままの汗を機械的な冷たさがひやりと冷やしていく。「お、涼しい」と嬉しそうな声が隣から聞こえた。
 蒸し暑かった空気が冷房の風に冷やされて、かき混ぜられて、和らいでいく。先にアイスを食べ終わったらしい太刀川が「外れだったなー」と言いながら手に持った棒をくるくると裏返して眺めていた。そういえばこのアイスは当たりつきのやつだった。
「あー。そういえばおれも何も書いてないや。外れだ」
 棒をちらりと確認してそう言った後、迅もアイスの最後の一口をぱくりと食べた。口の中でじわりと広がる甘くて冷たいアイスを、噛み砕いて、味わって飲み込む。喉の奥に幾分小さくなった冷たい塊が落ちていく感覚がして、そしてどこかに消えていった。
 太刀川の方に顔を向けると、太刀川はじっとこちらを眺めるように見つめていた。いつもの一見表情の読みづらいその目の奥、そこに確かに欲の色があるのを見つけると、こちらも呼応するようにぶわりと自分の内側に熱が灯るのが分かった。腹の奥、先ほど見ないふりをした熱の欠片が今度は勘違いなんて思えない確かな形を成し始めているのが分かる。
 太刀川といるといつもそうだ。自分の中にずっといる、いることすら忘れそうになる熱の欠片の存在を思い知らされて、ほんのわずかなきっかけでいとも簡単に引きずり出されてしまう。それは太刀川と出会って、ランク戦をするようになってからずっとそうで、しかしこの恋をはっきりと自覚してから、そして付き合い始めてからはその熱の種類が、色が、近いようで違うものが増えた。勝ちたい、このひとの仮想の体に自分の剣を突き立てて、超越したいとずっと思ってきた。だけど、それだけじゃなくなった。
 もっと柔らかくて、優しいようで、ひどく性質が悪くて凶暴なもの。
 迅が動くより、太刀川の方が一瞬早かった。太刀川の顔が近付いてきたことを認識してすぐに、唇が触れた。押しつけられるような強さで重なった唇は普段通り柔らかくて、しかしひやりと冷たくて驚く。しかしすぐに、それもそうかと思い直す。ついさっきまでアイスを食べていたんだから、それは唇だって冷たいままだ。普段の太刀川の温度にいつの間にか慣らされていたことに気付かされて、なんだか少しだけ恥ずかしく思った。
 冷たくて、アイスの人工的な甘い味の残った唇。その奥にある太刀川の感触、温度、味。もっと深く味わいたくて舌を伸ばそうとしたところで、思いがけずあっさりと唇が離される。拍子抜けしてしまって迅は思わずぱちくりと目を瞬かせたけれど、目の前の太刀川はといえばおかしそうに笑っていた。
「なんか、冷たいキスって新鮮だな」
「そりゃアイス食べてたからね」
 迅が言うと、「まあそりゃそうだ」と太刀川はくつくつと笑う。
「おまえの唇っていつも熱いからさ」
 何てことないふうにそう言った太刀川の言葉に、自分でも理由が分からないくらいにぐんと強く煽られた。
 今度は迅の方から、食らいつくみたいにして唇を奪った。やっぱり唇はまだ冷たいままで、しかしそれを気にすることもなく今度はすぐに舌を伸ばして太刀川の唇のあわいに触れた。なんの抵抗もなく開かれて口内に誘われ、舌同士を絡め合う。触れればざらりと弾力を強く感じる太刀川の舌だって今日は唇とおんなじように冷たくて、普段と違うその温度に妙にぞくりと興奮と負けん気のようなものが自分の肌の表面を駆けていく感覚がした。
 貪るように太刀川の口の中を触って、なぞって、味わっていく。いつもの癖で太刀川の後頭部に手を添えようとして、ようやくまだアイスの棒を手に持ったままだったということに気が付く。それだけ自分が太刀川の夢中になっていたことを思い知らされるようで恥ずかしく、でもそんなことは目の前の感触の前ではすぐにどうだってよくなって、適当にテーブルの上にアイスの棒を放るように置く。ぱさりとアイスの袋が軽く潰れる音を聞きながら、太刀川の耳の下から後頭部のあたりに手を添えて口付けをさらに深くした。
 冷たかったはずの唇が、舌が、いつの間にかいつもの温度を取り戻し始めているのに気付く。じわりと温度を取り戻して、分け合って、溶け合うように互いの熱を上げていく。自分の唇も、太刀川の唇ももうすっかり熱くなっていて、それになんだかたまらない気持ちになってしまえば自分の別のところにも熱が集まり始めるのが分かった。まったく男の体とは素直なもので恥ずかしい。けれど、興奮して、この先を想像して期待し始めている自分がいることは事実であることに他ならなかった。
 溜まった唾液はもはやどちらのものなのかなんて分からない。きっとどっちがどっちなんて分からないくらい混ざり合ってしまっているだろうと思う。ごくりと飲み下して、しかし飲み込みきれなかった分が舌を押しつける角度を変えた時に端から伝い落ちていくのを感じた。ん、と吐息とも声ともつかない音を太刀川が零したのに煽られて、迅は太刀川の膝を割るようにして体を寄せた。さらに近くなった体温、迅の膝の頭に太刀川の下肢が触れる。そこに確かな固さがあるのを感じれば、この人もこの行為に興奮しているのだという即物的な実感を得て、嬉しさと興奮でどうしようもなくなってしまった。自分のそこも、誤魔化しようのないくらいに熱を増す。
 呼吸が苦しくなってようやく唇を離す。唇の間を唾液の糸が伝って、荒い呼吸の音がふたり分、部屋の中に滲むように落ちていった。太刀川の首もとに触れたままの指からは、太刀川の体温がじわりと伝わってくる。アイスも食べて、エアコンも効き始めて、折角やっと体が冷え始めたと思ったのに先ほどまでよりもずっと体の内側はあつくて仕方ないように思えた。あーあ、もったいない、と思う自分と、しょうがないでしょ、と思う自分がいる。まだ居残っていたらしい汗の残りがひとしずく、背中をつうと伝って落ちていく感覚がした。
 耳に届くエアコンの稼働音、カーテンを開けたままの部屋の中は真夏の日差しをこれでもかと取り込んで燦々と明るい。キスに夢中になっている間はまるで気にならなかったそれが、一息つくと急に自分の感覚の中に戻ってくる。そういえばまだ昼間なんだよな、なんてことを思い出してしまった。
「……なんか、真っ昼間からこんな、変な罪悪感あるな」
 迅の言葉に、太刀川が呆れたような顔をした。
「おまえからうち来るって言ったくせに」
 そう言ってゆるりと上がった口角、唇は唾液で濡れててらてらと赤い。頬は炎天下の中を歩いてきた先ほどよりもうっすらと上気していて、そんな太刀川の姿が健康的すぎるくらいに明るい部屋の中だからくっきりと見えすぎてしまうくらいに見えてしまう。
 普段は何の疑問もなく、夜に、照明をぎりぎりまで落とした暗い部屋の中でしていたけれど、その暗さも大事だったんだな、なんてことを思う。視覚刺激があまりにも強くてくらりとした。
(あー、……目に悪い)
 だけどもう、止まれるはずもない。
「言ったけど。……言ったし、下心もあったけど、最初から」
 分かりきっていたことを素直に白状する。そんな迅を見て、太刀川は満足げに目を細めた。
「じゃあ、いいだろ」
 当然みたいに、何の躊躇いもなく太刀川は迅に再び手を伸ばしてくる。太刀川の大きな手が迅の首もとに触れた。ランク戦で相対するときは首を獲られることを意味するそれに、今は柔らかい愛しさと強烈な欲しか感じられなかった。拒むことも、止まることも選択肢になかった。触れた太刀川の指先を合図みたいに、迅は再び奪うみたいに太刀川にキスをした。
 高校生の頃。自分の中に芽生え始めた感情を自覚してしまったらもう戻れなくなりそうで、自覚したくなかった。この感情に名前をつけたくなかった。
 今にして思えばそれは無駄な足掻きだったとも思うし、しかし同時にそう思っていた自分の判断力は正しかったとも思う。
 一度触れてしまえば、知ってしまえば、もうだめだった。
 求めずにはいられない。
(だって、おれは)
 おれはずっと、――ずっと、この人だけが欲しかった。




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