ムーンナイトルーム




 見上げれば暗い空をさらにどんよりとした雲が一面覆っていて、月も星のひとつさえも見えなかった。遠くで警報と共にゲートが開く音を聞きながら、今日の防衛任務シフトを終えた迅は警戒区域の外へと出る。今日はもう少しの間活発に門は開くけれど、どれも戦闘能力の低いバムスターなので優秀なボーダー隊員たちにかかれば防衛任務は滞りなく終えるだろうことは分かっていた。
 今にも雨が降り出しそうだった。強く吹いた風が迅の髪や開けたままの隊服のジャケットを揺らす。並木道の木の枝も音を立てて揺れて枯れ葉をはらはらと散らしていった。迅は今もトリオン体のままだから関係ないのだけれど、暦の上ではまだ秋のはずだというのに今日は冬を先取りしたように肌寒い夜だ。そう思えば、なんとなく迅の歩調も何かに急かされるように早くなる。
 今日は朝から、体調が悪くなりそうな気がしていた。
 これは未来視ではなく、経験からくる予測だ。そもそも未来視というのは性質上、自分自身のことは他者を視るよりも視づらいという面がある。ちょっと喉が変かなとか、熱っぽいかも、というのは朝から感じていて、しかし今日も色々とやることがあってバタバタしていたために、それに構っている暇がなかった。
 トリオン体になれば生身の体調など関係ないから朝からあれこれと予定をこなして、夕方から夜にかけての防衛任務までいつも通り何の問題もなく終えることはできた。いやあトリオン体って便利だななんて思いつつ、だからといって生身の不調を放っておいていいはずもない。何事も体は資本だ、無茶はよくない。今よりもっと幼かった頃は、そうやって無理を押してトリオン体で誤魔化して動き回っていたらうっかり体調が悪化して林藤や木崎、小南たちに怒られたのだ。
 こういう時はまっすぐ帰って早く寝るに限る。そう思って玉狛までの道を急ごうとしたのだけれど、交差点の信号を待っているところでふと気付いてしまった。
(あ、ここの角曲がったら、太刀川さんち近いな)
 そう思ってしまったら、会いたい、という気持ちが急に膨れあがってしまった。頭では早く帰った方がいいと分かっているはずなのに、いつもだったらもう少し制御できるはずの思いがいやに今夜は止まらなくて、迅の足は自然と玉狛とは違う方に向く。
 それに、このところ全然会えていなかった。最近もまた色々と、結構重要な未来の分岐のポイントが実はあったりもして、そのために気を張りながらあちこち暗躍と称して動き回っていたのだ。
 元々待っていたのとは別の信号を渡って、大通りからひとつ細い路地に入ると元々少なかった人気がさらに減って、自分の足音が大きく響く。玉狛からも迅のかつての実家からも遠いこの道もいつしかすっかり歩き慣れていた。
 目的のアパートを見上げる。二階の角部屋、太刀川の部屋の窓から淡い光が漏れているのが分かる。
 それを見つけた時に迅は、不思議なほど自然に深く息を吐けたような、自分でも存在に気付いていなかった空の器がじわりと柔らかく満たされたような、そんな気持ちになったのだ。

 チャイムを鳴らすと、大した間もなく目の前のドアが簡単に開かれた。出てきた太刀川はこの時間の突然の訪問にも嫌な顔ひとつすることなく、いつも通りの声で「おー、迅」なんて言う。なんだかその顔と声に、迅はするりと気が抜けてしまった。
 自然な流れで家の中に招かれて、玄関に上がる。これまでは寝るとき以外ほとんどずっと換装体で過ごすのが常だった迅が、太刀川とプライベートな時間を過ごすとき、そしてこんな風に太刀川の家に上がるときには玄関で換装を解除するのがいつの間にか染みついた癖のようになっていた。
 玄関のドアを閉めて、迅はいつものように換装を解除した。
 ――瞬間。 
 どっと襲ってくるような重さと共に迅の視界がくらりと回った。
「お、……っわ」
 重さの原因は倦怠感と熱であると一拍遅れて理解が追いつく。体が熱くて、そして怠い。突然体を覆ったように思えたそれは、体調なんて関係ない、感覚としては健康そのものであるトリオン体から急に生身に感覚が戻ったから、その感覚の落差に脳が一瞬うまくついていけなかったようだ。
 慌てて壁に勢いよく手をついたから倒れることは免れたけれど、そんな迅の一部始終に太刀川は驚いたようにその格子の瞳を丸くしていた。
「迅おまえ、……体調悪いのか?」
 こんな目の前で一通り見られてしまって、今更誤魔化すことなど不可能だろう。迅はすぐに観念して、素直な今の感想を口にする。
「うーん、……思ってたより悪かったっぽい」
 言葉と共に吐き出した息も、どこか熱いような気がする。そうだ、体調が悪くなりそうな予兆は感じていたはずなのに、今朝は外気の寒さと自分の身体の怠さの気配のようなもののせいで出かけるギリギリまでベッドから起き上がる気になれなくて、風邪薬でも飲んでおけば良かったものを飲み忘れていた。結局何のケアもしないまま、トリオン体で一日中あくせく動き回っていた結果がこれだ。
(あー……やば)
 少し遅れて、今度は鈍い頭痛を自覚する。こんなに体調を崩すのも久しぶりだ。いよいよ本格的に体調が悪い。
 だというのに、すうと息を吸えば覚え知った太刀川の家のにおいがして、それにほっと心底から落ち着くような気持ちになった自分がいた。
 体調が悪いと人恋しくなる、なんて言うけれどそういう類のものだろうか、などとぼんやりと頭の片隅で考える。そんなことを考えている間もじっと迅を見つめていた太刀川が、ふっと息を吐いて迅に手を伸ばしてきた。
「しょーがねーな」
 そう言う太刀川の声が、迅の腕を取った手の強さが、言葉に対していやに優しく思えたのが自分の願望だったのかどうかは――今の迅にはうまく判断がつかなかった。


 意識が浮上する。ゆっくりと目を開けてまず思ったのは、玉狛じゃない、ということだった。玉狛の自室、の次に今や見慣れた天井――太刀川の部屋だ。まだ若干とろんと重い瞼を何度か瞬かせながら、ここに至るまでの出来事を思い出す。あ、そうだった、おれ。
 身じろぎをすると掛け布団が擦れて乾いた音を立てた。それで気付いたのか、「お」と太刀川の声がする。声のする方に視線を向ければ、迅が寝ているベッドを背もたれに太刀川が座っていた。
「起きたか」
 振り返った太刀川の後ろ、ローテーブルの上にはノートパソコンが広げられている。パソコンの前にいるなんて珍しいこともあるもんだな、なんてことをぼんやりと考えながらまだ少しだけ熱っぽい体を起こすと、今までなりを潜めていた頭痛がぶり返してきた。鈍い痛みに思わず顔をしかめると、太刀川が「まだキツいか?」と迅に声をかけてくる。
「いや、さっきよりは全然マシ、……ってあれ」
 無意識に額を触ってようやく、そこに何かが貼られていることに気がついた。冷却シートだ。といってもそれはすっかりぬるい温度になっていて、先ほどまでの自分の体温がいかに高かったかを思い知る。
 ていうか。
「……あー、なん……いや、ごめん太刀川さん」
 今更になって冷静になる。顔が見たかったから、なんて理由で急に体調の悪い人間が押しかけて、ぶっ倒れるようにベッドを占拠して、強制的に看病させるような形になってしまった。
 普通に考えて迷惑この上ない。
 うわー、と思わず心の中で叫び出したくなってしまった。何でおれそんなこと考えられなかったんだろう。普段、冷静であれとあんなに自分に言い聞かせているはずなのに。自分に呆れてしまって、別の意味で顔が熱くなりそうだった。
 自分への呆れと恥ずかしさと太刀川への申し訳なさでぐちゃぐちゃになって、何から言えばいいのかうまく言葉が出てこない。立ち上がってベッドの上に座って、迅と視線の高さを合わせた太刀川はそんな迅に対してあっけらかんと返す。
「いや? 別にいいぞ、このくらい」
「や、でも多分これ風邪だしうつしちゃうかも」
 言いながら、それならなんで来たんだよと自分で自分にツッコミを入れる。冷静じゃなかった。本当に。今夜のおれは。
 しかし太刀川は全く気にした様子もなく、なっはっはと笑いながら言う。
「俺全然風邪引かないんだよな。前に言ったら二宮にはバカは風邪引かないからだろって言われたけどさ~」
 それはおれも笑っていい話だろうか、いやこの状況でなければこっちも笑って返すだろうけれど、とまだ羞恥やら自省やらの中にいる迅は咄嗟に迷ってしまった。そんな迅の返答を待たず、太刀川はいつものゆったりと低い声で言葉を続ける。
「それも家になかったからさっき買いに行ったくらいだし。いやーギリギリ薬局開いてる時間でよかったわ」
 言いながら太刀川が少し近付いてきて、迅の額に手を添える。触れた手の温度と近くなった距離に、どきりと心臓が音を立てた。
「お、だいぶ熱下がったんじゃないか?」
 そう言って太刀川が口角を緩めた後、今度はローテーブルの上に開きっぱなしだったパソコンをぱたんと閉じる。思わず「レポートか何かやってたんじゃないの?」と聞くと、「あーまぁ大丈夫だ」なんて躱されてしまった。この人が勉学方面で大丈夫だと言って大丈夫だった試しはない気がするのだが、そこまでは迅が干渉することでもないのでそれ以上追及するのはやめてあげることにする。
「飯は?」
 太刀川にそう聞かれて、反射のように急に空腹を自覚した。体というのはだいぶ現金なものなのかもしれない、と二十年近く生きてきてようやくそんな気付きを得る。
「あー、うん。夕飯まだだったから、お腹空いてる。……ってか今何時? おれ何時間くらい寝てた?」
「いや、まだギリギリ日付は変わってないぞ。二~三時間も経ってない」
 随分と深く眠っていた気がしたのだけれど、まだそのくらいしか経っていないのかと思う。「そっか」という迅の言葉を聞いた後、太刀川が再び口を開く。
「待ってろ。飯つくる」
 そう言って立ち上がった太刀川を見て、迅も続いてベッドから降りようとする。しかしそんな迅の行動を予測していたかのように、迅が動き出そうとするのとほぼ同時に「すぐできるからそれまでもーちょい寝てろ」なんて釘を刺されてしまった。
 確かに家に来たときよりはだいぶ良くなったとはいえ、まだ体調が万全になったわけではない。これには何の反論もすることができず、言われるまま迅がすごすごと再びベッドに寝転がると太刀川は満足げに頷いたのだった。

 太刀川のベッドに寝転がって、キッチンからわずかに届く調理音を聞いていた。カチャカチャと食器や調理器具が擦れる音に、カチ、とコンロのスイッチを入れる音。さらに、ばり、と何やら袋を開けるような音。寝転がる以外やることもないので、その音を聞きながらキッチンにいる太刀川の姿をぼんやりと想像した。太刀川の身長ではこの古いアパートの調理台は低いから、あの大きな背中を縮こまらせながら料理をしている姿を想像するとなんだかいやにかわいく思えて口角が小さく緩んだ。
 キッチンの音の隙間から、窓を静かに叩く音が聞こえる。どうやら外では雨が降り出したようだった。警戒区域に近いこのアパートでは警報の音もちょくちょく聞こえるのだが、すっかり門が開くピークも過ぎたようで警報の音も鳴らずすっかり静かな夜だった。
(……なんか、広く感じる)
 静かな部屋の中で、不意にそんなことを思う。普通のシングルベッドなのだから、これが通常の一人分の広さ――迅の体躯であればむしろ少し狭いくらいだ――のはずなのに、そう思ってしまった自分をおかしく思った。
 太刀川と恋人という関係になってからはいつも、この部屋に来るときはこのベッドの上でそういうことをして、その後はぎゅうぎゅうに狭いはずなのに当たり前みたいに二人で一緒に寝ていたから。最初はこの狭さで本当に寝られるのかと思ったはずなのにどうも離れがたくてそのまま意地みたいにして眠って、それがずっと続いて、今となってはすっかり慣れてしまったのだとこんなところで自覚する。
 少しして、ふっと優しい香りが微かに漂ってきた。その正体はすぐに分かる。だしの匂い。太刀川との距離がこんな風に近くなってからは、それは迅にはより馴染みのある香りになっていた。
「できたぞー」
 言いながら、太刀川が居室に戻ってくる。太刀川が手に持っているお椀からは、ふわふわと温かそうな湯気が立っていた。
 迅はその声を合図にまだ少し気怠い体を起こして、今度こそベッドから降りる。ローテーブルの前に座ると目の前に置かれたお椀の中身を見て、迅は思わず小さく笑ってしまった。あまりに予想通りだったから、それがなんだかおかしかったのだ。迅が笑ったのを気にも留めないいつも通りの様子で、太刀川が得意気に言う。
「体調悪いときでもうどんなら食えるだろ?」
 迅の目の前に出されたのは、黄色いたまごとねぎの乗ったシンプルな月見うどんだ。いや体調悪くなくてもうどん出されてる気がするんだけど、と迅はついツッコミを入れたくなったけれど、看病してもらっている身なので言わないでおくことにする。
「うん。……いただきます」
 縁の所にブルーのラインが入った箸は、迅が来たときにいつも出される来客用の箸だ。それを手にとってうどんを掬う。お椀に添えた手からじわりと温もりを感じながら口に運んで啜ると、だしの味とうどんの温かさが口の中に優しく広がって空きっ腹に沁みた。思わず小さく吐き出した自分の息も柔らかい温度をしている。
 少しだけれど一旦眠って、温かいものを食べて、なんだか自分でもびっくりするくらいにほっとしてしまった。
「美味しい」
 心からの迅の言葉に、太刀川はにっと口角を上げる。
「だろ?」
 そう言う太刀川の表情は妙に自慢げで、そして嬉しそうだ。
 迷惑をかけられたなんてこれっぽっちも思っていない顔。
 そんな顔を見てしまえばぎゅっと胸が詰まりそうになって、自分の内側からこみ上げてくるものを誤魔化すように迅は再び視線をお椀の中のうどんに戻す。あったかいうちに食べないともったいない、なんていうのは半分は言い訳だ。
 まだきれいな形を保ったままのつやつやとした卵をそっと箸で割ると、とろりと形が崩れて橙色がつゆに染みていく。それを麺に絡めて二口目を啜った。温かくて優しい味のつゆともちもちした麺、そこにまろやかな卵が絡んで先ほどとは少し変わった味がまた美味しい。味わって、咀嚼して、飲み込む、その間も太刀川がじっとこちらを眺めているその視線を感じていた。そんなにじっと見られても何も面白いことはないだろうに、なんて思ったけれど、自分だって何もなくとも太刀川を眺めているだけで楽しいと思うことに気付いて、そう思ってしまえばなんだか急に耳が熱くなってしまった。
 一度箸を進めればあっという間に食べ終えてしまって、どうやら随分自分はお腹が空いていたらしい。体を治すのにも体力がいるのだと実感する。マグカップに注がれた冷たいお茶をごくりと飲むと、まだ平時より高い温度の体の中に冷たいものが落ちていく感覚を心地良く思った。このマグカップもまた迅が来たときにはいつも出される、シンプルな水色のマグカップだ。
「今日、このまま泊まってくよな?」
 迅が食べ終わったのを見て立ち上がった太刀川が迅に聞いてくる。
「あー、……そうだね。ごめんなんか、何から何まで」
 そう返すと、テーブルの上を片付けるためにお椀に手をかけた太刀川が迅を見つめた。ぱちり、とその瞳が一度瞬いたかと思えば、太刀川の手がお椀から離れてずいとこちらに伸びてくる。それを避けるという発想すら生まれることなく、その大きな手が迅の頭に触れる。そしてまるで犬にでもするみたいに、ぐしゃぐしゃと雑な手つきで頭を撫でられた。
「ごめんはいい」
 太刀川の言葉を受けて、前髪ぐちゃぐちゃなんだけど、なんて思いながら迅は言い直す。
「……、ありがとう」
「それでよし」
 するりと太刀川の手が離れていく。普段の迅よりは少し体温が高くて、大きくて、節ばった無骨な、誰より力強く美しく弧月を繰る手。
 ふたりきりの時にはこんなふうに遠慮なく、しかしどこか優しい手つきで迅に触れる手。
 その手が離れていくのを名残惜しくなんて思ってしまったのも、体調が悪くて人恋しくなっているからだろうか?
 太刀川に乱された前髪を適当に手櫛で整えながら、迅は逆光になった太刀川を見上げる。薄く影の落ちた太刀川の表情は、思いがけないほど満足げだった。
 何かを言いたくなって、しかしそれがうまく言葉になりきらなくて、その間に太刀川はテーブルの上のお椀とマグカップを手に持ってキッチンへと戻っていく。部屋着のグレーのスウェットを着たその広い背中を眺めながら、迅は先ほどまで太刀川が触れていた前髪を、ゆっくりと指を遊ばせるみたいに軽く梳いた。普段はセットしている前髪は、指先を離れるとはらりと重力に従って柔らかく落ちていく。
 自分はひとりでも生きていける、だなんて言い切るほど驕ってはいないつもりだ。
 けれど、自分の足でひとりでまっすぐ立ち続けられる己は矜持であり、ある種の誇りにすら思っていた。
 強く在ろう、と最初に思ったのはもうずっと昔の話。元々の性格に加えて、環境や経験、そして己の能力とその重要性を認識してからはその思いがより強くなった。自分が戦闘の面でも実力をつけるにつれ、組織が大きくなり後輩が増えるにつれ、頼られることが嬉しかった。元々自分は人に甘えるのは苦手だと思ってきたし、それよりも人から信頼され、頼られ、任せられるほうが心地良いと思った。自分の能力からして、不安や弱さをみせれば周囲を意図せず不安にさせてしまうだろうと思っていたこともあって、いつだって余裕ぶって、大人ぶって、強く軽やかに立ち回る「実力派エリート」としての自分を進んで選び続けてきた。
 好きでやっていることで重荷になど思ったことはないと、それは自信を持って言うことができる。
 なのに。
(……弱いところなんて、この人に対しては誰より見せたくなんてなかったはずなのになあ)
 甘えたくなってしまう。そんな自分に驚く。おれが、太刀川さんに。昔では絶対にありえない発想だった。
 この人に勝ちたい、この人が欲しいという激情はずっと自分の内側に在り続けている。けれど同時に、この人に甘やかされるのがこんなに嬉しいってことだっておれはもう知ってしまった。相反するように思える感情は、どちらも自分の中にぐちゃぐちゃに混ざり合って存在している。
 体調が悪いのを分かっていたくせに、こんな風に太刀川の家に来てしまったのも自分のこの人への無自覚な甘えだったってことも本当はよく分かっていた。
 甘えるのは苦手なはずだった。大人ぶっていたいはずだった。
 だけど太刀川を好きだと自覚して、付き合うようになって。手を伸ばせば、受け入れられることを知ってしまった。どんなに格好悪いところでも、この人はそれすら嬉しそうな顔をして受け止めてくれてしまうことを知ってしまったから。
 この人がふとした瞬間、あんな柔らかい目で、おれを見ることを知ってしまったから。
 物音に顔を上げると、キッチンから戻ってきた太刀川が何やら小さなカップを二つ手に持っていた。なんだろうと思って見ていると、そのうちの一つを迅の目の前に置いた。ご丁寧に紙のスプーンも一緒についている。もう一つもテーブルに置いて太刀川が迅の横に腰を下ろす。
「風邪薬……の前に、秘蔵のプリンをやろう。っても貰いもんだけど」
 ドヤ顔で言った後、太刀川はなっはっはと笑った。秘蔵のプリンとは、と思いながら目の前の慎ましいサイズ感のカップを見る。確かにちょっといいとこの雰囲気のあるプリンだ。
「鈴鳴からの貰いもん。こないだ鋼の訓練に付き合ったらお礼ってことで貰ったんだよ。見たら賞味期限意外と短かったからそろそろ食べきらないとと思ってたとこだったんだ」
「ああ、なるほど」
 さらっと棚ぼた的に貰ってしまった。しかしまあ、そういうことならとありがたく頂くことにする。紙のスプーンの包装ビニールを開けていると、太刀川が迅を覗き込んでにまりと笑う。
「治ったらランク戦付き合えよ、それでチャラってことで」
 そんな風に言っておれをまた甘やかす。本人は甘やかしている自覚なんてないかもしれないけれど、そんなふうにあっさりと受け止めて、許して、収支をチャラにして笑う、その温度がどうしようもなく心地が良くて困ってしまった。
「はーい……」
 いやあ、でも、そんな風に予告されたら何本付き合わされんのかな、おれ――そうは思ったけれど今は考えるのも視るのも止めにして、今はとりあえず目の前のプリンを味わおうと迅は蓋をぴりぴりと引っ張って開けたのだった。




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