ポラリス




 ぐう、と鳴った腹の虫がしんと静かな夜の部屋に大きく響いた。ムードも何も無いその音に至近距離で迅がぱちくりと目を瞬かせて、その状況も迅の表情も何だか面白くなってしまって太刀川は思わずくっと笑い出してしまう。
「あー、確かに、腹減ったわ」
 言いながら、それもそうかなんて思い返す。遠征艇の中で少し早めの夕飯はとってはいたものの、量もそんなに多くはなかったし、なによりこんな時間まですっかり運動をしてしまった。それもなかなか、濃密なやつ。そりゃあお腹も空くだろう。
「やばいな、腹減ったの思い出したらなんか食べたくなってきた」
 太刀川の言葉に、迅は困ったように小さく顔を顰める。
「そんなこと言われたらこっちだってお腹空いてるの自覚しちゃうじゃん」
 先ほどまでの行為の名残なのか、いつもすかして大人ぶる男にしてはいやに甘えたような子どもっぽい口調で迅が返す。そんな迅に何だかこちらも気分がよくなって、上がったままの口角で太刀川は言う。
「だろ? 道連れだ道連れ」
「やだよそんな道連れ~」
 ぶつぶつと文句を言う迅を放っておいて、太刀川は寝転がっていたベッドから起き上がる。掛け布団が落ちて、何も着ていない上半身が冷えた空気に触れて今が冬であることを思い出す。
「よし、コンビニ行くか」
 言うが早いかベッドから降りて、まあこれでいいかとベッドの下に放ったままだった衣服を拾う。後ろから「えぇ、今から?」なんていう迅の文句が聞こえてきたから、太刀川は振り返って返す。
「今から。だってうち、今食べるもの何も無いぞ。知ってるだろ」
 太刀川の言葉に、迅はぐっと言葉に詰まる。
「まあ、そうだろうけど」
「腹減って寝れそうにないから、俺は行くけど?」
 そう言って太刀川は迅の方をじっと見つめてみる。すると迅は、はあ、と息を吐いてから観念したように起き上がった。
「最初からおれも行くだろうって頭数に入れられてるんだよなあ、こういうとき」
 迅がそう唇を尖らせるから、あえて「じゃあ行かないのか? 迅くんは」なんて言ってみる。そうしたら「おれも行くって。お腹空いちゃったもん」と言いながら太刀川と同じようにベッドの下に脱ぎ散らかしたままだった自分の衣服を拾い始める迅は、なんだかんだ素直でかわいいやつなんだよなと太刀川は内心でこっそりと思うのだった。

 二週間ほどにわたった近界遠征を終えて太刀川が帰還したのが今日の――日付が変わったので、正確には昨日の――夕方のこと。いつもの通り成果物の提出やら口頭での簡易的な報告やら何やらを終えて帰ろうとしたところ、太刀川が丁度一人になったタイミングでさりげないような様子で待ち構えていたのが迅だった。
 今回赴いた国ではとんと見られなかった、玄界こちらの青い空によく似ている瞳が太刀川を見つけた。その唇がゆっくりと動いて、「おかえり」と迅が言う。その聞き慣れた声を聞いた瞬間、その瞳が太刀川をまっすぐに見つめた瞬間、この二週間思い出さなかったはずの感情がいとも簡単に自分の内側に湧き起こる。
 この男と相対すると、いつもそうだった。
 雪崩れ込むみたいに二人で太刀川の部屋に帰って、玄関先で唇を深く合わせてからはこの通り。何度重ねてもまだ欲しくなって、強請ねだって、そうしたら同じだけ強請られて――と飽きることもなく繰り返していたらすっかり深い時間になってしまった。ようやくシャワーを浴びて寝ようか、と思ったところで腹の虫が鳴って今に至る。遠征に出るときは大抵数週間は家を空けることになるので賞味期限の短い食べ物は遠征に出る前に使い切るようにしているため、腹が減っても今現在冷蔵庫はほぼ空っぽなのだ。
 どうせ近所だし、とベッドの下に放り投げていた服をそのまま着直してコートを羽織る。出がけにスマホを確認したらもう深夜も三時近い。帰ったの何時だっけ、もう外はすっかり暗かったけど、と思って、まあどうだっていいことなのですぐに考えるのをやめた。
 外に出るとすぐに容赦のない冷たい空気が襲ってきて、「うっわ、さみい」と思わずぼやくと「でしょ。太刀川さんが遠征行ったときはまだだいぶあったかかったし」と返された。遠征中は基本的に寝るとき以外はトリオン体だから、生身で外に出て気温の変化を感じるのも久しぶりの感覚だと気付かされる。真冬の夜、空は快晴、雲一つない夜空は星がよく見える。一番光っているあの星はなんだっけ、なんてぼんやりと考えた。月はひとつ、星は小さくてたくさん。玄界の夜空を見るのも二週間ぶりだ。
 街が眠っている、なんて比喩になるほどと思うくらいに、たまに通る車の音以外はすっかり静かな夜だった。アパートを出て数分歩くと煌々と明かりが灯るコンビニが見えてきて、夜の住宅街の中でそこだけがいやに明るい。自動ドアに迎えられて中に滑り込むと、らっしゃーせー、と慣れているのと気が抜けているのの中間くらいの若い店員の声に出迎えられた。
 目的はレジ横のホットスナックのコーナーのはずなのだけれど、コンビニに入るとなんで目的以外のコーナーも見たくなるのだろうかと思う。レジに向かう前になんとなく棚の商品に目を向けていると迅が口を開く。
「ついでだから、明日の朝ごはんも買っとこうよ。家、何もないんでしょ?」
「お、そうだな」
 そう言ってパンのコーナーに向かって歩き始める迅に倣って太刀川も歩いていく。その途中で目に入ったものに、あ、そうだ、と思って手を伸ばした。急に止まったこちらに気付いて振り返った迅に、「ほら」と言って太刀川は手の中の箱を示す。
「もうほとんど使い切っちゃったろ」
 手の中のそれ――コンドームの箱を見て、言葉の意味を理解した迅は一瞬唇を引き結んだ後「……そうだね」なんて気恥ずかしさを噛み殺したような小さな声で言った。そんな迅を、太刀川はつい面白く思ってしまう。今更も今更、それこそさっきまで何度もそういうことをしていて、その目に利かん気のない獰猛な色を湛えて太刀川の体を飽かず奥まで暴いてきたのはこの男自身だというのに。
(そーいうとこあるんだよな、こいつ)
 それは迅とこういう関係になってから知った迅の一面だ。恥ずかしさを誤魔化そうとするようにさっさとパンのコーナーに進んでいく迅はこちらに背中を向けたから、こちらのわずかに緩んでしまった口角はバレていないようだった。

 コンドームと明日の朝ごはん用の食パン、それとレジ横でほかほかに温められていた肉まんを買ってコンビニを出る。家に今食材はほとんどないものの、安売りの時に買っておいた未開封のジャムは残っていたはずだ。マーガリンは切らしているので明日スーパーに行ったときに買うつもりでいる。
 コンビニを出てすぐのところで肉まんの一口目にかぶりつくと、温かくてもちもちの皮の感触と同時に中に包まれた具材の味がじゅわりと口の中に広がる。遠征中も持っていった食材をやりくりしてそこそこちゃんとした食事はできていたけれど、こういうコンビニのできたてのホットスナック系は流石に食べられない。空きっ腹に染みる久しぶりの味に自然と顔が綻んだ。
「肉まんうっま」
 真冬の冷たい空気が肌を容赦なく冷やす中で、肉まんを持った手だけがその温度が伝わってあたたかい。太刀川を見た迅が、「お、太刀川さんは肉まんかあ」と言う。
「肉まん。おまえは肉まん……じゃないな?」
 隣の迅も太刀川と同じような中華まんを頬張っているところだった。しかし色が微妙に違う。太刀川の言葉に、迅は口の中のそれを飲み込んでから答える。
「おれはピザまん。肉まんにしようかなとも思ったんだけど、なんか見てたら食べたくなっちゃって」
「あー。ピザまんもいいな」
 ピザまんと聞いたら、ついそちらも食べたくなってしまった。太刀川が迅が持っているピザまんを見ていると、迅がついと自然な仕草でそれを太刀川の方に差し出してくる。
「食べる? ひとくち」
「おっ、やった。じゃあ肉まん食う?」
「食べたい」
 迅がしたのと同じように太刀川が肉まんを差し出せば迅の手が伸びてきて、手の中の中華まん同士を交換する。その拍子に指先がわずかに触れて、掠めた温度にほんの一瞬、つい数十分前までのことを思い出す。しかしそれはすぐに、貰ったピザまんのあたたかさに上書きされてしまった。
 ぱくりと一口分かじってから、迅にピザまんを返す。
「ん、ピザまんもうまい」
 肉まんのほっとする味わいとはまた違う、トマトベースの洋風の味。もぐもぐと咀嚼していると、迅も「肉まん久々に食べたかも」なんて言いながら一口分減った肉まんをこちらに返してきた。
 残りの肉まんとピザまんをそれぞれ食べて、空になった紙の袋をくしゃりと丸めてコートのポケットの中に入れた。会話が途切れるとやっぱりこの夜は静かで、アスファルトの上に転がった小石がざり、と擦れる音が混じった二人分の足音と、歩調に合わせてコンビニの袋が揺れる小さな音がいやに目立って聞こえた。今は車すらもしんと途切れている。
 吐き出した息が白く形を成しては、空気に溶けるように消えていく。少し強く風が吹いて、その冷たさが肉まんのおかげで少し温まったはずの手をすぐにきんと冷やしてしまった。手袋でもしてくればよかったかと今更になって思うが、残念ながらすっかり忘れてきてしまった。遠征に行っている間にあっという間に深まった冬に、まだ帰ってきたばかりの自分の感覚が追いついていないのを感じる。近界には季節の概念が無い場所が多いし、季節が仮にあったとしてもこちらと重なるものである可能性は限りなく低いだろう。時差ボケみたいなものだ。多分。少し違うかもしれないけれど。
 街に降りたしんと冷えた空気が、指先に絡んで寒さを教えてくる。ほんの数十分前、迅に触れられていたときは体のどこも熱いくらいに思っていたはずなのにその温度の名残はあっけなく冬の空に奪われてしまった。
 それをどこか寂しいように思ってしまった自分がいることに気が付いて、なんだかおかしかった。
 アパートのすぐ近くの横断歩道が赤信号で、長年染みついた反射で歩みを止める。車の通りはほとんどないようだったが、どうしても急ぐような理由もなし、そのまま信号が変わるのを迅と並んで待っていた。
 なんとなく手持ち無沙汰で迅の方にちらりと視線を向ける。夜の空を見つめる迅の横顔は静かで涼しげだ。
 遠征に行っている間、迅のことをたいして思い出すこともなかった。今回の遠征では戦闘こそなかったものの、初めて行く国にも立ち寄って、トリガーについても文化についても新鮮な刺激を受けることが多くて太刀川にとって楽しい遠征だったと言える。それなりに充実した二週間だった。
 それなのに、帰ってきて一目この男の顔を見てしまえば、それよりもずっと強烈な――他では替えのきかない、衝動めいた感情が自分の中に湧き起こる。
 この男の視線に射抜かれる喜びを、その手が触れる温度の気持ちのよさを知っている。ランク戦も、それ以外も、こいつじゃないと満たされないものがあるってこの体は知ってしまった。すっかり教え込まれてしまった。何度だって、一瞬で思い出させられてしまう。
(だって、俺はずっと)
 迅がランク戦から離れた後、自分でも驚くほど気持ちの整理がつけきれなかったこと。迅とじゃないと満たされないものがあると知ったこと。三年ちょっと、何をしたって、誰と戦ったって。全部それなりに楽しかったけど、迅以外にその場所を満たせるものはなかった。
 何度でも知る。
 いつだって、どの瞬間だって、ずっと迅が自分の中で一等特別だった。
 ふ、と迅の青い目が動いて視線が絡んだ。太刀川を見つめたその瞳の奥に、先ほどまでの熱の残滓を見つける。冷たい冬の風でも浚えなかった熱がまだここにあることに、ぶわりと自分の内側が疼くような心地になる。
 こちらに甘えるような、それでいてわがままで凶暴な、青い熱。
 二人の間を弱い風が吹いて、迅の前髪を柔く揺らした。しかしその瞳は、太刀川の瞳を見つめたまま剃らされない。
「迅」
 呼んだ声は低く滲んで、白い息と共に夜に溶けていった。きっと迅も、同じように見つけているのだろうと思う。こちらの内側にも残っている、まだ消えきらない熱の残滓。太刀川を見つめたまま迅は少しだけ困ったような顔をして、しかし、その奥には隠し切れていない嬉しさや期待が滲んでいるのが分かる。それをどうにも、嬉しくなんて思ってしまった。
 執着している、と思う。この男に。そんな自分がやっぱり面白く、こんな気持ちは迅以外には生まれないだろうと思う。その思いは、迅へのこの感情を自覚してから、迅とこうして付き合うようになってから、日に日に強く確信めいたものになっていく。
「……無理はさせたくないんだけどなぁ」
 そうぼそりと小さく呟いた迅に、思わず喉を鳴らして笑ってしまった。
 特別だと思う相手に、特別だと思われている。欲しいと思う相手に、欲しいと思われている。いつだって何度だって、飽きようもなく同じ温度で。そんなシンプルなことがこんなにも楽しい。
 信号が青に変わって、二人並んで歩き出す。夜の風はやっぱり冷たくて、指先は冷えて、だけどアパートまでの距離はあとわずかだ。そう思えば、自然と横断歩道を渡る歩幅も大きくなる。どうせ明日は任務も大学も休みだ。この寒い風を凌げる部屋に帰って、それで、それから。太刀川に未来視はないけれど、二人思っていることが同じなら、それはもう確定したも同然だった。
「そんな顔しといて、説得力ないぞ」
 隣の迅にそんな言葉をかけてやる。そうしたら迅には、照れ隠しのように軽く小突かれてしまった。





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