花舞うまちにて




 川の真ん中に立つ玉狛支部に向かう通りには桜並木があって、この季節になると見事に桃色の花を咲かせる。平日昼間でも満開の桜を立ち止まって眺めたり写真を撮ったりする人たちはちらほらといて、その間を低い枝に頭をぶつけないように気を付けながら太刀川は歩いて行く。この景色を見るとふと、あ、迅の誕生日そろそろか、と条件反射的に思い出す。それはいつからか、毎年の恒例のようになった。そうしているうちに遠くに玉狛支部が見えてきて、今日はよく晴れているからきらきらとした川面に桜の花と共に支部の建物が反射して映っている。
 自分の心の中にそんなふうに迅が住みついてから、気付けばもう八年ほどが経っていた。

 支部の前に辿り着いてインターフォンを鳴らそうとしたところに、ちょうど本部に向かうという木崎が中から出てきたので、そのまま入れ替わるように中に入れてもらうった。
 太刀川も何度か来たことのある支部の中は、今日はのんびりと静かだ。時によっては隊員が集まってわいわいと賑やかな様子なのだけれど、今日はどうやら人が少ないらしい。廊下を進んでいくとリビングのドアが半開きのままだ。ちらりと中を覗いてみるとちょうど林藤がキッチンに立ってコーヒーを淹れているところだったので、聞いてみることにする。
「すみません、迅いますか」
 声をかけると林藤が顔を上げた。そして太刀川の姿を認めると、訳知り顔でにやりと笑みをつくる。
「おー、いらっしゃい、太刀川本部長補佐。迅なら支部長室にいるぞ」
「ありがとうございます」
 太刀川が礼を言ってその場を去ろうとしたところに、林藤はいたずらっぽく笑った顔のまま言葉を続けた。
「このところ書類仕事で缶詰になってるから、悪いが連れ出してやってくれ」
 林藤の言葉に、太刀川も口角を上げて返す。
「そのつもりです」
 そう言うと、林藤は「ならよかった」なんて楽しげに言って湯気の立つコーヒーを啜ったのだった。

 林藤に言われた通り、支部の奥の方にある支部長室を目指す。窓からは穏やかな春の日差しが降り注いでぽかぽかと暖かかった。
 ドアの前に辿り着いてノックをすると、はーい、と聞き慣れた声の返事が返ってきたのでドアを開ける。と、支部長用のデスクの横に置かれたデスクに座っていた太刀川と同じスーツ姿の迅が、こちらの姿を認めてぱちくりと目を瞬かせた。
「……え、太刀川さん?」
 開いたノートパソコンの横に紙やらファイルやらの束をうず高く積んだ迅に、先ほどの林藤の言葉を思い出す。まあ、こっちも迅と状況としては大して変わりやしないのだけれど。違うのは、こうしてうまく仕事を抜け出す算段をつけようとするかどうかだ。
「これ、忍田さんから。玉狛支部のチェックとサインが必要なんだよ」
「あー。ありがと」
 太刀川がカバンの中からクリアファイルに入った書類を取り出して渡す。太刀川の言葉に納得した表情になってそれを受け取った迅が、ざっと目を通してまた怪訝そうな表情になる。
「ん? ……これ別に全然急ぎじゃないし、わざわざ太刀川さんが直接届ける必要あったやつ?」
 なんならデータで送ってもらえば、なんて言い出す迅に、太刀川は内心呆れてしまった。戦闘や交渉においては息をするように何手先も読んで打つ手を考える男が、こういう変なところで妙に鈍い時がある
「あのなあ、口実に決まってるだろ?」
 言いながらデスクの縁に手をついて、迅と一気に距離を詰めた。驚いたように唇を引き結んだ迅を正面から見据えた。青い目が小さく揺れるのすら見落とすはずのない距離から、「もう昼飯時なわけだ」と太刀川は続ける。
「仕事熱心すぎる玉狛支部長補佐・迅悠一くんを外に連れ出すのと、最近全然会えてなかった彼氏おまえと昼飯に行くのと、あと俺が仕事を良い感じに抜け出すための口実」
 太刀川の言葉を受け取った迅が、口元に手を当てて眉根を寄せる。視線がゆらゆらと泳いで、その長い指の間から見える口角は困ったように緩んでいた。
「……反省すればいいのか、照れればいいのか、笑えばいいのかわかんないんだけど」
 迅がそんなことを言うので、太刀川は小さく喉を鳴らして笑いながら「全部でいいんじゃないか?」と返してやった。

 玉狛支部から徒歩数分の場所にあるラーメン屋はいつも繁盛していて、丁度昼時という時間帯のため店外にも少し列が伸び始めていた。しかし折角玉狛に来るならば昼飯はここがいいと太刀川が決めていたので、その列に二人で並ぶことにする。地元の人気店というのか、ここは三門市ローカルのフリーペーパーやテレビなどでも定期的に紹介されているような店らしい。
「久々にここのラーメンも食べたかったんだよな~」
 本部所属で家も近くはない太刀川は玉狛方面に来る機会は多いわけではないが、たまにこうして玉狛に来るときや誰かに誘われたとき――例えば諏訪さんたちとの麻雀の帰りだとか――に何度かこの店には来たことがある。太刀川は麺類では圧倒的にうどん派ではあるが、基本的に大体の食べものは好きなので、ラーメンだってたまには食べたくなる。
「あ、そういえば」
 ふと思い出したように迅が言って、尻ポケットに入れていた財布を取り出して開く。何かを探すように財布のポケットを探った後、迅が「やっぱりあった」と言ってオレンジ色の小さな紙を二枚取り出した。
「ほら。味玉サービス券、二枚。折角だから今日使おうよ」
 太刀川にひらりと示すように見せてきたその紙には、このお店のロゴと共に「味玉サービス」の文字が書かれていた。
「お、マジか。流石迅だな」
「実力派エリートですから?」
 褒めてやると、それに乗っかって迅がいたずらっぽくにやりと笑う。それは実力派エリート関係あるのかというツッコミを入れてやるのは野暮というものだろう。
 店は混んではいたが、回転は早い。列の長さに反してそこまで待つこともなく店内に入ることができ、手早く注文を済ませる。注文は二人とも同じで、この店の看板メニューである豚骨醤油ベースのラーメン、それにサービス券で味玉追加。
 注文を終えて一息ついて、運ばれてきたばかりの水の入ったグラスを傾ける。迅も同じように水をごくりと一口飲んでから、テーブルの上にグラスを戻した。
 店内はスーツを着たサラリーマンが中心で、がやがやと良い意味で騒がしい――といっても今や迅も太刀川もある意味「スーツを着たサラリーマン」の一人なのだが。ごくありふれた平日昼間の風景だ。
 ボーダーが、玄界に侵攻してきた主だった国々と一通り停戦あるいは終戦の協定を結んでから、季節は一回りと少しが経った。
 これまでの侵攻の比ではないレベルとなった最後の大規模な近界諸国からの侵攻では、その規模と範囲の大きさ、戦力の強大さにかなりギリギリの戦いとはなったものの、どうにか被害は迅曰く「最小限」に近いところで抑えられたということだった。
 実際、迅がどんな未来の可能性を視ていたのかは、その中での本当に最小限と自分を納得させられるところだったのかは迅本人しか知らない。しかし迅がそう言うのであれば、それでいいのだと太刀川は思っている。人的被害もゼロではなかったし、街の被害も広範囲に出たことに、太刀川も何も思わないではない。しかし失ったものを数えてはずっと後悔の中に留まり続けるのはきっと性に合わない、というか迅はきっとそういう自分を許せない性質なのだろうと思う。ああ見えて迅の心の内側、深いところに不可侵のかたくなな部分のあるやつだ。そして太刀川は、迅のそういうところをこそ好きだと思ってきた。
 侵攻が終結した直後の被害状況の調査、報告、と嵐のような日々が少しだけ落ち着いた頃、本部の廊下でたまたま二人きりになった迅に「……ありがとね、太刀川さん」なんて神妙な顔で言われたから、誰も見ていないのをいいことにその頭をくしゃくしゃにかき混ぜてやった。
 これまで玄界を狙ってきていた主だった国々とは停戦・終戦の協定は結んだものの、停戦はあくまで停戦であるし広い近界はそれ以外にも国は沢山あり、軌道が近付けば新たな国から狙われる可能性もゼロというわけではない。その後ボーダーは引き続き、有事に備えた界境防衛の機関としての防衛能力は保持しつつ、表向きには近界諸国との外交窓口としての機能をメインとした組織に移行しつつあった。そうしてボーダーが形を変えていく中で、ちょうど大学を卒業するタイミングだった太刀川と、そしてこれまで一隊員だからと言ってのらりくらりとやっていた迅も正式にボーダーに就職することを決めた。
 ボーダーも新たな形になっていく真っ只中、内部的な体制も大きく変わっていくし、仕事はいくらでも降ってくる。ただでさえ玄界では世界でも類を見ない組織、前例を参照することもできないから日々検討と検証と選択の連続だ。いくら昔よりも隊員は大勢増えたとはいえ、山のような仕事量に比べまだまだ人手が足りているとは言えないボーダーである。古株でボーダーのある程度深いところまで関わってきたトップクラスの隊員二人がボーダーに就職すると言えば上層部はこれ幸いと「仕事を覚えるため」と言ってどんどん仕事を叩き込まれるようになってしまった。
 現在の役職は、迅は玉狛支部長補佐、太刀川は忍田のもとで本部長補佐。これまで戦闘員だからと言って極力避けてきた書類仕事やら堅苦しいあれこれやら、に追われてあっという間に日々が過ぎていった。
「そっちはどう? 最近」
「同じようなもんだと思うぞ。書類書類、会議、打ち合わせ、パソコンの前と机の前で一日終わる」
「だよねえ。――あ、ありがとうございまーす」
 そんな会話の途中で注文したラーメンが運ばれてきたので迅がお礼を言う。テーブルの上に置かれたできたてのラーメン、サービス券を使ったので二人ともしっかり二つ味玉が乗っていた。そうそう、これこれ、と目の前に出てくると久々の味を鮮明に思い出して口の中に唾が溜まる。割り箸を真ん中で二つに割ってから、いただきます、と言ってラーメンに箸をつけた。
 ずるる、と音を立てて麺を啜る。
(ん、うまい)
 もちもちの太麺にはたっぷりとスープの味が絡んでいて、一口食べるだけで深い味わいが口の中に広がった。薄茶色の豚骨醤油のスープには大きな油の粒が沢山浮かんでいて濃厚そうに見えるのに、後味はさっぱりだ。そのおかげでいくらでも食べられそうな後を引く美味しさで、太刀川も時々ふと食べたくなる味なのである。
 何口か食べた後に、ちらりと目だけ動かして迅の方を見やる。迅も太刀川と同じようにたっぷり掬った麺を口の中に運んだ後、一個目の味玉に箸をつけるところだった。スープのかさは既に太刀川よりも少し多く減っている。相変わらずこいつは食べるのが早い。
 こんなふうに迅と向かい合ってご飯を食べるのも、すっかり久しぶりになっていた。お互いに肩書きは戦闘員の一人というだけの、ランク戦を頻繁にやっていた頃には食堂や本部の近くの店でのランク戦前後での飯も時間さえ合えば恒例のようになっていたし、恋人という関係になってからはなにかと理由があってもなくても太刀川の家に二人で帰って、飯を食って、そして――なんてことも週に何度もあるような日常だったというのに。最近では会議や研修など仕事で顔を合わせることは定期的にあっても、その後すぐ別の仕事が詰まっていたりしてついでにご飯に……とはなかなかいかないことが多かった。
(……つっても、迅がランク戦を離れてた頃はもっと長いこと会わないことも普通にあったんだけど)
 迅が風刃を持ってS級になってからの三年ちょっとの間は、そもそも飯はおろか顔を合わせること自体珍しいことだった。それでも太刀川が隊を組んでからは会議などで顔を合わせることはあったものの、それ以外では迅が太刀川と会うことを意識的に避けていた。それはずっと後になってから決まり悪そうに迅自身も言っていたことで、だから今よりずっと会う機会すら少なかったのだ。
 それでも平気だった。それが次第に自分の「普通」の日々になっていった。あの頃の三年ちょっとはそうしていられたし、それを気にすることも次第に減っていったはずなのに。
 ボーダーの変化と共に太刀川と迅の環境も変わっていって、しかも今の時期は新年度を迎える直前ということもありボーダーにとっても特に繁忙期だ。新しい隊員・職員の手続きや配置、年間計画の策定、戦闘訓練だけではない多岐にわたる隊員や職員への教育カリキュラムの検討といった年度初めだからこその仕事もあるし、今は新たな支部の設立に向けたプロジェクトも動いていたりする。他にも諸々、やることは山ほどある。
 それでも太刀川は適度に休息を取っているが――書類仕事になると途端にサボりすぎだと沢村にはよく怒られているけれど――問題は迅だ。
 いつも表面上はへらへらと適当ぶって振る舞うくせに、変なところで真面目で勝手に背負いがち、責任感も強いうえに昔からエリートを自称している通りプライド、というか自分自身への要求レベルも高いこの男は、今の役職に就いてからというもの早く仕事を覚えてしまおうと根を詰める癖があった。迅がそんなふうだから余計に、ただの一隊員同士であった頃よりもずっと会えるタイミングや時間は減っていた。
(今日だって忍田さんに、書類届けついでに迅をちょっと休ませに行くって言ったら普通に許可されたし)
 迅にはたびたび「忍田さんはなんだかんだ弟子に甘いよ」だなんて言われるのだが、太刀川に言わせれば忍田は迅のことだってなにかと気にかけていると思う。太刀川がボーダーに入隊するよりも前、旧ボーダーと言われる時期から一緒にやってきたから、迅のそういう性質だって分かっているのだろう。そうやってさりげなく見守られているということに、普段は視野が広く人の機微にも聡いはずのこの男は意外なほど鈍感だったりする。迅のそういうところも今の太刀川にとっては、仕方ないやつだよなあと可愛げにすら思えてしまうのだけれど。
 スープに浸かった味玉を箸で掴んで太刀川も口の中に放り込む。しっかりと味の染みた味玉を咀嚼して飲み込んだ後、太刀川は小さく息を吐き出してから言う。
「あーランク戦やりたい。体動かしたい」
 口に出したら妙に実感のこもったような声音になってしまった。自分も迅も、戦闘員から完全に退いたわけではない。忍田からも、いつ有事があるか分からないから常に備えることが大切なのだということを口酸っぱく言われている。ならばランク戦に行かせてくれと言えば、忍田が何か言うよりも先に沢村に「太刀川くんはサボりたいだけでしょ」と顔を顰められてしまったが。
 太刀川の言葉に、迅はふは、と小さく笑う。しょうがないなとでも言いたげな、気が抜けているせいかいやに子どもっぽさの残る表情だった。その顔を太刀川は残り少なくなったスープの中の麺をかき集めながら眺める。
 別に会えなくたって寂しくてたまらないとか、どうしても我慢できないだなんて思うわけじゃない。
 だけど。好きな相手ともう少し顔を合わせる時間を作れたらというくらいは思うのだ、俺でも。

 ありがとうございましたー、という店員の元気な声を背中に受けながら店を出る。青空の下、風に吹かれてはらはらと桜の花びらが舞うように目の前を通り過ぎていった。歩道沿いに植えられた満開の桜の木を見上げて、迅が「もうすっかり春だね~」と言う。丁度良く暖かい穏やかな陽気の中を、二人並んで川沿いを歩いて行く。玉狛はこのまま道をまっすぐ、この後本部に戻らなければならない太刀川はこの二つ先の信号を右折。そこまでは道は一緒だ。
「そういや誕生日。もうすぐだろ、何か欲しいもんとかあるか?」
 太刀川が聞くと、迅は今思い出しましたといったように「あー」と間延びした声を漏らす。
「そうだった。ってもなー、物で欲しいものってそんなにないからな。それよりあんたと、」
 迅が言いかけたところで、正面から風がぶわりと強く吹いてきて髪の毛がかき混ぜられるように揺らされた。ばたばたとすぐ隣の不動産屋ののぼりも音を立てて揺れる。思わずわずかに細めた目を開くと、ちょうど不動産屋からは若い男女が出てくるところだった。新生活の季節ってやつか、と思う。
 あ、と、急に閃いた。一度思ってしまえば、どうして今まで思いつかなかったのだろうと思う。
(でもそれって、こいつが玉狛を出るってことになるんだよな)
 思ってから、そのことにも思い至る。別にこの歳になれば実家同然の場所を出て暮らすのだって何ら珍しいことでもないだろうが、迅が玉狛を、玉狛の仲間たちを大事に思っていることは知っているし、それこそ昔はまだ玉狛のメンバーも今より若かったり幼かったりするやつも多かったから、自分が先輩として、あるいは兄貴代わりとして面倒を見ようという意識が強い節があったのだ。
 けれど、話さずに躊躇うのは自分の性質ではないしな、と思う。かつては――迅がS級になったばかりの頃は、自分だって形の掴みきれないもやもやとした感情を一人で抱えて迅に何も言わず、言えないまま過ごした時期もあったが、今はそうではない。そうではない関係性を改めて積み重ねてきたと思う。
 そう思って隣の迅を見る。と、同じように不動産屋に向いていた迅の目が動いて太刀川を見た。
 意思の宿った、透き通るような青い目が春の日差しを受けて柔らかく光る。
 それを素直に、きれいだなと思った。
 ずっとこの目が好きだった。
 そして、視線が絡む。なんの根拠もないのになぜだか同じことを思っているような気がしたのは、この男と過ごしてきた年月が教えてくれる太刀川の直感だ。
 迅の唇がゆっくりと動きだす。話し出すのは、太刀川よりも迅の方が一瞬早かった。
「……ねえ、太刀川さん。おれ、ちょっと前から考えてたんだけどさ――」




→next









close
横書き 縦書き