在処






 マンションのエントランスを出ると、気持ちの良い青空が広がっていた。高く透明感のある空には雲は数えるほどしか浮かんでいない。冬晴れという言葉がよく似合う天気だ。その分空気はきんと冷えていて、歩き出せばむき出しの耳が冷たい風に触れて寒い。この天気だと初日の出もよく見えただろうな、と思うけれど、結局日付が変わるまでは起きていたものの睡魔に負けて日が高くなるこの時間まですっかり二人してだらだらと眠ってしまった。
 街は普段より静かで、しかし時折すれ違う人たちはみんなどこか楽しそうに見えるおかげで街全体がなんだかそわそわと浮き足立っているように感じられた。別に昨日と何が変わったわけでもないはずなのに、そんな街の空気にあてられて、新たな年の始まりだと改めて思えばあまりそういった情緒に縁のない方だと思っている自分でもどこか新鮮な思いが生まれる。
 隣を歩く太刀川をさりげなく見やる。いつもと変わらない、泰然とあるがままの表情をみせる横顔。
 新しい年の始まりを、この人と一緒に迎えられること。地面を踏みしめながら、去年までとは違う新年にむずがゆさと嬉しさの入り交じったような気持ちを迅は自分の中に感じていた。

「あけましておめでとー」
「あけましておめでとうございまーす」
 中まで届くように少し大きめの声で言いながら支部の玄関をくぐると、最初にリビングから顔を出したのは林藤だった。
「おー、あけましておめでとう」
 迅と太刀川を交互に見て楽しげに笑みをつくった林藤と顔を合わせて、反比例するように迅はじわりと気恥ずかしさが復活してしまいそうになる。いやいやもうこれは腹を括ったんだから、と心の中で自分に言い聞かせるように呟く迅の横で、太刀川は何も気にした風もなくリビングへと歩いていく。この人のこういうとこほんとすごいよな、と迅は思うのだが、以前太刀川に似たようなことを言ったときには「おまえが恥ずかしがりすぎなんだろ」と笑われてしまった。それについては迅はまだ完全に納得したわけではない。
 リビングに入ると、もうテーブルの上には鍋の準備がほぼ完成していた。二つに分かれたテーブルの上にはカセットコンロと肉やら野菜やら食材のたっぷり入った器、人数分の箸や取り皿、グラスなどがセッティングされていて、それにはきっちりと太刀川も頭数に入っている。玉狛のお正月といえば鍋だ。普段から、特に迅が夕食当番の時には頻繁に鍋は玉狛の食卓に出てくる献立なのだが、正月になると普段よりちょっと食材が豪華になる。
 迅にとっては毎年恒例の光景だ。見慣れた懐かしさもあり、しかし同時に不思議な新鮮さもある。太刀川の分が今年から増えているということもあるが、いつもは迅も玉狛の住み込み組として当然のように準備をする側だったのだ。
「あ、迅さんに太刀川さん。あけましておめでとうございます」
 さすが、早々に玉狛に到着して準備を手伝っていたらしい宇佐美がキッチンから声をかけてくれる。正月の食卓準備の中心人物としてキッチンに立っていた木崎、そして宇佐美と同じく木崎を手伝っていた陽太郎にクローニン、ゆりたちにも「あけましておめでとう」と挨拶されたので迅もへらりと笑って「あけましておめでとー、みんな」と挨拶を返す。雷神丸はといえば、リビングの真ん中に座ってのんびりとくつろぎながらそんな玉狛の面々を見守っていた。
「何か手伝うこと……ってももうほとんど準備終わってるか」
 太刀川がリビングを見回した後言うと、「なら飲み物を運んでくれ」と木崎が瓶ビールやジュースのボトルを持ってこちらに示してくる。「太刀川了解」なんて真面目なのかふざけているのか読みにくい声色で返してキッチンカウンターに向かう太刀川に迅も「はーい、レイジさん」と言って続いた。
 今年は、迅がずっと暮らしてきた玉狛支部を出て太刀川と暮らし始めてから初めての正月だった。
 玉狛では、正月のお昼くらいから住み込み組だけでなく通い組も来られる人は来て鍋をつつくというのが毎年の恒例だ。迅も今年は玉狛から出て通い組になったものの、今年もその通り正月には玉狛に顔を出すつもりだった。しかし数週間前の仕事終わりの帰りがけ、そう林藤に伝えると頷かれた後にさらりとした調子で「太刀川も一緒にどうだ」と提案されたのだ。
 迅にとっては思いがけない提案に「いやそんな、太刀川さん玉狛の人じゃないんだし」と言えば、林藤には「でも、おまえの大事な人なんだろ?」と返された。至極真面目な調子で急にそんな言葉を投げかけられて、迅は咄嗟に何も言えなくなってしまった。
「だったら玉狛ウチにとっても家族みたいなもんだよ。ボーダー内部の人間なんだから支部の中に通すのも何の問題もないし、別にいまさら一人増えたって大した手間もかからん。それに、人数は多い方が楽しいだろ」
 そういうことを、楽しそうな――むしろ嬉しそうなくらいの様子で言わないでほしい、と迅は思う。せめて茶化されたならこちらだって返しようはあったのに、そんなふうに来られてしまえば断ろうにも断りづらくなってしまった。だいたい、もし自分が当事者じゃなければ林藤の言葉に自分だって頷くだろうと分かってしまうのがまた厄介で、そうすればこの迷う理由なんて自分の中の気恥ずかしさでしかないのだと気付かされる。
 結局その場では「……、太刀川さんにも聞いてみるよ」と言うのが精一杯で、帰宅後太刀川に一応話をしてみれば「玉狛がいいなら」とあっさり前向きな返事をされてしまったのでもう退路もなくなってしまった。
 そもそも、ボーダーでも古株でありこういう関係になる前から迅や玉狛の面々との交友もあった太刀川である、太刀川が玉狛支部を訪れたりその流れで一緒に食事をしたりするのも初めてのことではないから、双方太刀川が玉狛の食卓に参加することに対して抵抗も少ないのだろう。――そうして、あっという間に日々は過ぎ、今日に至る。

 小南に烏丸、そして来るついでに切れかけていた調味料を買い足しに行ってくれていたという玉狛第二の面々と、次々と玉狛のメンバーが集まってくる。みんな集まったところでカセットコンロに火を点けて、玉狛の正月恒例鍋パーティが始まった。
 飲み物は未成年組のところにはジュースやお茶、成人組のところには瓶ビールがセッティングされている。瓶ビールの栓を開けた林藤が太刀川も、と勧めて太刀川も乗り気でグラスを持ったので、迅は「あんま飲ませすぎないでよ。太刀川さんお酒そんなに強くないから」と先回りして忠告する。絡み酒だとか、風間のようにポストに戦いを挑むみたいな変な悪酔いをするタイプではないのだが、酒が回るのが早くてしばらく陽気になった後すぐ眠くなってしまうタイプなのだ。しかし当の太刀川には全然響いていないようで、「おまえだって俺とそう変わんないだろ~」なんてにやにやと笑われながら言われてしまった。
「いや、太刀川さんよりはちょっと強いからね」
 そう唇を尖らせてから、はっとここが玉狛であることを思い出して慌てて表情を取り繕う。普段玉狛では頼りになる先輩然として格好つけて振る舞っているというのに、太刀川が隣にいるとつい二人きりの時の調子になってしまっていけない。幸い陽太郎や迅を先輩としてよく慕ってくれている玉狛第二のメンバーたちはテーブルが違うので見られていなかったが、斜め前に座っていたゆりには小さく笑われてしまったのでどうにも恥ずかしくなってしまった。
 みんな集まれば、いつも通りわいわいと賑やかな玉狛の食卓だ。昔よりも皆大人になったとはいえ、まだまだ多くは食欲の旺盛な二十歳前後、あっという間にテーブルに出ていた食材は空になってしまってすぐに木崎が冷蔵庫から追加の食材を出してくれる。
 追加の具材がたっぷり投入されたぐつぐつと煮立つ鍋から、正月にしか出されないちょっといいお肉を掬って自分の取り皿に入れる。ポン酢を混ぜただしの中に潜らせてから口に運ぶと、じゅわりと肉の旨味がしみ出してくる。食材の善し悪しなんて迅は正直疎い方だし、普段の食卓で出る肉だって十分に美味しいと思うが、正月に食べるちょっといいお肉は確かに普段のものよりも柔らかいし美味しいと思う。グラスに注いだビールをぐっと煽ると、このほんのりとした苦味と肉の味の名残が混ざり合ってまた美味しい。二十歳になって初めて飲んだ時には正直そこまで美味しいと感じなかったビールだけれど、付き合いと強がり半分で飲んでいるうちに段々とその美味しさが分かるようになってきた。特に、お酒というのはこういう食事との相性がとても良いのだ。これは未成年の頃には知れなかったことだった。
(いやー、大人になるってのも悪くないね)
 少し酒が回り始めて、ぽかぽかと温かさを感じながらそんなことを心の中で呟く。追加でまた取り皿にお肉と、申し訳程度に野菜や豆腐を盛ってからちらりと隣の太刀川に視線を向ける。
 あっという間に場に馴染んだ太刀川は、酒のせいでほんのり頬を赤らめながらも林藤や小南、あるいは元は自分の隊の隊員でもあった烏丸をはじめとする玉狛の面々とにこにこ上機嫌な様子で話したり鍋をつついて美味しそうに煮立った肉や野菜を美味いなーと言いながら口に運んだりしている。元々玉狛の面々とは知らない間柄ではないといえど、迅が勝手に一人でぐるぐる葛藤していたのがばからしく思えてしまうくらいの馴染みっぷりである。太刀川はよく知らない相手からは分かりにくいと思われていることも多いようだが、その実裏表が無いゆえに気安く、人懐っこい面があるのだ。
 いつもの風景の中に、太刀川がいる。
 一緒に暮らすと決めたときに、玉狛の面々及び双方に近しい人間には太刀川との関係を話していた。――結果として、まあ当たり前と言うべきか今やこの関係のことはボーダー中に広まっているのだが、まあそれも覚悟の上だったので構わない。
 しかしこういう場にこうして太刀川を連れてくるというのは、改めて太刀川を自分の特別なのだと示しているようでどうも気恥ずかしかった。そんな思いを太刀川に言えば「今更すぎるだろ」と笑い飛ばされてしまったのだが、しかし長い間あえて自分のことを「掴めない男」に見えるよう振る舞ってきた癖もあって、迅にとっては自分の個人的な部分を人に示すような真似はどうにも恥ずかしくて落ち着かないことだった。
 だけど。
 自分のいつもの場所に、自分にとって家族のような大切な景色のひとつの中に、大好きな人がいる。
 そのことに、言葉にはうまくできないような、あたたかな嬉しさが迅の中に広がっていくのも事実だった。

「いやー、うまかった」
 支部を出る頃には日はすっかり傾いて、抜けるような青色だった空は茜色に染まっていた。太刀川はすっかり上機嫌な様子で――基本的にこの人が上機嫌じゃない時の方が珍しいくらいなのだが、それに輪をかけて――そう言って軽く伸びをする。その頬はアルコールのせいでほんのりと赤く染まっているけれど、自分だって似たようなものだろう。先に忠告しておいたおかげなのか、それとも意外とこういう場ではちゃんとしている太刀川の性質なのかは分からないが、ちゃんと意識はしっかりしている範囲で酒量は調節してくれたようだった。ボーダーの同世代の仲間のような気心知れた人たちや二人で家で飲んでいるときなんかは、太刀川は最終的にすやすやと気持ちよさそうな寝息を立てて眠ってしまうこともしばしばあるのだ。
 準備をあまり手伝えなかったから片付けを手伝おうかと木崎に申し出たが気にしなくていいと言われてしまったので、お言葉に甘えることにして食べるだけ食べて片付けはお任せしてこうして太刀川と二人で帰路についている。まあ玉狛での夕食当番はいつも通り回ってくるので、その時はちゃんとすればいい。普段とは少し違う正月となった迅に対する、木崎なりの気遣いとか優しさとかそういうものだったのだろうと思うとくすぐったいような思いにもなったが、今回は木崎の気持ちをありがたく受け取らせてもらうことにした。
 外はやはり寒いけれど、太陽の光がしっかり降り注いだ分午前中よりは幾分あたたかい。お酒を飲んで、自分の体が内側からぽかぽかと温まったせいもあるかもしれないが。
 迅にとって帰る場所だった玉狛が、外から訪れる場所になった。玉狛を出て、太刀川と同じ帰り道を歩いている今を、ふと不思議に思う瞬間がある。
 玉狛を出るなんて、長いこと想像したことすらなかった。縛られているなんてつもりはなかった。だけど、迅にとって幼い頃から住み慣れた玉狛は自分の「家」であって、玉狛が好きで、だからこの場所を出る理由も発想もなかった。
 けれど、太刀川を好きになって。共に時間を過ごして、年月を重ねて、太刀川の隣にいることが自分にとって自然なことになっていって、そうしていくうちにふと考えるようになったのだ。
 この人と一緒に暮らせたら――なんて。
 好きな人ともっと一緒に過ごしたい、なんて言葉にすればありふれてかわいらしいような願いだ。そんなものが自分の中に生まれるなんて自分でも驚いたけれど、一度思いついてしまえばその願いをどうにも諦められそうになかった。この人のことになると、自分は随分とわがままで諦めが悪くなる。自分でも厄介だと思うこの性質を、太刀川はそれこそ欲しいのだと、それがおまえだろなんて楽しげに笑っていつだって受け止められてしまうから止めようもない。
 二人分の長い影を連れて、静かな街をのんびりとした歩調で歩く。その途中、不意に遠くに商店街の入口が見えて、それを見た瞬間懐かしい記憶が迅の中に呼び起こされた。
(あ、ここ……)
 それは高校生の頃。まだ迅がS級に上がる前、太刀川と毎日のようにランク戦をしていた時期、太刀川と放課後になるやいなや競うように本部に向かう最中に、よく寄り道をしてコロッケを買い食いしていた商店街だ。
 ――太刀川と過ごす時間が楽しくて、太刀川への恋情を自覚しそうで、でも自覚したくなくて。そんな思いを抱えていたあの頃のことが胸の内に蘇る。
「お、懐かしい」
 と、隣の太刀川も声を上げる。太刀川の方に視線を向ければ、太刀川も先ほど迅が見ていた方――商店街の入口を見ていた。
「あそこのコロッケ、久々に食べたくなるな」
 そう言って懐かしそうに目を細めて笑う太刀川を、迅は見つめた。
 今、きっと同じ記憶を思い出している。
 それになんだか、自分でも驚くくらいに嬉しい気持ちになってしまった。
 あの頃はまだ知れなかった未来。自分は「未来視があるから、先のこともよく分かってるんでしょ」と人には思われることも多いけれど、本当はそんなことはない。ずっと以前から確定している未来なんて実のところ極めて少ないものなのだ。たくさんの分岐を通り過ぎて、数え切れないほどの可能性の中から選び取った今この瞬間があるのだということを、未来視を持っているからこそ自分はよくよく知っている。
 あの頃は認められなかった思いを、あの頃に伝えられなかった気持ちを今も抱えて、今はこの人と共有して、そうして今のおれは生きている。
「そんなこと言われたらおれも久々に食べたくなっちゃうな。今日はお正月だからやってないだろうけど」
「うわー、そうだな。じゃあまた今度、仕事の帰りにでも買って帰って……」
 言いかけた太刀川が、ふと何かを思いついたように言葉を止めた。そうして迅の方に顔を向けて、にやりといたずらっぽく笑う。
 こういう時の子どもじみた表情は昔からずっと変わらない。好きだな、と、素直に思う。
「いや、やっぱ今度二人とも休みの時に来よう。久々に買い食いしようぜ」
 そんなことを言われて迅は、ふは、と笑ってしまった。
 どうしてこの人といると、こんなに楽しいんだろう、とこんなに長いこと一緒にいても自分でも不思議に思う。だけど、もうずっとそうなのだからきっとこれからもそうなんじゃないかと思うのだ。サイドエフェクトを使わなくたって、太刀川と過ごしてきた時間と思いがそれをなにより強い確信に変えてくれる。
「いいね。乗った」
 そう言って、太刀川を真似てにやりと口角を上げてみせる。そうしたら、そんな迅を見た太刀川が満足そうに「決まりだな」と言って笑ったのだった。






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