機嫌の悪い迅悠一×「満足したか?」という太刀川慶
きっかけは本当にどうでもいい――どうでもよすぎて、正直あまり覚えていないほどだった。その時はたまたまおれの虫の居所が珍しいくらいに悪くて、だから普段なら苛立つどころか笑って終わるようなこともなんだかうまく流せなくて、それであの人にあんな態度を取ってしまった。
子どもだったなと自分でわかっている。でもあの時は、どうにもできなかったのだ。
本部の廊下に自分の靴音が大きく響く。予定時間を大幅に超過した会議とついでの暗躍のおかげで、もうすっかり遅い時間になってしまった。防衛任務担当か当直以外の隊員や職員がほとんど帰宅した後の本部は静かで、人気もほとんどない。
――ただひとりを除いては。
廊下の角を曲がると、少し前に視た未来視通りの姿の彼がそこに立っていた。壁にもたれた私服姿の太刀川が、こちらの姿を認めると開口一番に言う。
「満足したか?」
そしてこの言葉だったものだから、迅は思わず喉を鳴らして笑ってしまった。
「敵わないよなあ、バレてんだもん」
「おまえ途中から結構分かりやすかったぞ」
「えー、そう? おれ食えない実力派エリートでやってるつもりなんだけど」
「だとしたら詰めが甘いな」
ふたりきりの廊下にそんな会話が静かに響いて、そして迅はふう、と短く息を吐いてから再び口を開いた。
「ごめんね、途中からあんたが珍しく困った顔してるのが面白くなっちゃって、つい」
「ひでー彼氏だなぁ」
そう呆れたように言う太刀川に、しかし彼が本気でそう思っているわけではないことも知れて、なによりその彼氏という言葉にうっかり嬉しくなんてなってしまったから自分の単純さに笑えてしまった。
正直もう、今朝の自分はなんであんなに怒っていたのかすらも覚えていない。だけど、あからさまに不機嫌な態度を取ったらこの人が珍しく困った顔をしてこちらを構おうとしてきたのがなんだか面白く、そして可愛く思えてしまったのだ。だからつい、不機嫌な振る舞いを直すタイミングを失ってしまった。
「そのひでー彼氏と付き合ってくれてる太刀川さんがおれは好きだよ」
だから、と手を引こうとしたところで、今朝からの非礼はもうちょっとちゃんと詫びないとなと思う。
軽口でうやむやにするのは気楽で、だけど、おれはそういう関係をもう太刀川さんとはつくりたくないなと思ったのだ。おれにとってこの人のことが、あまりにも大切なのだと自覚してしまったから。
「……今朝は八つ当たりした。ごめん」
言えば、太刀川はふっと口元を緩ませる。よくできました、と言わんばかりの顔で、こんな時ばかり年上ぶってくるひとつ年上の恋人に、迅は少しだけ耳に熱が集まるのがわかった。
こちらから触れるより早く太刀川の手が伸びてきて、その長くて無骨な指が迅の指に絡む。そしてぐいと手を引かれたので、迅は危うくつんのめりそうになるところだった。
「今夜うちに泊まるんなら許してやるよ」
そうしてこの人はこんなことを言ってくれるのだから、もう。
「……太刀川さんは、おれを甘やかしすぎじゃないかなあ」
思わずそんなことを零せば、太刀川は「そうか?」と不思議そうに言ってから、そしてこちらの言い訳を塞ぐみたいにまた手を引いて「ほら」なんてすっかり機嫌良さそうに笑うのだ。