「待ってたよ」という迅悠一×霧の中を歩いている太刀川慶
夢を見ていた。
繰り返し見る夢だ。数歩先すらも見えないような深い霧の中に自分がいて、霧を掻き分けるように歩いている。自分がどこに向かおうとしているのかも分からないのに不思議といつも迷いはなかった。ただ足だけは前に向かって、ほとんど何も見えないのに怖さもなく。
そうしてしばらく進んだら、急にぱっと霧が晴れる。清々しいほどの青空が現れてその眩しさに目を細めれば、その真ん中に青い服を着た男が立っていることに気付く。見慣れた男だ。だから名前を呼ぼうとしたら、それよりも早く相手が口を開く。いつもの軽やかな、少し軽薄そうな――だけれど静かな響きをもって、その唇がゆっくりと動くのを太刀川は見ていた。
「待ってたよ」
その声を聞いていつも目が覚める。そうして、ああこれは夢だったかと落胆してから、落胆した自分に呆れるのだ。
ぱちぱちと目を瞬かせて、太刀川はここが自分の隊の隊室であることを認識する。どうやらソファで寝落ちていたらしい。もぞりと体を起こすと、「あ、起きました?」と声が降ってきた。出水だ。
「夕方になったらランク戦ブース行くって言ってたのに起きないから、そろそろ起こしたほうがいいかなと思ってたとこでした」
「あー、もうそんな時間か?」
「B級の隊長会議ももうそろそろ終わってるんじゃないですか? あ、米屋も今日は隊のミーティング終わったらランク戦やるって言ってましたよ」
「お、それは行かなきゃな」
時計を確認すると、たしかにもうすっかり夕方だ。この時間ならランク戦ブースはきっと賑わっていることだろう。太刀川は立ち上がって、「じゃー、あんま遅くなんなよ」と自隊の隊員たちに言って隊室のドアを開ける。はーい、とのんびりとした調子の返事を聞きながら廊下に出てランク戦ブースの方へと足を向けた。A級の隊室が集まる廊下はちょうど人があまりおらず静かで、だから太刀川はぼんやりと先ほどの夢のことを思い出していた。
見慣れた――だけど、最近は現実でもあまり顔を合わせなくなった男。玉狛が正式に支部として独立してからというもの、いよいよ迅はぱったりと本部に来なくなった。いや、たまに会議やら呼び出しやらで来てはいるらしいのだが、互いに正式に参加する大きな会議の時以外はほとんど太刀川は姿を見ることもない。一時期――互いに高校生で寝ても覚めても相手とのランク戦のことばかり考えていた、あの頃とは大違いだ。
あんな夢を見て、俺はあいつをどうしたいんだろうか。どうなりたいんだろうか。そんなことを思う。あいつに会いたいのか、そして。
(……待ってたよ、って)
そして言う言葉もおかしいだろう、と太刀川は思う。夢は深層心理とか言われることもあるが、俺はあいつにその言葉を言ってほしいのか?
「……待たせてんのはおまえのくせに」
ぽつりと、自分にしか聞こえないような本当に小さな声で太刀川は呟く。それは自分以外の誰の耳を揺らすこともなく廊下にしんと消えていくだけだった。
待たせている、という表現も適切ではないかもしれない。だってあいつが帰ってくる保証なんてないし、おそらく帰ってこない可能性のほうが高いだろう。だけど太刀川にとっては、『待たせている』という言葉が一番しっくりくる気がしていた。
だって俺は、あいつ以外には。
それはもうこの数年で太刀川が痛感したことだった。自分の中のこの場所を埋めるのはあいつしかいないのだと。あいつに埋められるのを、今でも未練がましく俺は心の底でずっと待っているのだということを。
この思いを抱えて生きる覚悟もある。だというのに、あんな夢を見てしまう。困ったものだ。それこそ霧の中を歩く気分にもなるというものだ。
あいつがいなくても、毎日は楽しい。ランク戦だって最近はまた結構楽しくなってきた。だけど。
あと数歩歩けば、この霧は晴れてはくれないか。そうしてその先にあいつが立っていたなら――俺をその目に映してくれたなら。
気づけば廊下の遠くにランク戦ブースが見えてきた。遠目にも賑わっていることが伺えるそこに目を向けて、太刀川は気持ちを切り替える。
こんな埒もないことを考えていたって仕方がないから。
歩いていくにつれ、入り口近くにいたいつものランク戦大好き野郎どもの何人かがこちらの姿に気付く。そしてぶんぶんと楽しそうに手を振られて、太刀川もへらりと笑ってそちらに合流するのだった。