古い文庫本を読んでいる迅悠一×どうしても相手を手に入れたい太刀川慶




 見慣れた男の見慣れないさまに太刀川は一度目を瞬かせて、しかしそれにひるんで声をかけるのを躊躇うような間柄ではない。「よお」と声をかけて近付くと、その男は顔を上げてこちらを認識するといつもの飄々とした表情になってへらりと笑う。
「あ、太刀川さん。奇遇だね」
「珍しいことしてるからびっくりした。本?」
 太刀川が聞くと、迅は「ああ、うん」と手元の文庫本に視線を落とした。迅が公園のベンチに座って読んでいたのは、本――それも見るからに古い文庫本だ。
 太刀川の知る限り、迅は読書家というわけではない。というか、漫画や教科書以外の本を読んでいる姿なんて太刀川の記憶にはなかった。勿論互いの全てを知っているなんてわけはないから、迅が意外と本好きだということを太刀川が知らなかっただけの可能性もないではない。しかし古い文庫本を読んでいる迅、というのがあんまり太刀川の中のイメージにはなくて少し驚いてしまったのだ。
「随分古いやつ読んでるんだな。おまえ、本好きだったのか?」
 迅が座るベンチにはもう一人分の空きがあったので、そこに腰を下ろしてみる。迅は気にした風もなくそれを受け入れた。三門の中でも広い公園だ、休日ということもあり親子連れや犬の散歩に来た人たちなんかで穏やかな賑わいを見せている。子どもたちが遠くの遊具で元気に遊ぶ声を聞きながら、太刀川は迅の返事を待った。
「ん?、普段は太刀川さんが知ってる通りほとんど読まないよ。だけどこれは、……なんだろうな、この季節になると思い出すっていうか……なんか久々に読みたくなるんだよね」
 知りたいのかもしれないな、と誰に聞かせるでもなく小さな声で呟いた迅の言葉の真意を、太刀川は汲み取ることができない。ただ恐らく、太刀川の知らない昔のことに関係しているのだろうということは想像がついた。太刀川と迅が出会う前、太刀川が知らない時代――迅が心の奥底でいまも何かを静かに後悔しているであろう時代のこと。迅がこんなふうにどこか遠い目をするときは、いつもその頃に関係しているものだから。
 無理に聞こうとは思わない。迅の思いも記憶も後悔も、全部迅のものだ。
 太刀川のものじゃない。奪おうとするつもりもない。
 だけど迅がいま、すぐ隣にいる太刀川のことを見ていないことが無性に寂しくなってしまった。そんな嫉妬なんてばかげていると思ってから、ああ俺はどうしてもこの男を手に入れたいんだなと知る。
 迅のことが好きだ。たぶんそういう意味でも。好きで、好きでいるだけじゃ足りなくて、こっちを見てほしいと思う。迅をものにしたいと思っている。全部じゃなくていい。ただこの男の特別でありたい。それは逆も同じで、こちらはその準備はとっくにできているっていうのに。
 それをどう言葉にすれば伝わるのだろう。こういう一言じゃ言えないような思いを正確に言葉にするのは、太刀川はあまり得意ではないのだ。
 だから、ぼすん、とぶつかるようにして迅の肩を小突くと、迅は驚いたように「うわ」と言う。視えていなかったのだろうか。そんな反応に少しだけ気持ちが晴れる。
「なんだよ、太刀川さん」
「なあ、今日時間あるなら――それ読み終わってからでいいから、本部来いよ。ランク戦やろうぜ」
 太刀川が言うと、迅は少しだけ意外そうな顔をしてから小さく微笑んだ。ぱたん、と手の中の本を閉じる音が太刀川の耳に届く。
「これ何度も読んでるから、別に今どうしてもってわけじゃないんだ。いいよ、戦ろうよ太刀川さん。おれもあんたの顔見てたら戦りたくなってきたとこだったんだ」
 迅は言うなり立ち上がって、ズボンの後ろのポケットに文庫本をねじ込む。
「今からでもいいんでしょ?」
 そう好戦的に笑う迅の目はいままっすぐに太刀川を見ていて、それに一気に充足した気持ちになる。ころころ変わる気分が自分でもおかしい。太刀川をこんなふうにするのは迅だけだ。
 これが恋なのかもしれない。
 そう思いながら太刀川も立ち上がる。「勿論」と言って、迅を見つめてから、本部に向けて二人並んで歩き出した。





→next






close
横書き 縦書き