ハニーベイビースイートチョコレート




 深夜の防衛任務を特に大きな問題なく終えて、自宅近くまで帰り着く頃にようやく遠くの空が白み始めていた。早朝の三門の街は静かで、歩いている人もほとんどいない。まして、警戒区域にほど近いこの辺りであれば尚更だった。薄明かりに照らされた空には雲一つなく、夜明けの街はきんと冷えている。太刀川の吐いた息が冷たい空気を一瞬白く濁らせてから、じわりと溶けるように霧散していった。
 空腹感を覚えて、そういえば冷蔵庫にほとんど食べ物が入っていなかったことを思い出す。とりあえず朝飯になりそうなものを、と自宅アパートから一番近いコンビニで調達することにする。静かな街の中でいつもと変わらず煌々と明かりを灯すコンビニはいやに目立っていて、しかしコンビニの中に入ってみれば眠そうな店員と太刀川以外は誰もいなかった。いらっしゃーせー、とどこかやる気の無さそうな店員の挨拶が店内に響く。
 太刀川はおにぎりのコーナーとパンのコーナーをそれぞれざっと見た後、適当なパンを掴んでレジに持って行こうとする。と、その途中で何やら華やかなポップで飾り付けられた特設コーナーが出来ていることに気が付いた。目を向けてみれば、そこには色とりどりのかわいらしい、あるいは上品なパッケージが並んでいる。どうやらチョコのようだ――なるほど、もうそんな時期か、と太刀川は思った。すっかり忘れていた。
 あと数日でやってくる二月十四日――バレンタインデーといえば、太刀川隊にとっては義理チョコとして国近が買ってきてくれたお徳用のチョコ菓子を隊員たちで食べる日である。国近と出水は一粒サイズのチョコをつまみながら仲良くゲームをして、太刀川も適当なチョコを選んでかじり、唯我は大量生産のチョコはどうとか高級チョコはどうとかごちゃごちゃ言いながらもなんだかんだで美味しく頂いている。そういえば烏丸が居た頃はどこからともなく大量のチョコが積まれてたな、なんてことも思い出す。
 そんな感じで、太刀川にとっては隊室のお菓子がチョコになる以外は特に変わりの無い日だ。あとは同級生のよしみで、加古なんかに会った時にも義理チョコを貰うくらいか。
 目の前にずらりと並べられたチョコレートのパッケージを眺めて、最近はコンビニにもこんな本格的なチョコが売ってるんだなー、なんてどこか感心するような気持ちになる。とはいえそのコーナーは眺める以外に特に自分は用は無いので、太刀川は朝食用のパンを片手にレジに向かおうとする。
 と、ふと思いついて太刀川は立ち止まる。ある一人の男の顔が脳裏に浮かんだのだ。
 そういう関係であることは間違いない。しかしお互い、イベントごとにさして興味のあるタイプでもない。向こうだって別に、太刀川同様この日に対して当事者として特別な思いなど持っていないだろう。けれど――それはそれで面白そうだ、と思ってからの太刀川の決断は早かった。
 胸中に浮かんだそれは、かわいらしい恋愛感情と言うには程遠い、どちらかといえば悪戯を仕掛ける子どものような気持ちだった。思いついてしまえばついわくわくしてしまって、向こうがどんな顔をするのか見てやりたくなった。もしかしたら未来視で事前に読まれてしまうかもしれないが、まあそれはそれで、だ。
 そう想いながらくるりと踵を返した太刀川は先程見ていたバレンタインチョコのコーナーの前へと戻り、さてどれがいいだろうと眺める。あの男の顔を思い浮かべれば、自然と口角は上がっていた。



 ◇



 数日前に太刀川と本部の廊下で偶然会った時に視えた未来の意味を、迅はうまく捉えかねた。一瞬自分のサイドエフェクトの不調を疑ったほどだ。だってそんな、似合わなすぎるでしょ。あんな可愛らしいハート型の、明らかに本命っぽいチョコレートの包みを持っている太刀川さんなんて。
 数日後がバレンタインだということは迅も覚えている。だからああいうチョコを持っているということの意味は頭では分かるのだけれど、しかしそれが太刀川とどうも結びつかない。その上それを眺める太刀川はいやに上機嫌なようで、それもまた気になってしまった。
 ボーダー内部で太刀川を慕い信頼する人間は多く居れども、太刀川に恋愛感情を抱いている女子の話は少なくとも迅は聞いたことはなかった。とはいえ迅のサイドエフェクトは人の心が読めるといったようなものではないし、ボーダーもC級まで含めれば迅ももう把握しきれないほどの人数がいる。それに太刀川は大学生でもあるから、大学の交友関係の方で何かあるのかもしれない。迅だって太刀川の全てを知っているわけでは到底ないのだから。
 迅と太刀川は恋人同士だ。付き合いは至って良好、お互いの浮気を疑うようなこともない。互いの気持ちがブレていないのなら別に太刀川が誰かの本命チョコを貰おうと迅には関係が無いと言えばそうだし、誰だって自分宛のチョコを貰えば少なからず浮かれてしまうだろう。迅だってきっとその立場になればそうだ。そこに干渉するのも嫉妬するのもお門違いだ――そうは思いながらも、自分の恋人が本命らしいチョコを貰って上機嫌になっているのはやはり正直面白いものではなくって、迅は自分の狭量さに呆れてしまう。しかし面白くないものは面白くない。
自分が恋愛感情ひとつでこんなに簡単に感情を乱されるなんて知らなかったし、知りたくもなかった事実だった。



 本部で会議や今後の防衛に関する上層部との細かな情報共有、打ち合わせを終えた後、時間あるかと聞いてきた太刀川に半ば拉致されるようにしてランク戦を十本だけしてから太刀川の家に二人で帰宅する。ランク戦に復帰して、そして太刀川と恋愛的な意味で付き合うようになってからはこれがお決まりのコースのようになっていた。
 迅が本当に時間が無い時は流石に太刀川も察して引き下がるが、少しでも時間を空けられそうだと気付けば時間あるかあるだろランク戦やろうぜ、と迫ってくる。しかしそれが迅自身も嫌ではないのだから困りものだった。太刀川さん、圧が強い、と以前一応窘めるように言ってみたけれど、けどお前なんだかんだ実力派エリートは忙しいから~なんて言って逃げるだろと太刀川は迅のモノマネで言ってみせてから鼻を鳴らした。それに言い返す言葉が咄嗟に見つからなかった自分の負けだ。
 忙しいのは本当だけれど、迅だって太刀川とのランク戦をやりたくない訳がないのだ。少しだけと思ってやり始めると夢中になって自制が効かなくなりそうな己を律するために、今は色々と動かなければならないことが多い時期だからと控えめにしようとしているだけで。
 途中でコンビニに寄って夕飯を買って、太刀川の家で二人でそれを食べる。太刀川はきつねうどん、迅は親子丼だ。食べ終わってプラスチックの容器を水で簡単に洗い流してゴミ箱に捨てる。歯磨きもして一息ついて、そろそろ風呂にでも入るかというところで太刀川が何か思い出したように「あ」と言う。
「太刀川さん? どうかした?」
「んー、ちょっと待ってろ」
 太刀川はそう言いながらキッチンの方へ逆戻りしていく。何だろう、と思ったところに、先日視たものに似た未来視がふっと眼前に現れる。迅が思わず目を瞬かせたところに、その未来視にキッチンから戻ってきた現実の太刀川が重なった。
「これ」
「――は?」
 太刀川が持ってきたのは、可愛らしいラッピングをされたハート型の箱。そう、先日と経った今未来視で視たものだ。どこからどう見てもバレンタインチョコでしかないそれは、間違いなく太刀川から迅に向けて差し出されていた。
 まさかこのチョコが自分宛だなんて思ってもみなかった。というか今もちょっと信じられていない。だって太刀川がこんな可愛らしいチョコを自分に向けて選ぶなんて誰が想像できるだろう? だからついそんな間の抜けた声を出してしまったのも仕方の無いことだと迅は思う。
 そんな迅の反応に、太刀川はわざとらしく唇を尖らせてみせた。といってもそれは振りだけで、本当は別に拗ねてなどいないことはその爛々と面白がるように迅を見るその瞳から明らかだった。
「は? はひどいだろお前。仮にも恋人だろ、何もおかしくないだろ」
 恋人、というまだ慣れきっていない響きに心臓が僅かに音を立てたのは太刀川には気付かれていない、と信じたい。迅は誤魔化すみたいにかぶりを振って言う。
「いやまあおかしくは――いややっぱおかしい、太刀川さんこんなことするキャラじゃないじゃん」
「何だよ、勝手に俺のこと決めつけんなよ」
「でもさあ」
 なお言い募ろうとする迅を遮るように太刀川が口を開く。
「読み逃してたか?」
 そう言う太刀川がにやりと口角を上げていやに嬉しそうに迅を見つめるものだから、迅は眉根を寄せて肩をすくめてしまった。
 どうもこの男は迅の予知を覆すことをやたらと喜ぶきらいがある。それが迅に対するライバル心、太刀川の負けん気だと思えば悪い気はしないどころかこちらだって心が疼いてたまらない気持ちにもなるし、そんな迅に対しては子どものように対抗心を剥き出す太刀川に愛しさや優越感のようなものだって正直芽生えはする。しかし太刀川のそういうところを迅も内心では喜んでしまっていることがバレるのもまた恥ずかしいものだった。だからせめて格好くらいは取り繕わせて欲しい。
 今は、太刀川の迅へのライバル心に喜ぶ自分が半分、この現状を上手く予知することができず予想外の展開を持ってきた太刀川に負けたようになっている自分に対する悔しさが半分、だ。
「視え……てなかったわけじゃないけど、まさか太刀川さんが渡す側だとは思わなかった、そんなかわいいチョコ」
 迅がそう言うと、ふふんと鼻を鳴らした太刀川の言葉に得意気な色が乗る。
「かわいいだろ、コンビニで売ってた中で一番それっぽいやつ選んできた」
「太刀川さんのそういう謎のノリのよさなんなの」
 どこまでも楽しそうに言う太刀川に、なんだか力が抜けてしまう。迅ははあ、と大きく息を吐いた。あーあー、あの未来視で拗ねていた自分がばかみたいだ、と思う。というかここまで見事に読み間違えるなんてちょっと自信をなくしてしまいそうだ。思い込みというのは怖いものだ、と心に刻む。そりゃこの人は何もかも予想外規格外の人だけどさあ――。そう考えていたところに、太刀川は「……あ」と言って何かピンときたような表情になる。
「もしかして、前に会った時なんか妙にピリついてたのそれでか? 俺が貰う側だと思ってたとか?」
「なっ……」
 言われて、迅は咄嗟に言葉を継げなくなる。確かに前に太刀川と会った時にこの未来視を勘違いしてモヤモヤとした気持ちになったのは確かで、しかしそれを表情や態度に出したつもりは一切なかったというのに。そこまでバレていたなんて恥ずかしくてたまらないではないか。
 そんな迅を見て、太刀川は堪えきれないようにくくくと笑う。それに迅はまた自分の顔に熱が集まるのが分かった。ああ、太刀川への恋愛感情を自覚してしまってからいつもこうだ。いつだって冷静さを忘れないようにしてきたしそうできてきたと思うのに、太刀川の前では――とりわけ太刀川との恋愛に関しては、自分の感情をうまく操縦しきれない。そんな自分が恥ずかしく情けなく、しかし太刀川はそんな迅を面白がってその上かわいいやつだななんて言ってくるものだから居たたまれなくて仕方がなかった。
「そりゃチョコを貰ったら嬉しいけどな、心配することでもないだろ」
「心配っていうか、別に心配してたわけじゃないけど、なんていうか」
「なんていうか?」
 迅の言葉尻を逃さず太刀川は復唱してみせる。太刀川は迅を面白がるスイッチが入ってしまったようで、こうなった太刀川は迅が白状するまで折れてくれないだろう。基本的に太刀川は迅が本当に言いたくないことは無理に聞こうとする男ではないが、これはそういう類の話ではなく単に迅が恥ずかしいから言いたくないというだけの話だということを既に察されている。数秒の沈黙の後、迅は観念して吐き出すように言ってみせる。
「……、自分の恋人が明らかに本命っぽいチョコ貰ってたら、まぁ面白くはないよね」
 もう半分自棄のような気持ちで、恋人、という単語を少し強調するように言ってみせるが、太刀川は何も気にした様子なくあっさりと返してくる。
「ああ、要は拗ねてたのか」
「……」
 そんなに簡単な言葉で纏められてしまって、しかしそれが完全に図星なものだから迅は何も言えなくなってしまう。そんな迅の様子に、なっはっは、と太刀川は悠然と笑ってみせるので迅はどんな表情をしていればいいのか分からなくなってしまった。
「でもその本命チョコはおまえ宛だったんだからよかったじゃねーか」
「……それは、そうだけど、そうだけどさあ」
 それは嬉しい、間違いなく嬉しい。しかしこの居たたまれない気持ちはどこに持っていけばいいのか。歯切れの悪い返事をする迅に、太刀川はにやりとどこか悪戯っぽく、挑戦的に笑ってみせる。
「自分で言うのもなんだが、俺は結構好きなやつには一途だと思うぞ?」
 それは今この話だけではなく、少し前までの数年間――迅がランク戦を離脱していた期間のことも含ませていることに気付いてしまって、もう。
 伏せ気味だった睫毛を上げて、太刀川と正面から視線をぶつけ合わせる。太刀川は逸らさない。格子模様のその特徴的な瞳が迅をまっすぐに見つめることに、どうしようもなく煽られる自分がいた。返事の代わりのように衝動のまま噛みついた唇は柔らかくて熱くて、触れ合わせた場所から互いの温度がぐんと上がる気配がした。



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