ナヴィガトリア
振り返った青い瞳が、太刀川をとらえた。ブースから出てきてなお入った時と変わらない五体満足のトリオン体のままの迅の目は、今は薄いブルーのサングラスに覆われている。いつもだったら太刀川をまっすぐに見据えて強い色を揺らす瞳が、口では大人ぶって素直じゃないことばかり言うこの男の何より雄弁だと思っていた青が、その時は驚くほどどんな感情も読み取ることができなくて。自分と迅の間に、あんな風な分断を感じたのは初めてのことだった。
こちらを見ているのに、見ていなかった。迅はもっとどこか遠くを見ていて、それに太刀川の介入する隙なんて与えられなくて、それはあの頃の自分にはどうしようもできないことで。
それが、ひどくさみしくてくやしかったのだ。
◇
数時間前に降った通り雨も、防衛任務が終わる頃にはすっかり上がっていた。もう雲すらほとんど空には残っていなくて、煌々と光る月と、その周りにちらちらと星が瞬いていることまでしっかり見て取ることができる。
夜の警戒区域はしんと静かだ。次のシフトの隊に引き継ぎをして、今夜の任務は終了である。換装を解除して、帰る方向が違う出水や唯我たちと別れて太刀川はゆっくりとした歩調で歩き出す。トリオン体で居た時には気にならなかった、突き刺さるような寒さと吐いた息の白さに冬を実感する。きんと冷えた夜はいつもだったら空気はからからに乾いているはずだけれど、今夜は先程の雨のせいで雨上がり特有の纏わり付くような湿気をうっすらと纏っていた。
今日は門もあまり開かなかった。ここ数ヶ月は比較的門が活発に開いていたから、何だか拍子抜けするような気持ちがある。こんなことは言う相手を間違えれば不謹慎だと言われてしまいそうだが。
(ま、そりゃあ、あんだけやりあった直後だしなあ)
この玄界を狙ってくる近界の国々は一国ではない。しかしここ最近何かとちょっかいをかけてきていた国と大規模な戦闘があった直後だ。他の国の動きはなんとも言えないが、ひとまず向こうさんがまたすぐ同じ規模でけしかけてくるという可能性は高くはないだろう。
ぱしゃり、と小さな水たまりを踏んでしまって、足下で水が小さく跳ねる。警戒区域を抜ければ、太刀川の自宅まではそう遠くない。警戒区域に近い、という理由で破格の家賃の安さとなっていたアパートで一人暮らしを始めたのは、太刀川が大学生になるのと同時だった。警戒区域に近いということはボーダー本部基地にも近いということで、本部に行きやすく家賃も安いというならば太刀川にとっては願ったり叶ったりの物件であった。
しばらく歩いて、自宅アパートが見えてくる。そのまま帰宅する前に、太刀川は手前にあるコンビニに立ち寄った。少し遅めの夕飯を調達する為だ。コンビニの自動ドアをくぐると、すぐ横に三門ローカルのものも含む各種新聞や週刊誌の棚がある。何気なくそれに目を向けると、見出しに踊っているのは先の大規模侵攻のこと、そして「近界遠征」の文字だ。
それは太刀川からしてみればむしろ馴染みの深い四文字だったが、本来はボーダーの機密事項である。先日ボーダーが開いた会見の際、色々あって遠征計画を公表することになったらしい。太刀川はその会見自体は見ていないが、その会見の顛末も含めてボーダー内でもすっかり話題沸騰だから流石に概要くらいは知っている。
――どうやら「第二次大規模侵攻」と名付けられることになったらしい、先日の侵攻からもうじき二週間ほどが経過する。まだそれだけしか経っていないはずなのに、驚くほど早く、街はいつも通りを取り戻しつつあった。
勿論、人的被害はボーダー内部のものに留められたとはいえ、被害の大きかった地域にはまだまだ爪痕は生々しく残ったままだ。瓦礫の撤去、壊された建物の修復、被害に対する保障、怪我をした人たちの治療、ほか諸々。しかしこの街にとってこれが初めてのことではないし、ボーダーも三門市民の生活の再建に尽力しているところだ。
太刀川の通う大学だって、あの侵攻から数日間は臨時休講となっていたが、一週間も経たないうちに延期になっていた講義や試験が再開された。このまま春休みに入れたらよかったのにと太刀川は本音では思っていたが、しかしどうにか、今年度の講義や試験、期末レポート提出を全て終えて――その出来がどうだかはさておいて――先日ようやく春休みに入れたところである。あとは教授の温情を祈るのみだ。
街は日常を取り戻しつつある。生活をしなければいけないから。どれだけの被害があったって、どれだけの激戦があったって、明日は来るし日々は続いていく。非日常は日常に吸収されて回っていく。
コンビニの弁当の棚は、この時間だからもうすかすかになっていた。この時間帯の防衛任務になればこれもいつものことだから仕方がない。もっと潤沢な選択肢から選びたいならば行く前に買っておけばよかったのだが、そんなことをするほど太刀川はマメではないしこだわりがあるわけでもなかった。
棚を眺めていると、太刀川のお気に入りのうどんが一つだけぽつんと残っているのが目に入った。お、ラッキー、と心の中で呟いてそれを手にとってレジに持っていく。太刀川とそう歳も変わらなそうな店員が、少しだけやる気のなさそうな慣れた手つきでそれをレジに通していく。
いつも通りの日々だ。あまりにも。それぞれに折り合いをつけながら、どこかでみんな、この「日常」に慣れつつあるところがあった。それは太刀川だってそうだった。
遅めの夕飯を食べ終えて、器を片付けようと思ったところで玄関のチャイムが鳴る。来客の予定などなかったので、何だ、と一瞬思うけれど、こんな時間に予告もなく訪れる人物なんて限られていた。
玄関に行ってドアを開けると、予想通りの人物が立っていた。顔を見て、こいつの顔を見るのは久しぶりだなと思う。開けたドアの向こう側には、まだ雨のにおいがうっすらと残っている。
「こんばんは、太刀川さん」
そう言って、目の前の男はわざとらしいくらいにへらりとした食えない表情を顔に貼り付けて笑う。この寒空の下いつもの薄手の青いジャージを着たままのこの男は今もトリオン体のようだ。青い目がゆっくりと動いて、太刀川を見る。
「ちょっと久しぶりだね。……なんか、太刀川さんの顔見たくなっちゃってさ」
別にいきなり予告なく訪問されたからといって、怒ったり不機嫌になったりするような間柄ではない。そのまま部屋の中に招き入れると、迅は玄関で換装を解いて生身に戻った。一応ニットを着ているとはいえ真冬の夜には些か軽装ではないかという服装に、本当こいつはずっとトリオン体で通してるんだなと少し呆れるような気持ちになってしまった。別にそれは、迅の自由ではあるけれど。
迅と会うのは、先の大規模侵攻があって以来初めてのことだった。あれから数日は勿論誰もがバタバタしてはいただろうが、特に玉狛の人間である迅は色々とあったのだろう。先日の会見に乱入して近界遠征計画の話をし出したのも玉狛の後輩であるらしいし。他にも太刀川は詳しいことは知らないが、迅があっちこっちで何かを調べたり報告を上げたり、何やかんや動いていたらしいという風の噂程度のことは耳に入っていた。
迅を居室に通して、入れ替わるようにして太刀川は先程片付けそびれた夕飯のうどんの器をキッチンに持っていく。水道の蛇口を開けると、ざあ、と水の音が部屋の中に静かに響いた。コンビニ弁当用のプラスチックの器を流水で軽く洗いながら、太刀川はキッチンから迅に向かって声をかける。
「そういえばメシは?」
迅はもう食べたのだろうか、この時間だからもう食べてるか、と思いながら聞くと、迅の声はすぐに返ってくる。
「本部で食べてきたよ。今日からかわいい後輩のランク戦だったからさ、ちょっと覗いてきた」
「あー」
言いながら、太刀川は水道の水を止めた。流水の音が止んで、部屋の中が再び静かになる。軽く水気を払ってから器をゴミ箱の中に放ると、中にある他のごみとぶつかって小さな軽い音がした。タオルで手を拭いてから居室に戻ると、ベッドを背もたれにしていつものように寛いでいる迅と目が合った。
「今日からB級のランク戦だったか」
そう聞けば、迅は「うん」と頷いた。太刀川は迅の隣に腰を下ろす。後輩、というのは少し前に玉狛支部所属として入隊した中学生三人のことだ。先日正式に隊を組んで、今期からB級ランク戦に参加し始めたらしい。
「なかなかインパクトある試合だったから、興味あれば太刀川さんも後で記録見てみるといいと思うよ」
「まじか」
いたずらっぽく笑う迅にそう返す。そういえばその迅の後輩の一人である近界民の少年を入隊させるかどうかで迅と本部で一悶着あった時に、迅はそのうち上に上がってくると思うからよろしくだとか言っていたっけ――なんてことを思い出していた。きっとなかなかに強い、できるやつなのだろう。
と、迅がそこで言葉を切ったことに気付く。会話が途切れたことを不思議に思って迅の方を見やれば、その横顔は思いがけず静かなものだった。先程家に来た時のへらりと本音を掴ませないような笑みは鳴りを潜めて、何か考えるように、その青い目が遠くを見つめている。
何か明確な理由があるわけじゃなかった。ただ、考えるよりも体の方が先に走って、隣の迅との距離をぐっと詰めた。腕が触れて、服の布地越しに体温がじわりと伝わる。それに気付いた迅が少しだけ驚いたような顔でこちらに顔を向ける。
覗き込むみたいに迅と目を合わせると、迅がひとつ瞬きをした。青い目が一度伏せられて、再び太刀川をその瞳の中に映す。迅は何だか少しだけ困ったように、でも何だか少しだけうれしそうに、その目の奥をわずかに揺らす。
「太刀川さん」
こちらが口を開くよりもほんの一瞬早く、迅が太刀川の名前を呼んだ。それを合図にするみたいに、迅の顔が近付いてくる。寄せられた唇を、唇で受け止めた。触れた唇は記憶よりも少しだけかさついていて、そしてじっとりと熱いように思えた。久しぶりだから余計にそう思うのだろうか。
迅の唇が触れただけで離れていくので、そんなのだけで満足するわけはないと、こちらから追いかけるように再びキスをした。逃げられないように頬に手を添えると、一瞬の間の後迅の口の端が小さく上がったのを触れ合った唇から感じ取った。口付けはすぐに深くなって、絡んだ舌のざらついた感触と熱さにぞくりと期待が体の奥の方を駆けていく。
迅の熱が全部中まで入って、太刀川は呼吸を整えようとするように深く息を吐いた。散々焦らされた体では、中に迅が入ってきたというだけでひどく温度を上げてしまう。
何度かキスを繰り返した後、そのまま二人でベッドに縺れ込んだ。久しぶりになっちゃったから、なんて言って迅は殊更丁寧に体を拓こうとしてくるが、それも度が過ぎれば焦らされているようなものだと太刀川は思う。
別にそんな丁寧にしなくていい、好きなようにすればいい、と普段から迅には何度も言っているのに、迅はその度に困ったように衝動を噛み殺そうとでもするように眉根を寄せるばかりだ。頑固なやつだ、と思う。その頑固さも太刀川は嫌いではないのだが、こういう時にはどうにかしろなんて文句の一つでも言いたくなる。
腰をほんのわずか動かされると、それだけで繋がった部分からじわりと性感が駆け上がってくる。その感覚と、条件反射のようにどうしたって抱いてしまうこの先への期待で太刀川は小さく体を震わせた。そんな太刀川の反応を見逃さない迅は、ゆるりと口角を上げる。
「気持ちい?」
少しだけ舌っ足らずな声。格好つけてばかりの普段のこいつでは絶対に聞けないような、油断した、甘ったるい声だ。かわいいやつ、と思うのと同時に、そんな迅の声を聞けることに優越感を抱いてしまって我ながらおかしい。再び迅が腰を動かしてきて、内側を撫でるように擦られると声が零れてしまう。
「ん、っ……、気持ちいい、もっと」
そう言って強請ると、迅は得意気にすうと目を細めた。冷静ぶって主導権を握ろうとするくせに、そうやって垣間見える表情に迅の本音を見つけた気がして、もっと引きずり出してやりたくなってしまう。特に、今日は――なんて思っていたところに、「りょーかい」と言った迅がぐっと腰を押しつけるみたいに奥を穿ってきたので性感の強さに思考が途中で途切れてしまう。
「~~ッ、あ、ぁ」
声を零して腰をしならせる。中をきゅうと締め付けてしまうと、迅も息を詰めたのが分かった。は、とすぐに吐き出された迅の短い息がざらついていてまるで肉食獣みたいで、それに煽られてしまう。迅も同じように興奮している、と思うと太刀川もぐんと高揚させられた。
ゆっくりと迅が腰を引いて、今度は浅いところを探られる。その刺激自体は強いものではないのに、太刀川の弱いところを既にすっかり覚えている迅はそこを外さずに擦ってくるものだからその度に太刀川は呼吸を乱した。ぐるぐると、体の中を巡っていく熱が着実に膨らんでいくのを感じる。
迅とこういった意味での付き合いを始めたのは、それこそ玉狛の後輩の一件の後――迅が風刃を本部に渡して、A級に戻ってきて間もなくのことだった。
迅がS級になって以降なんとなく微妙なものになっていた距離があれをきっかけに戻って、そして迅がどこか観念したような表情で、しかしすっきりともしたような表情で、太刀川に告白をしてきた。「太刀川さんのことが好きなんだ」そう言った後に、「ずっと」だなんて言葉を付け加えて。それを聞いて返事をするために太刀川も自分の気持ちを見つめ直して、ああそうか、とすとんと自分も不思議なほど素直に腑に落ちたような心地だった。この男にずっと抱いてきた、名前のつけきれない複雑で特別な感情の名前は、きっと自分も同じだったのだと。
恋人になってから少しして、体を重ねた。お互い男相手は初めてで手探りのまま始まって、最初こそ慣れなかったこの行為も、何度も重ねるうちにすっかり馴染んだように思う。始めの頃は後ろの感覚は違和感の方が強かったのが、今ではちゃんと気持ちよさを感じられるようになっていた。人間の体ってすげえな、と他人事のように驚いてしまう。
後ろで高められた熱が、全身にじわりと広がって、体を熟れさせていく。自分一人では知ることのなかった他に例えようのない感覚を、教え込んできたのは間違いなく迅だった。
セックスだけじゃない。ランク戦の時の楽しさも、ひりひりするような高揚も、お前じゃなきゃなんて執着するこの気持ちも――。
先端が前立腺を掠めて、びくりと大袈裟に腰が跳ねた。すると迅が繰り返しそこを優しく撫でるみたいに擦ってくるので、その度に体を震わせてしまう。迅に中から触れられる箇所は今となってはどこも気持ちが良いけれど、この場所は格段に感覚が違う。少し触れられるだけでも過剰に快感を拾ってしまう。そしてそんなことはもうとっくに迅にはバレている。迅と体を重ねた回数はものすごく多いというわけではないが、こいつらしいというか何というか、迅は太刀川とのこうした触れ合いのコツを掴むのがいやに早かった。
「あ、っ……ぅあ」
迅が動く度に口からは声が零れてしまう。繋がった場所から多すぎるほどのローションが立てる淫猥な水音と共に、途切れない自分の声を時々耳障りに思う。しかし迅はそれこそが嬉しいと言わんばかりに太刀川の体に触れるだけのキスを落とした。すっかり硬くなった太刀川の自身は、しばらく放っておかれているにも関わらずとろりと先走りを零して濡れている。焦れるように浅く吐き出した自分の息が熱い。強い快楽に耐えるように、太刀川はシーツをぎゅっと握りしめた。
「迅、もっ、と、奥」
今だって気持ちが良いけれど、浅いところばかりの感覚では足りない。もっと深いところの感覚を知っている体が、それをずっと待ちわびて期待しているせいで、もどかしさがじりじりと募った。太刀川の言葉に、迅は煽られたようにぐっと唇を噛みしめた。ひどく雄くさい、欲に濡れた顔。太刀川の好きな顔だ。
もっとそんな顔をさせてやりたくなって、もう一度急かすように「じん」と呼ぶ。いつだって余裕ぶることを好むその顔が、繕いきれないみたいに熱を灯して歪む。
「そんなやらしい顔で煽んないで」
それなのに迅がそんなことを言うのだからおかしい。その言葉をそっくりそのまま返してやりたくなって、太刀川は知らずにまりと口角を上げていた。
「どっちが」
言えば、迅はまた困ったように「だから、そーいう顔」と眉根を寄せて小さく笑った。
運動をしているせいで少し乱れて落ちてきた前髪を、迅が邪魔そうにぐっと掻き上げた。その雑な手つきに迅の余裕もあまりもうないのだろうと感じさせられて、それに妙に煽られてしまう。共鳴するみたいに気が急いて、もう一度名前を呼ぼうとしたところで迅が再びぐんと奥を突いてきたせいで開いた口からは一際無防備な声が零れてしまった。
「ぅ、あ……ッ!」
強い刺激に体が跳ねて中をきゅうと締め付けてしまうと、中にいる迅も膨らんだのが分かった。迅が眉根を寄せて、表情のみだりがわしさを増す。
迅がそのまま腰を動かしてくるので、先端が奥を何度も掠めて、その度に呼吸がどんどんと荒くなっていく。シーツを握りしめた手にまた力が入って、手の中のシーツがぐしゃりと皺を深くした。自分の下肢からまた先走りが零れる感覚がする。自身がぬるぬると濡れていく感覚は心地の良いものではないはずなのに、今はそれに構っている余裕なんてなかった。
「迅」
今度こそ名前を呼ぶと、迅の瞳がゆっくりと動く。太刀川と正面から目が合って、その奥にくらりと揺れる熱をみた。
それが嬉しくて、じわりと自分の心の奥底にある独占欲のような優越感のような感情が満たされていくのが分かって、そんな気持ちのまま繰り返し名前を呼ぶ。
「じん、……じ、――ッ!」
声の途中で今度はそれを唇に塞がれた。唇を塞ぐ直前にちらりと見えた迅の表情はそれはひどいもので、それにたまらない気持ちにさせられた。
衝動みたいな、噛みつくみたいな不格好なキス。迅の唇は先程よりももっとずっと熱く思えて、このままずっと触れ合っていたら茹だってしまうんじゃないかとすら思えた。
下手くそな角度で重ねられた唇を取り繕うように、一度離れてからまた重ねられる。柔らかくて熱くて、気持ちが良くて、しかしそれだけでは足りなくてこちらから舌でぬるりと唇をなぞってやると迎え入れるみたいに迅の舌も伸ばされた。舌が絡んで、そのざらざらとぬるついた熱さが心地が良くて夢中になって貪ってしまう。と、その途中で腰を小さく揺らされて、思わず上げそうになった声は迅の口の中に吸い込まれていった。
呼吸が苦しくなった頃にようやく唇が離される。互いの間をもはやどちらのものか分からない唾液の糸が伝うのがひどくいやらしく見えた。はあ、と吐き出された迅の息が唇に触れて、その熱さにまたぞくぞくとさせられる。
「たちかわさん」
小さな、欲に掠れた声だった。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの。名前を呼ばれたから、目線を上げる。迅を見ると目線はすぐに絡んだ。
薄暗い部屋の中、雑に閉めたせいで隙間が空いたままのカーテンから漏れた月の光に照らされて迅の瞳が鈍く光っている。
その青い目が、ひりひりするほど切実な色をしていて、その表情がなんだかひどく年相応に見えて。
太刀川はシーツを掴んでいた手を離す。その手を伸ばして、包み込むみたいに迅の頬に触れた。親指の腹で目尻をゆっくりとなぞると、迅は驚いたようにその青を小さく見開く。
「なに、」
「泣いてるみたいに見えたから」
そう言うと、迅はまた不意を突かれたように目を丸くした。これは視えていなかったのだろうか、と太刀川はちらりと思う。けれど、こうして取り繕わない表情をみせる迅のほうが太刀川は好きだった。自分だけ何でも分かったみたいな表情をして、すかしている時よりもずっと。
迅が何か言おうと口を開いて、少しだけ言葉に迷うようにしてから、ゆっくりと太刀川に返す。
「……泣いてないよ」
「みたいだな」
するり、と触れたままだった親指を目尻から奥に流していく。ぴたりと迅の頬に触れる手のひらの面積を増やすと、それを追っていた迅の目が小さく細められた。迅の瞼が一度落ちて、すぐに開かれる。迅の睫毛が小さく揺れる。ただの瞬きだというのに、その仕草が何だか妙に目に焼き付いてしまった。
迅の手がそっと太刀川の手首に添えられて、迅が顔を動かしてその手首の内側に柔らかく口付けられた。先程までの貪り合うようなキスとは違う、まるで子どもだましみたいなその幼いキスをくすぐったく思って、ふ、と小さく息を零す。それに気付いた迅が太刀川を見て目だけで笑った。
不意にベッドに縺れ込む直前の迅の表情を思い出す。どこか遠く、太刀川の知り得ないところに思いを馳せるような表情。それになんとも形容しがたい、言葉に乗せきれないような感情が太刀川の中に芽生えたこと。
けれど今の迅は、過去でも未来でもない、目の前の太刀川だけをまっすぐに見つめている。
「太刀川さん」
今度は、太刀川にはっきりと届ける意思を持った声だった。熱っぽくて甘ったるくて、だというのにその奥にひりついた凶暴さを孕んでいる。太刀川だけが知っている、迅らしい声だった。
その視線が、声が、違わず自分だけに手渡されること。それにひどく満足して、嬉しくて、ああ俺はこの男が好きなんだなと自分の中の感情を思い知る。知ってしまえばそれは自分の中にぴたりと嵌まるようで、つい最近になるまで長いこと自覚せずにいられたことが不思議でならなかった。
何だ、と促すつもりで迅を見つめ返す。太刀川から視線を返されて、迅の表情がちいさく綻んだように見えた。
「おれ、そろそろイきたい」
わがままぶった子どもみたいにしてそんなことを言うので、太刀川は呆れたような声を出してしまう。
「いいぞ、っつーか散々焦らしてたのはおまえだろ」
太刀川が言うと、迅はくっと苦笑した。
「それはごめんって。……でも、焦らした方が後が気持ちいいでしょ?」
その言葉の後、迅はそれを証明しようとでもいうみたいに腰をぐっと動かした。その刺激に、「っあ……」と声が零れてしまう。太刀川の反応に迅は嬉しそうに表情に笑みを浮かべた後、ずっとほったらかしにされていた前に手を伸ばしてくる。既に先走りをひっきりなしに零すくらいになっていたそこは、指先でなぞるみたいに触れられただけでぴりぴりとした性感を拾ってしまって体が震えた。骨張って男っぽい太刀川の手よりもすらりとした器用な指が柔らかく太刀川の性器を包んで、親指で先端をくるくると遊ぶように弄られると、それだけでもひどく性感を拾ってしまってとろりとまた先走りが零れ落ちていく。
「迅、っ……」
名前を呼ぶと、それだけで迅の表情がまたわずかに綻ぶのを見てとった。それに、かわいいやつ、なんて思う。
普段は全然素直じゃなくて本音を見せるのを嫌がって恥ずかしがる迅が、ベッドの上では気が緩むのか時々こんな風に素直な表情をみせてくれることを、太刀川は密かに気に入っていた。優越感もある。あの迅がベッドの上でこんな可愛げをみせるのだと知っているやつは、他にどれだけいるだろう。――初めて体を重ねる前、迅は太刀川が初めてだと言っていたから、きっとこんな迅は自分しか知らないのだ。
前を扱かれながら後ろも突かれると、限界がくるのはあっという間だった。
「ぃ、っ……あ、あ、やばい、も……出る、じん、っ」
揺さぶられながらうわごとのように言うと、迅が「うん」と返す。その声もすでにすっかり張り詰めて、迅も限界が近いことを感じさせる。刺激を与えられるたび耐えきれず後ろを締めてしまうので、そりゃあ迅ももう相当きついだろうと熱に浮かされた頭の中で思った。内側で感じる迅が熱くて、前を器用に弄ぶ手が与えてくる刺激に頭が痺れるようで、気持ちいい、ということ以外を考えられなくなっていく。
強い性感のせいでくらりと眩む視界の中、もう一度迅の顔を見上げた。その目はもうどこか遠くなんて見ていなくて、目の前の太刀川を射抜くように見つめて、余裕なんてない欲に濡れた色をしていて。その青色の中に自分だけが映っているのを見つけた瞬間、ぐっと心臓を掴まれたような心地になってしまった。きゅうと後ろを締め付けてしまって、それに迅が息を詰めて眉根を寄せた。こちらの体の反応にすぐ迅の反応が帰ってくるから、繋がっているのだということを実感させられる。
それだけのこと、と言われればそうだろう。それにここまで自分の感情が揺さぶられるのが自分でもおかしい。だけど止められやしない。だって、ずっと――いつだってこの目が一番欲しかった。
「太刀川さん、一緒にイこ?」
わざとらしいくらい低くて甘ったるい声を作って迅が太刀川の耳元で囁く。それに返事をする前に迅が再び奥を突いてきて、一緒に先端を強く押されるように擦られれば、目の前がばちんと白く弾けた。
「っあ、ぁ、あ……――ッ!」
先端から勢いよく白濁が吐き出される。迅と会っていない間は自慰もしていなかったから、久しぶりに感じる解放の気持ちの良さに体がびくびくと震えて止めることができなかった。同時に後ろを一際強く締め付けてしまうのも止めることなんてできやしなくて、その刺激で中にいる迅も達する。熱いものが中に注がれて、達したばかりで敏感な体にはその刺激はひどく強くて、強い性感をどうにかしていなそうと太刀川は震える息をゆっくりと吐き出した。
お互いの呼吸の音が少し落ち着いてからも、余韻に浸るみたいに迅は中からそれを抜こうとしなかった。それ自体は別に構わないのだけれど、達したというのにまだ萎えきっていない迅自身の熱を中に生々しく感じ続けているせいでじくじくとした体の熱がなかなか引ききってくれない。
体の熱をいなそうとしていると迅にじっと見られていることに気付いて、太刀川も迅の方を見る。目線が絡んで、迅が僅かに目だけで嬉しそうに笑った。しかしその目の奥にはまだぎらついた欲が灯ったままで、それにぞくりと興奮の芽のようなものを再び起こされてしまった。
暇さえあれば未来を視たり、あっちこっちいろんなところに暗躍だとか言って顔を出している迅が、今この瞬間、目の前の太刀川だけを、まっすぐに見つめている。
「ねえ、太刀川さん、……あっついね」
いつもの飄々と演技がかったような声じゃなくて、少しざらついた、熱っぽい声で迅が言う。取り繕うことなんて忘れたみたいなその表情と声色に、ああこういう時のこいつが好きだな、なんてことを思った。
「だな、……っ」
真冬で寒いはずなのに、体中が熱を持ってやまない。迅とこうして体を触り合って、探り合って、いやらしいことをしているということを俯瞰的に思い出させられてなんだかおかしかった。
迅の汗がひとすじ、輪郭を伝っていくのを見つけてそれをなんとなく視線で追っていた。それがぽつりとこちらの胸の上のあたりに落ちてきて、太刀川の肌の上に小さな水たまりを作った。
「あ、ごめん」
気付いた迅がそう太刀川に言う。そんなの今更気にしないので「別に、いい」と太刀川は返したけれど、迅は手を伸ばしてきてその汗を親指の腹でそっと拭う。迅の指で伸ばされた汗が肌に馴染んで、太刀川の汗と混じり合って、むしろそっちの方がなんだかいやらしいように思えてしまった。
一回吐き出したはずなのに迅の目はまだ高い温度のまま揺れていて、それがランク戦で相対した時のそれと不意に重なった。そう思ってしまえば、言葉がつい口を突いて出てきてしまう。
「なあ、おまえさ、……ランク戦、いい加減来いよな」
太刀川が言うと、迅はぱちくりと目を瞬かせる。
「え、今それ?」
驚いたような迅の声色に、太刀川は小さく息を吐き出す。
「今だからだろ。おまえ、ランク戦の時と同じ目してるから」
どうやら迅はそんな自覚はなかったようで、小さく目を見開いた後耳をじわりと赤く染めた。先程まであんなにわがままぶって太刀川の体を暴いてきていた、なんなら今だって自身を太刀川の中に突っ込んだまま抜いていないっていうのに、時々そんなよくわからないところで恥ずかしがったり急な可愛げをだしてくるものだから面白い。とどのつまりそんな迅が興味深くて、愛しさなんてものが湧き上がって、いつまでたっても飽きそうになんてないと思わされる。
「……、そう?」
「そうだぞ」
迅の言葉に即答してやると、迅は「あ~……」と気恥ずかしそうに少しだけ目を泳がせた。そうして気を取り直すみたいに瞬きをした後、再び太刀川の方に目線を向ける。
「……うん、そうだね、多分もう少ししたらランク戦もちゃんとできると思う」
そこで迅は一度言葉を切ってから、すうと息を小さく吸った。
「おれだってそろそろ太刀川さんと戦いたいからね」
そう言う迅のまなざしはどこか楽しげで、悪戯っぽくて、嬉しそうで――あの頃より顔立ちも随分と大人びてシャープになったはずだというのに、高校生の頃、毎日のように太刀川と迅が戦っていた頃によく似ていた。
この目が好きだった。
こういう関係になるよりも、ずっと前から。毎日顔を合わせてランク戦に明け暮れていた頃には、あまりに当たり前みたいに側にありすぎて気付けなかったこと。
三年と少し前。迅がS級になる時。
あの直前、少しだけ迅の様子が変だったことには薄々気付いていた。時々何やら考え込むような表情をしていたから。また何か、最善の未来のためだとか言ってあれこれ考えているのかとぼんやり思っていた。しかし迅が何も言わないから、こちらも聞かなかった。
風刃争奪戦のこと、それの所有者になればランク戦から外れることになるということ、自分はそれを獲りにいくつもりであるということ。伝えられたのは迅がすでに全部決めた後のことだった。迅はもう、すっかり覚悟を決めたような顔をしていた。
風刃争奪戦が終わってブースから出てきた時の迅は、今まで太刀川が見たことのない目をしていた。太刀川の大好きだった、太刀川をまっすぐ見据えていつだって強い色を揺らしていたあの瞳から、あの時はどんな感情も読み取ることができなくて、こちらを見ているのに見ていなくて――あの目のことを、太刀川はしばらく、忘れることができなかった。
すぐ目の前にいるはずなのに、どうしてだろう、どうしたってもう届かないように思えてしまった。
迅が決めたことで、これは迅自身のことなのだから、自分が何か言う権利などない。そう分かっていても、さみしいような、くやしいような、そんな風な思いが腹の中でぐるぐると渦巻いて止めることができなかった。自分らしくない。過ぎたこと、もうどうしようもないものに拘るなんて自分には無縁の感情だとずっと思ってきたのに。もし何かを変えられるとして、自分は変えたかったのだろうか? しかし、そんな埒の無いことを考えたって、時間が巻き戻らないことだって知っていた。
迅が太刀川に一言も言わず、自分一人で選択をしたこと。一人で進んでいくと覚悟したこと。その決意を揺らがせないためか、太刀川のことをそれからしばらく避けていたこと。
それは当時の太刀川にはどうしようもできないことで、だけどずっと、心の奥底にしこりのように残っていたことだった。
飄々と、軽やかに、軽薄にすらみせようと振る舞いたがるくせして、こいつは何でも自分一人で背負おうとする男だ。
みんながどうにかそれぞれの心の落としどころを見つけて、いつも通りの「日常」に戻っていったって、この男は自分の心の整理をつけることだけはどうも上手くないようだった。真面目というか強情というか、一見器用に立ち回っているように見えて、背負って悩んで、勝手に抱え込んでは、なのに何でもないように振る舞おうとする。迅悠一という男はそういう性分なのだと、もう短くはなくなった付き合いで太刀川だってとっくに気付いていた。
今日だってそうだ。太刀川には詳しいことまでは分からないけれど、また、何か考えているみたいな顔をしていたから。
吐精の余韻がお互いに落ち着いてきた頃に、ようやく迅がゆっくりとした動作で中から抜け出ていく。長いこと迅の温度が内側にいたからか、それが自分の中から出ていくことにいやに物足りなさや寂しさのようなものを感じてしまった。引きざまに先端が縁の部分を擦って、それについ吐息とも嬌声ともつかない小さな声を上げてしまったことにわずかに気恥ずかしさを覚える。
迅は自身からゴムを外していつの間にやらすっかり手慣れた手つきでその口を縛る。中に吐き出された白濁が重そうに揺れるのを太刀川は寝転んだままぼんやりと眺めていた。あれが中に出されたんだなぁなんてことを考えていると、じわりと得も言われぬ欲がまた頭をもたげるのを感じた。
迅の精液が入ったゴムがあっけなくゴミ箱に放られて、迅が再びこちらの方を見る。太刀川の表情を見た迅は、目を細めて悪戯っぽい笑みを浮かべる。そんなに表情に出ていただろうか、と少しだけ驚いてしまった。自分の顔は自分で見られないから分からない。
「ね、太刀川さん。もう一回いい?」
そう言って迅が再び太刀川の上に覆い被さってくる。それがいやに楽しそうな顔をしているものだから、こちらまで共鳴するみたいに何だか楽しい気持ちにさせられてしまった。
頷いて、迅に言う。
「俺だってまだ足りない」
太刀川の言葉に、迅はくっと子どもみたいに素直な表情で笑った。
「おれと一緒だ」
迅はそう言って、ヘッドボードに置いたままだったゴムの箱に手を伸ばす。
再び迅が中に押し入ってきても、もうすっかりぐずぐずに蕩けた中は何の抵抗もなくそれを受け止めた。内側がぴたりと迅の自身に絡みついて、薄いゴム越しの温度を伝えてくる。腰を動かされるとぐんと性感が駆けて、すぐにまた体が熟れていく。熱を高められていく。ついさっき出したばかりだっていうのに迅ももうすっかり固くなっているのがおかしくて、しかし自分だって人のことを笑えないくらい自身がまた頭をもたげ始めていた。
中にいる迅の熱が一番奥を擦って、びくりと体が震えた。それを見た迅が嬉しそうに口角を上げて、押しつけるみたいに先端を小さく揺らすので「ッあ、」と声が零れてしまった。内側を締め付けてしまって、迅も思わずといったように熱い息を吐き出す。しかし腰の動きは止めるどころかより速いものになって、内側からの刺激に何度も声を上げさせられてしまう。
荒い呼吸の音はどちらのものなのかすぐに分からなくなってしまった。呼吸も、温度も、触れたところから二人分が混ざり合って溶けていく。
けれど。こうして触れられる一番深いところで繋がったって、そこまでだとも知る。ひとつになれやしなくて、自分たちは個と個でしかなくて。
別々だからこうして一緒に遊べるし、違うからこそ、わからないからこそ面白い。そう思うはずなのに、だけど時々、こうして体を繋げていると、わからないことがどこかもどかしくて、もっとこの男のいちばん奥までが欲しいだなんて、そんな埒の無いことも思ってしまうことがある。
自分らしくないなんてことは自分こそが一番よく分かっていて、だけど、そんなうまく割り切ることのできない感情が生まれることがあるのだ。それはあの日以来、迅に対してだけ感じることのあるものだった。それを不思議に思う。しかし、それだけ迅悠一という男が自分にとって一言では言い表すことのできない、特別な存在であるということなのだろうと気付かされる。
――自分たちはもうボーダーの中でも、世間的にも、大人と数えられるような年齢に差し掛かっていて、こうしてあの頃はできなかった触れ合いだってするようになった。
子どもの頃には、大人になったらなんだってできるような気がしていた。今はわからないことも、整理のつかない感情も、どうしたって叶えられないことも、大人になれば解決するものなのだと漠然と思っていた。
しかし、大人になったってわからないこと、簡単に叶わないことは沢山ある。手を伸ばしたって体をつなげたってひとつになんてなれやしないし、相手の全部なんて分かりやしないし、全ての人を自分一人の力で救うなんて無理な話だ。それをこの年齢になった自分たちはもう知っている。
だけど。
迅が太刀川の弱いところを擦って、また声が零れた。その度に迅の目に嬉しそうな色が乗る。しかしそんな甘ったるい目線とは裏腹に、こちらを攻めたてる動きは緩められることはなく、またどんどんと性感を引き上げられていく。
「気持ちいい? ここ、好きだよね」
ぐり、と先程のところにまた押しつけるみたいに触れられると痺れるような性感が駆けて腰が震えた。
「ぅ、あ……ッ! そこ、気持ちい、」
途切れ途切れになってしまう声でどうにか返事をすると、迅が目を眇めて、衝動を堪えるみたいに、けれどひどく嬉しそうに口角を上げてみせる。
「うん。……太刀川さん、よさそーな顔してるもん。かわいい」
迅の熱を灯した瞳が、まるでほんのわずかな反応すら見落とすまいとするかのように、まっすぐに太刀川を見つめている。何もかもをつぶさにこの男に見られている、ということに気付かされた瞬間、慣れない羞恥のような感情が全身をぶわりと駆けた。しかし同じくらいに満足感や優越感のような感情もぐんと湧き起こるのだ。
あの頃のこと、あの頃の迅の目が、不意に脳裏に蘇る。それが目の前でぱちんと弾けた後、今の迅にその像が塗り変わる。
今この瞬間の迅が、こうして目の前の太刀川だけを見つめていること。迅がこうして、夜遅くにふらりと会いたくなったからなんて言って太刀川に会いに来ること、何の理由も必要なく手を伸ばしてくること。一番近くで、こうして甘えるみたいな表情をみせてくる相手が太刀川であるということ。
自分たちは大人になったからって無敵のスーパーヒーローになんてなれやしなくて、できないことだって沢山あって、だけど、あの頃とは違う。
目まぐるしい日々の中で、色んな事があって、それは嬉しいことや楽しいことだけではいられなくて、それでも自分たちは生きていく。日々は続いていく。
それでも今、二人で在ることを選べた自分たちだから。
あの頃よりもずっといい、と、そう思うのだ。
迅に揺さぶられながら、閉まりきっていないカーテンの隙間から夜の空をみた。月が光って、その周りを星が瞬いて、空には雲ひとつなくて、ここからは数時間前の雨の気配などもうすっかり見て取ることはできなかった。
迅が前に手を伸ばしてきて、触れられるとそれだけで太刀川の自身は期待するみたいにふるりと震えた。そこはもう零れた先走りでしとどに濡れていて、熱が解放されるのを今か今かと待っている。後ろを刺激されながら前を擦られて、強い性感に声を止めることができない。後ろを締め付けてしまうと、中にいる迅もまた大きくなったのが分かった。
「ッあ、ぁ、あ……!」
こういう時の迅は手加減なんてするはずもなくて、ランク戦の時にみせる負けず嫌いや普段はへらへらと隠してばかりの本気さに、こんなところで相似を感じさせられる。今こうして太刀川の体に触れて暴いてくる迅も、ランク戦で太刀川に勝ちたいという気持ちを隠しもせず向かってくる迅も、どちらも同じ迅悠一なのだと思わされて、そんなことを思えばこちらだってさらに高揚して興奮してたまらない。
鈴口を軽く爪を立てるみたいにして強く刺激されて、びくりと体が勝手に震えた。とぷりと先走りがまた零れて迅の手を汚していく。かと思えば息つく暇もなく内側を長いストロークで擦りながら引かれた後、ぐんと奥まで突き上げられて、強い性感に反射的に視界がじわりと滲んだ。あまりに性感が強いと涙が勝手に出てきてしまうのだということは、迅と体を繋げるようになってから知ったことだった。さっきは迅に泣いてるかと思ったなんて言ったくせに、結局こっちが泣いてるみたいじゃねーかなんて浮遊しかける意識の片隅で思ってなんだかおかしかった。
「じん」
限界が近付いて、自然、名前を呼んでいた。迅の瞳が太刀川を見つめる。その青い目が照明の落とされた部屋の中でもいやに綺麗に見えて、ぼやけた視界の中でもその色は違わずとらえることができて、好きな色だな、と思ってなんだか嬉しくなってしまう。
「迅……、っ、じ、ん」
名前を呼ぶ度、迅の表情が柔らかくなるのがかわいく、愛しく思えてならなかった。その気持ちのまま迅の首に手を回すと、迅が顔をぐっと近付けてきて頬にキスを落としてくる。触れて、離れたと思ったら今度は額に唇が触れる。肌に触れた柔らかさと吐息の熱さにまた煽られるけれど、しかしそっちじゃないと言いたくてもう一度咎めるように「迅」と名前を呼ぶ。
そうすると迅は、どうせ分かっていたのだろう。楽しそうで性質の悪い、いやに子どもっぽい笑みを浮かべてから、今度は正しく唇に唇を寄せてくるのだった。
◇
翌朝の迅はすっかりいつも通りの様子で、昨夜ちらりと見せた表情などすっかりなりを潜めていつもの飄々とした顔に戻っていた。家にあった適当なパンをかじって朝食を済ませ、出かける支度をする。
開いたカーテンから差し込む朝の日差しは少し眩しく思うほどに明るかった。昨日着てきた服のまま、携帯や財布やトリガーなど最小限の荷物だけをポケットに詰める迅の茶色の髪の毛が、朝日に照らされてちらちらと光る。支度を終えた太刀川は手を伸ばしてその髪の毛に触れた。そのままくしゃりとセットした髪を乱さない程度にかき混ぜてやると、迅が目線だけでこちらを見る。
その表情は驚いているわけではなさそうだったから、もしかしたら視えていたのかもしれない。こんな甘やかしのような仕草は本来素面の迅は嫌がりそうなものなのに、視えた上で避けなかったのならば、そんな迅にいやに可愛げのようなものを感じてしまう。
「ランク戦、ちゃんと来いよ。昨日聞いたからな」
目線が絡んだのを確認してから、そう言ってにやりと口角を上げてみせると、迅はふっと小さく息を吐いた後わざとらしい仕草で苦笑した。
「……わかってるって。今日すぐには無理だけど」
言った後、迅が「ああ、でも」と思い出したように付け足す。
「次の週末、ちょっと楽しいことがあると思うよ」
迅がそんな思わせぶりなことを言ってくるので、太刀川はぱちくりと目を瞬かせてしまう。ちょっと楽しいこと、って何だ。ランク戦か? と思ったけれど、迅の言いぶりだとまた違うことなのかもしれない。
「? なんだよ」
「それはお楽しみ。まあすぐ分かると思う」
何だろう、と考えていると、迅がぐっと距離を詰めて至近距離でこちらの顔を覗き込んでくる。間近に見た、透けるような澄んだ青い目の中に太刀川が映っている。太刀川がそれを認識したのとほとんど同時にまた迅が顔を近付けてきて、唇に唇が触れた。ひどくやわらかい、初々しくて恭しいような、そんな口付けは触れただけで離れていった。
さっきまで距離に戻ってから、迅がふっと楽しげに笑う。
「うん、これでまたしばらく頑張れる」
そう言う迅の表情が柔らかくて、かわいいな、なんてことを素直に思った。しかしその言葉は聞き捨てならなくて、太刀川は口を開く。
「しばらくとかやめろよ、また待たせる気か? とっととまたすぐ会いに来いよ。つーかおまえが全然本部にいないのが悪い」
迅には何かとやることがある、やらなきゃいけないこと、本人がやりたいと思っていることが山ほどあるということは分かっているつもりだ。しかしそんなことばかり言ってあっちこっち暗躍とか言って飛び回ってはまた長いこと待たされるのも、迅自身が自分の心をつい二の次にしようとしてしまうのも、たまったものではないという気持ちを込めて唇を尖らせる。
すると迅はひとつ目を瞬かせた後に、くっと小さく笑った。
「そうだね。……うん」
「そうだぞ」
「はーい」
迅がそんな子どもじみた気の抜けた返事をするので、それをなんだか妙に気に入ってしまった。
「早くまた遊ぼうぜ」
太刀川が言うと、迅は「それってランク戦のこと? それとも」なんて聞いてくる。太刀川が「どっちもに決まってるだろ」と返すと、迅は少しだけ照れたような顔をして「うん、……わかった」と頷いたのだった。
部屋を出ると、室内に居た時には分からなかったひやりとした冷たさが肌をさす。日差しはあたたかいのに、空気と時折吹く風はきんと冷えて今が真冬であることを感じさせられた。コートを着ていても手や顔など露出した部分はどうしても直接空気に触れるので、寒さに太刀川は小さく顔をしかめた。隣の迅は部屋を出る直前にいつものようにトリオン体に換装しているので、寒さなどどこ吹く風という表情をしていて少しだけこのやろうという気持ちになる。
太刀川は本部へ、迅は玉狛へ帰るというのでその途中の道までは二人で歩くことにした。このまま一緒に本部に行けばランク戦ができるのにな、と思うけれど、迅が「今日は玉狛に戻らないとなんだよね」と言うから仕方がない。早く戦いたいのは紛うことなく本音だけれど、迅の邪魔をすることまでは太刀川にはできないし、するつもりも毛頭ない。
昨夜のうちにはすっかり去ったと思っていた雨の名残は、外に出れば以外とまだ残っていて、歩道に小さな水たまりを見つけて二人でそれを避けて歩いた。水たまりは朝の日差しを反射してきらきらと光っている。
通勤通学ラッシュの時間を少し過ぎた街を並んで歩く。身長も大して変わらないので、歩幅だって大体同じだ。
遠くからガガガ、と工事の音が聞こえてきて、何だろうとそちらの方を見やれば、一部が壊れた建物の修復作業を行っているようだった。恐らく先日の侵攻の際に壊されたのだろう。太刀川の目線に気付いたらしい迅もそちらを見上げた。
と、不意に、迅が指を絡めてきたから驚いた。迅の方を見れば、迅も太刀川の方を見てしてやったりといったように口角をにまりと上げる。
「……いつも外ではそういうことするなって言うのはおまえのくせに」
そう言うと迅はわがままぶったような性質の悪い表情で、目を細めておかしそうに笑う。絡み合った指から伝わる温度はすっかり自分には馴染みの深くなったもので、この寒い朝には、その温度がどうにもあたたかく心地よく思えてしまう。
「いいじゃん。今日はそういう気分なんだよ。あそこの角曲がるまで」
「気まぐれにやったふりして、知り合いに会わないようにちゃんと視てんだろ、ずりーの」
「ずるいなんてひどいなー」
そう肩をすくめる迅は、しかし太刀川の言葉を否定はしない。ほんとこいつ、こーいうとこあるよな、なんて少しだけ呆れながらも、そうやって予防線を張りながらもこんな振る舞いをしてくる迅を好ましく思わないなんてわけがなかった。
再び前を向いて歩き出す。迅に絡められた手をこちらからも握り返してやると、迅が視線だけでこちらを見た。その瞳の奥がいやに甘い。素直じゃないんだか素直なんだか、そんなこの男の甘えをこうして許容する自分自身だって、結局それを楽しんでは嬉しく思っているのだ。